黄昏の荒野
「灰の街」を飛び出した白は、ひたすら北を目指していた。
北。そこにかつて母が語った「黎明圏」があると信じて。
背後で、街が騒がしくなる気配がした。
「黒の眸」が、自分という「鍵」を確保するために動き出したのだ。
(ここにいては、ダメだ……!)
街の境界線を越えると、そこは「黄昏の荒野」と呼ばれる、見渡す限りの不毛な大地だった。
鬼の支配が始まった百年前、人間たちの最後の抵抗線が敷かれた場所だ。今や、朽ちた兵器の残骸や、風化した人間の白骨が、黄昏の赤い光に照らされて点在している。
息が切れる。喉が張り付く。
奴隷として生きてきた白の体力は、決して多くない。
それでも、足を止めれば捕まる。
(お父さん、お母さん……私、どこへ行けばいいの)
「黎明圏」という言葉だけが、暗闇の中の細い蜘蛛の糸だった。
それがお伽話だと分かっていても、今はそれ以外に掴めるものがない。
(私は……ただ、静かに生きたかっただけなのに)
その時、背後の風切り音が変わった。
よどんでいた空気が、鋭く切り裂かれる。
「——そこまでだ」
冷たく、感情のない声。
白が振り返ると、数メートル先の岩肌に、いつの間にか漆黒の装束の男が立っていた。
黎だった。
「…………っ」
息が、凍った。
黎は、追跡の疲労など微塵も見せず、まるで最初からそこにいたかのように静かに白を見下ろしていた。
その背後には、「黒の眸」の隊員たちが、音もなく白を包囲するように展開している。
(……早い。どうして、こんなに早く)
「逃げられると思ったか」
黎は、ゆっくりと岩肌から降り立ち、白へと歩み寄る。
その手は、まだ剣にかけられていない。それがかえって、絶対的な強者の余裕を示していた。
白は、震える手で、父の形見の剣を抜き放った。
「……来るな!」
黎は、白が構えた剣を一瞥し、わずかに眉をひそめた。
「その剣……焔牙のものか。なるほど、裏切り者の忘れ形見というわけだ」
「父さんを、知っているの……?」
「知っているとも。王を裏切り、人間の女と交わった愚かな鬼だ」
「違う!」
白は、衝動的に叫んでいた。
「父さんと母さんは、愚かじゃない!二人は……!」
「愛し合っていた、とでも言うつもりか」
黎は、白の言葉を嘲笑うでもなく、ただ事実として切り捨てた。
「鬼と人の間に愛など存在しない。あるのは支配か、被食か、あるいは気まぐれな同情だけだ」
「あなたに、何がわかるの!」
「わかるさ」
黎の声が、一段低くなった。
「俺も、貴様と同じ『半鬼』だからな。その忌まわしい血が、どれほど世界に求められていないか」
「……!」
白は息を呑んだ。
昨日、感じた直感は正しかった。
(この人も、私と……)
「だが」
黎は続けた。
「貴様と俺は違う。俺は王の血を拝領し、鬼の秩序の執行者となった。貴様は、ただの『鍵』だ」
黎が一歩、踏み出す。
「大人しくしろ、白。王がお前を呼んでいる。今ならば、五体満足で連れていってやろう」
「……嫌だ!」
白は剣先を黎に向けたまま、後ずさる。
「私は『鍵』でも『贄』でもない!私は……!」
(私は、何?)
人間にも、鬼にもなれない。
この男の言う通り、どこにも求められていない存在。
「私は、ただ……!」
白の金色の瞳が、恐怖と絶望に揺れる。
「問答無用」
黎が、初めて腰の剣に手をかけた。
「任務を遂行する」
空気が爆ぜた。
黎の姿が、白の視界から消えた。
(——え?)
次の瞬間、白は自分が握っていたはずの剣が、はるか彼方に弾き飛ばされているのを見た。
腹部に、鎧の硬い感触。
黎が、白の懐に潜り込み、剣の柄頭でみぞおちを打ち据えていた。
「ぐ……っ」
呼吸が止まり、白はその場に崩れ落ちた。
あまりにも、速すぎる。
これが、黒の眸の副隊長。王の血を受けた半鬼の力。
「……抵抗するだけ、無駄だと言ったはずだ」
黎が、倒れた白の細い腕を掴み、無理やり立たせようとする。
その手が、氷のように冷たい。
(……捕まる)
(そして、私は「贄」にされる)
(お父さん、お母さんが遺してくれたこの命も、剣も、全部……)
恐怖が、白の心を塗りつぶしていく。
その時、黎の冷たい手に触れた腕から、封印されていた記憶が溢れ出した。
——炎。
——燃え盛る村。
——自分を庇うように立ち塞がる、父と母の背中。
『鬼に魅入られた女め!』
『裏切り者!あの鬼も、その子供も殺せ!』
人間の村人たちが、松明と鍬を持って二人を取り囲んでいた。
『美琴!ハクを連れて逃げろ!』
父・焔牙が叫ぶ。
『嫌……あなた!』
母・美琴が泣き叫ぶ。
『生きろ、我が光よ!』
父が、自分たちを逃がすために、鬼の姿へと変貌していく。
だが、その背中に、何本もの槍が突き刺さった。
母が、父を庇って、凶刃に倒れた。
『——やめてっ!』
白の、幼い頃の叫び声。
(やめて)
絶望が頂点に達した、その時。
混沌とする記憶の片隅で、もう一つの光景が重なった。
——炎の中、強く腕を引かれる感触。
父よりもずっと細い、けれど力強い手。
『——生きろ!走れ!』
誰かの声がした。
見知らぬ少年の声だった気がする。
炎と煙で顔は見えなかった。
ただ、その手に引かれるまま、我武者羅に村から逃げ出した。
あの手を掴まなければ、自分はあの場で両親と共に死んでいた。
(あの手は、誰……?)
「……やめて……」
黎が、白の異変に気づき、掴んだ腕を放そうとする。
「……なんだ、この力は……?」
白の全身から、黄昏の光を呑み込むような、濃密な「闇」が溢れ出した。
それは冷気であり、影であり、純粋な「拒絶」の力だった。
「——やめてえええええええっ!!」
白の絶叫と同時に、闇が爆発した。
ドゴオオオオン!
凄まじい衝撃波が、黎と周囲の隊員たちを吹き飛ばした。
「ぐっ……副隊長!」
黎は、数メートル後方で体勢を立て直したが、その表情は驚愕に染まっていた。
目の前の光景が、信じられなかった。
白を中心に、半径数十メートルの地面が、まるで腐敗したかのように黒く染まり、影が触手のように蠢いている。
白自身は、その闇の中心で、白銀の髪を逆立たせ、頭を抱えて苦しんでいた。
「あ……ああ……っ!いや……!いやだ……!」
(力が……勝手に……!)
白の意思とは関係なく、鬼の血が暴走している。
(こんな力、私は望んでない!)
(こんなの、ただの「呪い」じゃない……!)
「副隊長、あれは……!」
部下の一人が、恐ろしげに叫ぶ。
「……あれが、『鍵』の力か」
黎は、吹き飛ばされた衝撃でかすかに痛む腕を押さえながら、目の前の「力」を見据えた。
ただの破壊ではない。
空間そのものを「拒絶」し、「無」に還そうとする、凄まじい闇の力。
そして、その力の奔流の中で、黎は「痛み」を感じていた。
自分の脳裏に焼き付いて離れない、「人の記憶」——あの燃える村の光景が、白の暴走する力と共鳴し、激しい頭痛となって彼を襲う。
(なぜだ……。なぜ、この娘の力に、俺の記憶が揺さぶられる……)
「う……あああああっ!」
白は、自分の力に耐えきれず、再び絶叫した。
その金色の瞳は、もはや理性を失い、ただ苦痛と恐怖だけを映していた。
「——逃げろ!」
白は、その場から弾かれたように、闇の荒野へと再び駆け出した。
その速さは、先ほどまでの奴隷の少女とは比べ物にならない、鬼の瞬発力だった。
彼女が通った跡は、草木も岩も、すべてが黒く腐り落ちていく。
「追いますか!」
「……待て」
黎は部下を制した。
「あの状態では、近づけば我らも無事では済まん。……それに」
黎は、白が消えていった闇の先を、凍てついた瞳で見つめた。
(あの力は、まだ制御されていない)
(あれは……助けを求める、ただの叫びだ)
黎は、王の命令(捕獲)に失敗したという事実よりも、自分の心が、あの少女の「叫び」に共鳴してしまったことに、より大きな動揺を覚えていた。




