王の号令
燐国の中枢。
そこは、人間が住まう「灰の街」とは隔絶された、静寂と冷気、そして絶対的な力に満ちた空間だった。
「永遠の黄昏」の光さえ、ここではより濃く、重く沈んでいる。
鬼の王・紅蓮王が座す玉座の間は、かつて人間が築いた神殿を、そのまま鬼の様式に作り変えた場所だった。
巨大な柱が立ち並び、床には人間たちの怨嗟が凍りついたような模様が広がっている。
その中央、燃え盛る地獄の炎を思わせる、巨大な篝火の影の中から、ひとりの男がゆっくりと歩み出た。
紅の王――紅蓮王。
その姿は、人間が想像する「鬼」の異形とは異なっていた。
かつて人間の将軍であった頃の、壮麗な甲冑を思わせる装束を身にまとい、その顔立ちは神々しいほどに整っている。
だが、その瞳だけが、この世界すべての憎悪と、そして深い悲哀の色で、内側から燃え上がっていた。
玉座の間に集った鬼の諸将たちが、その王の威光にひれ伏す。
「——時は、満ちた」
紅蓮王の声は、決して大きくはない。しかし、神殿の隅々にまで染み渡るように響き渡った。
「かつて、人は我らを狩った。我らは人の怨念から生まれ、影として生き長らえた」
「そして今、我らが人を喰らう」
王は、かつて人間だった頃の記憶を辿るように、目を細めた。
「人が鬼を狩り、鬼が人を喰らう。この愚かな輪を、今度こそ終わらせる」
紅蓮王が手をかざすと、空間が軋み、黄昏の空が裂けるかのような凄まじい圧が諸将を襲う。
「愚かな人間共よ。その魂のすべてを喰らい尽くし、この輪廻を、終わらせよう」
「最終戦争」の宣言だった。
人間を完全に滅ぼし、この世界に「完全な静寂の闇」をもたらす。それが紅蓮王の悲願。
「王よ!我らの力、今こそ!」
「人間どもに、百年の絶望の続きを!」
鬼たちが歓喜に沸く中、紅蓮王は静かにそれを制した。
「だが、輪廻を終わらせるには『鍵』が要る」
「人の心を持ちながら、鬼の力を宿す、両者の血を融合させた『器』。それこそが、太陽を完全に封じ、永遠の静寂を完成させるための贄となる」
諸将がどよめく。
「そのようなもの、どこに……」
「見つけた」
紅蓮王は、玉座の間の暗がりへと視線を移した。
そこに、漆黒の装束をまとった男が、いつの間にか片膝をついていた。
「黎」
「……はっ」
黒の眸、副隊長、黎。
彼は、灰の街での任務から戻った足で、王の元へ参上していた。
「灰の街で、『反逆者ではない』と見逃した娘がいたな」
黎の背中に、冷たい汗が一筋流れた。
王はすべてお見通しだった。
「あの娘こそが『鍵』だ。白銀の髪、金色の瞳。それは、かつて我らを裏切った鬼・焔牙と、人間の女・美琴の間に生まれた禁忌の子」
(……あいつが)
黎の脳裏に、あの金色の瞳が蘇る。
あの時感じた「痛み」の正体。それは、自分と同じ「半鬼」の血が、王の血脈と微かに共鳴したからに他ならなかった。
「黎よ。貴様もまた、人の血を引く半鬼。だが、俺の血を受けたことで、人の記憶を封じ、鬼の秩序の執行者となった」
紅蓮王の、憎悪と悲哀に燃える瞳が、黎を射抜く。
「貴様に、特命を下す」
「その娘——白を、生きたまま連れてこい。世界の輪廻を終わらせる、最後の贄として」
「…………」
黎は、深く頭を垂れたまま、動かなかった。
王の命令は絶対だ。
だが、あの少女を「贄」として連れてくる。その言葉が、なぜか胸の奥の、封印したはずの「何か」を軋ませた。
(俺は、鬼のために生きてきた。王の剣だ)
(なのに、今、なぜ……)
「黎。貴様、何をためらっている?」
「いいえ」
黎は、心の揺らぎを、鬼の力で無理やりねじ伏せた。
彼は立ち上がり、冷徹な執行者の顔に戻る。
「御命令とあらば、必ずや」
「あの娘の心臓が動いていようと、止まっていようと、王の御前へ」
「……違う」
紅蓮王が、黎の言葉を遮った。
「俺が欲しいのは、死体ではない。絶望でもない」
「あの娘が、父と母の想いを胸に、『希望』を抱いたまま、俺の前に立つのだ」
「そして、その『希望』ごと、喰らい尽くす」
「…………御意」
黎は、これ以上ないほどの冷酷な任務を前に、己の心を捨てたはずの男として、静かに一礼した。
彼の脳裏には、もう一度、あの金色の瞳が浮かんでいた。
(俺は、お前を)
己の心の声が響く。
それが、王の血を受けた自分の宿命なのか。
それとも、人間としての記憶が叫ぶ、別の何かか。
黎は、その答えを出せぬまま、白を捕獲するため、再び黄昏の闇へと身を翻した。
時を同じくして。
灰の街の片隅で、白は「黒の眸」が再び街に集結しつつある異常な気配を感じ取っていた。
(……昨日の鬼だ)
あの、冷たい瞳の男。
胸騒ぎが、警鐘のように鳴り響く。
理由はわからない。だが、あの男は、今度こそ自分を殺しに来る。
(ここにいては、ダメだ)
白は、父の形見の剣を固く握りしめた。
(お父さん、お母さん……)
逃げる場所など、あるはずもない。
だが、ふと、幼い頃に母が語ってくれた「お伽話」を思い出す。
——北の地「黎明圏」。
そこだけは、鬼が侵入できない“光の結界”で守られている、と。
「……黎明圏」
お伽話だ。
だが、今の白にとっては、唯一の「希望」を意味する言葉だった。
(行くしかない)
白は、小さな石室を飛び出した。
鬼国の精鋭「黒の眸」と、王が求める「鍵」となった少女。
二人の、黄昏の荒野を巡る、長い逃亡劇が始まろうとしていた。




