黒の眸(くろのひとみ)
その夜、灰の街の空気は、いつもと違って張り詰めていた。
生ぬるい鉄の匂いが、ひときよいやに濃い。
白は、崩れた建物の瓦礫の陰に身を潜め、息を殺していた。
夜(とは言え、黄昏だが)の街外れでの残飯漁りは、彼女のような最底辺の奴隷にとって数少ない食料調達の手段だった。しかし、今夜は違った。
「——そこだ!逃がすな!」
人間の怒声と、甲高い金属音。
そして、それに続く、肉が断ち切られる生々しい音と、短い悲鳴。
(……粛清)
白は察した。
鬼への反逆を企てた人間たちを、鬼の手先が狩っているのだ。
だが、狩っているのは鬼ではなかった。
漆黒の装束をまとった、人間とも鬼ともつかぬ集団。
彼らこそ、鬼国の王・紅蓮王が直々に編成した、鬼国のための精鋭部隊——「黒の眸」。
その多くは、鬼の血をわずかに与えられ、人間以上の力と冷酷さを手に入れた者たちで構成されているという。
白は、見つかってはならない、と全身の感覚を研ぎ澄ませる。
関われば、反逆者と見なされ殺される。
「……ふん。この程度か。反逆とは笑わせる」
瓦礫の向こう、広場の中央に立つ一人の男が、月(黄昏の空に浮かぶ、鈍く赤い月だ)に照らされて立っていた。
黒の眸の装束は他の隊員と同じだが、その立ち姿だけが異質だった。
まるで、血の匂いと死骸に満ちたこの場所だけが、切り取られたように静まり返っている。
男が、手に持った剣の血を振り払う。
その顔は、驚くほど整っていた。しかし、その瞳は、凍てついた冬の湖面のように、何の感情も映していなかった。
彼こそが、黒の眸の副隊長、黎。
紅蓮王の秩序を遂行するためだけに存在する、最も冷徹な執行者。
(……鬼、じゃない。でも、人間でもない)
白は、自分と同じ「狭間」の存在であることを直感した。
だが、自分とはまるで違う。彼は「力」として完成され、鬼の秩序の側に立っている。
黎が、ふと顔を上げた。
その視線が、一直線に白の隠れる瓦礫の陰を射抜いた。
(——見つかった!)
全身が凍りつく。
心臓が喉までせり上がり、呼吸が止まる。
逃げなくては。だが、足がすくんで動かない。
黎が、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
一歩、また一歩。その足取りに一切のためらいはない。
彼はただ、そこにいた「反逆者の残党(と見なした存在)」を、処理しに来ただけだ。
白は、死を覚悟した。
まただ。人間からも、鬼からも、こうして排除される。
それが、自分の運命。
あと数歩で黎の剣が届く、その距離。
白は、恐怖で隠していたフードがはらりと落ちるのも構わず、固く閉じていた目を開き、自分を殺すであろう男の顔を、睨みつけた。
せめて、最期まで。
黎の足が、止まった。
灰色の瓦礫の中で、あまりにも目立つ白銀の髪。
そして、恐怖と、諦めと、それでもなお消えない微かな反抗の色を宿した——強く輝く、金色の瞳。
それが、黎の凍てついた瞳と、真正面からぶつかった。
「……!」
黎の表情が、初めてかすかに歪んだ。
それは驚きでも、憐れみでもない。
「痛み」だった。
(なんだ……この感覚は)
その金色の瞳に見つめられた瞬間、黎の脳裏に、彼自身も知らない記憶の断片が、閃光のように走った。
——燃える村。泣き叫ぶ少女。守れなかった、温かい何か。
(人の、記憶……?馬鹿な)
鬼の力と王への忠誠で塗りつえしたはずの、人間だった頃の残滓。
それが、目の前の少女の「瞳」によって、こじ開けられようとしていた。
黎の剣先が、コンマ数秒、白を捉えるのをためらった。
その動きは、彼自身にとってありえない「失態」だった。
「副隊長!どうかなされましたか!」
部下の一人が、怪訝な声を上げる。
黎は、はっと我に返り、舌打ちしそうになるのを必死でこらえた。
目の前の少女は、怯えた鼠に過ぎない。
だが、この「揺らぎ」はなんだ。この異質な髪と瞳の色は。
「……ただの残飯漁りだ。反逆者ではない」
黎は、自分でも信じられない言葉を口にしていた。
そして、その声が、任務遂行者のものではなく、一瞬だけ「人間」のものとして揺らいだことに、彼自身が最も動揺していた。
「行くぞ。任務は完了した」
黎は白に背を向け、冷徹な仮面を貼り直す。
部隊は、血の匂いを残して、あっという間に黄昏の闇に消えていった。
「…………」
瓦礫の陰に、白だけが取り残された。
死を覚悟していた心臓が、今更になって激しく鼓動を打っている。
(……助かった?)
なぜ?
あの男は、間違いなく自分を殺そうとしていた。
なのに、なぜ見逃した?
あの、最後の瞬間に見た、凍てついた瞳の奥の、一瞬の「苦悩」。
それは、灰色の街で生きてきた白が、これまで一度も見たことのない、鬼とも人とも違う、不思議な色をしていた。
白は、震える足で立ち上がり、落ちたフードを深く被り直す。
金色の瞳と白銀の髪。それは、この世界で生きていくには、あまりにも目立ちすぎる呪いだった。
(あの瞳……)
白は、自分の胸に手を当てた。
恐怖ではない。別の何かが、心の奥で、小さく芽生えようとしていた。
この黄昏の世界を変えたい。
両親の想いを、お伽話で終わらせたくない。
そのためには、力が必要だ。
だが、自分の中にも「鬼」の血が流れている。
もし、自分もあの「黒の眸」の男のように、鬼の力に呑まれてしまったら——。
いや、違う。
白は首を振った。
(私は、どちらも否定しない)
自分の中の「闇」の力。
それを、ただの呪いとして恐れるのではなく、この黄昏を照らすために使えないか。
白は、灰色の空を見上げた。
黎との出会いは、彼女の心に、初めて「なぜ?」という意志の火を灯した。
それは、北の地「黎明圏」の伝説へと、彼女を導く最初の光だった。




