黄昏の街
太陽は、もう百年も昇っていない。
空は常に、血を薄めたような鈍い赤色に染まっている。鬼たちが「永遠の黄昏」と呼ぶこの空には、希望も絶望も、もはや色褪せて溶け込んでいた。
鬼が人間との戦争に勝利し、世界は鬼国「燐国」の支配下に置かれた。
人間は敗者として、その魂を鬼に捧げるためだけの存在。
家畜であり、奴隷だった。
「灰の街」と呼ばれるこの場所は、燐国の支配下にある数多の人間居住区の一つだ。
その名の通り、街は色彩を失っている。灯を失った塔の残骸が、墓標のように並んでいる。
風は冷たくもなく、ただ、止まっているかのようによどんでいた。
「——次」
感情のない声が響き、列が進む。
今日の配給は、黒ずんだパン一切れと、濁った水が一杯。それだけだ。
灰色の街に不釣り合いな、白銀の髪を隠すように深くフードを被り、少女——白は、俯いたまま静かに列に並んでいた。
彼女の番が来た。
配給係の男(同じ人間だ)は、白の顔を一瞥すると、忌々しげに舌打ちし、パンを台座に放り投げた。まるで汚物でも扱うかのように。
白がそのパンを手に取ると、後ろに並んでいた人間たちが、わざとらしく距離を取った。
(……まただ)
白は唇を噛む。
彼女は、人間ではなかった。そして、鬼でもなかった。
鬼の父と、人間の母。そのどちらからも受け継いだ血を持つ、禁忌の子。
人間たちは、彼女を「鬼の仔」と蔑み、忌み嫌った。
鬼たちは、彼女を「人の血に汚れた出来損ない」と嘲笑った。
どちらにも、居場所はない。
それが白の日常であり、全世界だった。
配給の列から離れ、街の片隅を歩く。
すれ違う人間たちは、白の姿を認めると、石ころでも避けるように道を譲った。囁き声が背中に突き刺さる。
「……鬼の子め」
「あの白い髪、呪われてやがる」
「あいつのせいで、この街の“魂の供出”が早まるんだ」
白は、もう何も感じないふりをした。
涙の流し方は、とうに忘れた。
冷たい風が吹き抜ける。黄昏の空気は常によどみ、生ぬるい鉄の匂いがした。鬼たちが近くで「狩り」を行った名残だ。
たどり着いたのは、崩れかけた建物の地下にある、小さな石室。
彼女に与えられた「寝床」だ。
扉を固く閉ざし、外の世界を遮断する。
静かな夜。いや、ここでは夜も昼も、黄昏しかない。
この、音のない牢獄のような時間が、白にとって唯一、息ができる瞬間だった。
固いパンを、ゆっくりと口に運ぶ。味などしない。ただ、生きるために胃に詰め込むだけの作業。
(私は、なんのために生きてるんだろう)
心の声に耳を澄ませる。
答えは、ない。
ただ、胸の奥で、遠い日の両親の声がこだまする。
『——ハク、あなたは光と闇の子……』
『——生きろ、我が光よ!』
その声をかき消すように、白は壁際に立てかけてあった古い布包みを手に取った。
包みを開くと、鈍く光る一振りの剣が現れる。
鬼が使うような大振りなものでも、人間が使う華奢なものでもない。ただ、まっすぐな刀身を持つ、無骨な剣。
父・焔牙が遺した形見。
そして、母・美琴が、その父から託されたもの。
白は、乾いた布で刀身を丁寧に拭い始める。
冷たい鉄の感触だけが、この灰色の世界で唯一、確かなものだった。
この剣に触れている間だけは、自分は「鬼の子」でも「出来損ない」でもなく、あの二人の「娘」でいられる気がした。
(お父さん、お母さん……)
剣を磨く。それは祈りにも似た作業だった。
両親を殺したのは、鬼ではなかった。
鬼を匿った母と、鬼である父を、「裏切り者」として処刑した、人間の村人たちだった。
人間も、鬼も、憎い。
けれど、どちらの血も、自分の中に流れている。
「私は……」
私は、この黄昏を、いつまで見上げていればいいんだろう。
拭き清められた刀身が、窓から差し込むわずかな黄昏の光を反射した。
「……明けない夜はない」
それは、遠い昔、母が歌ってくれた古い歌の言葉。
この太陽の昇らない世界では、もはやお伽話でしかない。
それでも。
白は、剣を握る手に力を込めた。
剣に触れた朝は、ほんの少しだけ強くなれる。
この血が呪いであろうと、この世界が灰色であろうと、まだ心臓は動いている。
「私は、どちらの血も、否定しない」
まだ弱々しい光だが、彼女の瞳には、灰色の街とは異なる、確かな意志の色が宿っていた。




