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黄泉帰りの左手

 鈍色の空から、乾いた砂が降っていた。

 ここは、陽の光すら届かぬ下層区。

 アダンは掘り返した土の前に、膝をついていた。

 その腕の中には、もう二度と呼吸しない最愛の娘ルエム。

 小さな身体は冷たく、しかし彼には手放す勇気がなかった。


「……ごめんな。守れなかった」


 声は震えていた。涙はとうに枯れているはずなのに、頬を濡らすものは止まらない。


 その背に、静かな声がかかった。


「俺もな……息子を、こんなふうに埋めたんだ」


 ジェイだった。彼は同じ下層区で生きる男で、アダンと同じように、上層の兵士たちの()()で子を奪われた父親だ。アダンは振り返ることなく、ただ耳を傾けた。


「俺も最初は……何もかも憎かった。生きる意味なんてないと思った。でもよ、あいつらが喜ぶのは、俺らが諦めてくれることなんだよな。俺は、息子の仇を取れなかったけど……せめて生きて、あいつのことを忘れねぇようにって、それだけで歯食いしばってきた」


 ジェイの声には、深い悲しみと、それでも折れずに立ち続けてきた強さがあった。


 アダンは黙っていたが、心の奥で何かが温まるのを感じた。

 ルエムがもういないことは変わらない。それでも――ジェイの言葉は、暗闇の中に差し込む小さな光のようだった。


 だが、そのひとときは唐突に終わる。


 甲高い笑い声が響いた。

 見ると、ルカたち上層兵が数人、退屈そうな顔で下層民たちを見下ろしている。


「お前ら、暗い顔してんじゃねぇよ」


 ルカは白い軍服を翻し、わざとらしくため息をついた。


「そうだな……面白いことをしようぜ。お前ら下層のゴミどもで殺し合え。生き残ったやつは、来月の税を免除してやるよ」


 どよめきが広がる。それはあまりにも理不尽で、残酷で…だがここは下層区。兵士の命令は絶対で、拒めば即死だ。


「ふざけんなよ……!」


 誰よりも早く立ち上がったのはジェイだった。

 血走った目でルカを睨みつけ、拳を握りしめる。


「てめぇら……俺たちの子を殺しておいて、まだ弄ぶ気かッ!!」


 ジェイの叫びは、絶望の底にいる者たちの怒りを代弁していた。そのまま彼はルカへ殴りかかる。アダンが止める間もなかった。


 ――ガンッ。


 鈍い音が響く。ジェイの拳がルカに届くことはなかった。

 逆に、ルカの剣が一閃し、ジェイの身体を貫いていた。


「……弱ェな、ゴミが」


 ルカは冷めた声で吐き捨て、剣を抜く。

 ジェイの目から光が失われ、力なく崩れ落ちた。


「ジェイ……!!」


 アダンは駆け寄り、その身体を抱きしめる。

 ジェイの胸から流れる血は温かいのに、その命はもう戻らない。


「……なあ、アダン……お前は……生きろ……」


 最後にそう呟き、ジェイは静かに息を引き取った。


 アダンの中で何かが、ぽっきりと折れた。目の前で娘を奪われ、今また希望をくれた男まで殺された。

 ルカたちは笑っている。まるで、この地獄が遊戯であるかのように。


 ――やめろ。


 胸の奥から、黒い感情が噴き出す。怒り、悲しみ、絶望、それらすべてが渦を巻き、一つの感情に収束していく。



 殺す。

 この世のすべてを。

 この腐った世界を。



 その時だった。


 アダンの心を覆い尽くした闇に、何かが呼応した。

 それは王都の地下深くに眠る、古の魔王が放つ瘴気。人知れず永劫の眠りについているだけの魔王は、その怨嗟の気配でアダンの殺意に共鳴したのだ。



 殺す。

 この世のすべてを。

 この腐り果てた世界を。



 その瞬間、アダンの瞳が深紅に染まった。

 だが、彼の姿はなお人のまま。ただその双眸にだけ、魔の業火が宿っている。


 ――ここに、新たな魔王が誕生した。


 だが、まだ誰もその異変に気づいてはいない。

 ルカの取り巻きの一人、巨体の男ゴリガンが鼻で笑った。


「なんだァ? その生意気な目ェはよ!」


 ゴリガンが勢いよく拳を振り抜く。

 ごつい拳がアダンの顔面を正面から捉えた――が、アダンは微動だにしなかった。

 痛みはほとんどなく、頭も揺れない。ただ、赤い瞳でまっすぐゴリガンを見据えている。


「……なんだァ、今のは?」


「おいおいゴリガン! 効いてねえぞ!」


「ハッハァ! 下層の弱者にパンチが通らねえのかよ!」


 ゴリガンの仲間たちが嘲笑した。その笑いにゴリガンの顔は怒りで真っ赤に染まる。


「てめえ……! 俺に恥かかせやがって!」


 ゴリガンは剣を抜き放ち、吠えるようにアダンへ斬りかかる。

 袈裟懸けの斬撃がアダンの肩口を襲った…が、その剣は肉をわずかに裂いたところで止まった。

 アダンの体が硬い鎧のように抵抗し、切っ先は深くは入らない。


「な……っ!」


 ゴリガンの表情に、笑いが消えた。

 しかし、ルカの取り巻きたちは、ゴリガンの様子を見て腹を抱えて笑った。


「おいゴリガン、またふざけてやがんのか? なんだその情けない演技は!」


「こいつ本気で剣抜いておいて肩しか切れてねえじゃねぇか!」


 笑い声が下層の路地裏に響く。だがその笑い声の輪の中心で、ゴリガンだけは笑っていなかった。

 彼はアダンの赤く爛々と輝く魔眼に見据えられ、全身が強張って動けない。呼吸は浅くなり、心臓の鼓動が自分の耳を打ち破らんばかりに響いていた。


「……なんだよ、これ……」


 剣を握る手が震え、ゴリガンは小さく呟く。その声にルカが苛立ったように顔を歪めた。


「いつまで茶番を続けるつもりだ? ゴリガン、貴様……ふざけすぎれば殺すぞ。」


 ルカの冷たい言葉に、ゴリガンは返事もできない。ただ、目の前のアダンの魔眼に釘付けになり、逃げられない。

 赤い瞳はまるで魂そのものを掴むように、彼の意識を縫い止めていた。


 ゴリガンの足が勝手に震え出す。腰が抜け、カランと剣が石畳に落ちた。


「ひ……あぁ……」


 涙が溢れ、顔を歪めたまま、彼は地面に手をつき、がむしゃらに土下座をする。


「ゆ、許してくれ……た、助けてくれ……」


 声が裏返り、ついにはズボンの股間が濡れ、路地に冷たいしみを広げた。


 その醜態にルカは鼻で笑う。


「……何をしている。私に命乞いか?」


 ゴリガンは首を振り、必死に言葉を紡ごうとするが、嗚咽で声にならない。

 ルカは眉をひそめ、不機嫌そうに吐き捨てた。


「……くだらん。貴様のせいで興が削がれた」


 ルカは踵を返し、取り巻きたちを従えて路地を後にする。


 置き去りにされたゴリガンは、膝を震わせたまま、恐怖に固まり、微動だにできなかった。

 アダンの魔眼は、彼を射抜くように静かに光り続けている。


 ――やがて、下層区の仲間たちが駆け寄ってきた。


「アダン! 大丈夫か!?」


「怪我は? 血……出てないか?」


 彼らは焦った様子でアダンの肩や腕を調べたが、どこにも傷は見当たらない。


「よかった……無事で……」


 誰も、彼の中に芽生えた異様な気配には気づかない。ただの小競り合いの被害者として心配し、安心するだけだった。


 アダンは黙ってその輪の中に立つ。赤い魔眼は徐々に暗く沈み、普通の瞳に戻っていく。

 路地の隅では、ゴリガンがいまだ土下座の姿勢で震え続けていた。


 夜の帳が下りると、アダンは深い眠りに落ちた。

 しかし、その眠りは安らぎではなく、悪夢のような深淵へと彼を引きずり込んだ。


 薄暗い森の中、足元には枯れた葉が堆く積もっている。そこに、微かな声が響いた。


「おとーさ……ん……」


 アダンの視線の先に、ルエムが立っていた。

 小さな身体は濡れた服に包まれ、泣きじゃくり、真っ赤な瞳でアダンを見上げている。


「ルエム……?」


 胸を締め付ける想いと、熱い涙が自然と溢れる。

 だが、すぐに違和感が走った。

 その瞳、その声、すべてが娘のものではあるが――どこか、異様に冷たく、ねじれた響きを帯びていた。


「憎い……騎士たち……殺して……」


 その言葉に、アダンの心臓が凍る。

 本物のルエムは、こんな言い方はしない。無邪気に笑う子が、こんな命令めいた声を出すはずがない。


「貴様……誰だ……!」


 ルエムの姿をした存在は、ゆっくりと微笑む。

 笑みは甘美で、しかしどこまでも不気味で、見る者の心を震わせる。


「ふふ……お前の深い憎しみ……我が求める力をさらに呼ぶ……」


 その瞬間、森の景色が歪み、暗闇が渦を巻く。

 ルエムの姿は薄く揺れ、歪んだ影となり、徐々に消えていく。

 消え際に、その声はアダンの意識に深く染み込む。


「お前の力……まだ足りぬ……憎しみを我に捧げろ……」


 アダンは目を見開く。冷たい汗が背中を伝い、心は恐怖と興奮に揺れた。

 夢の中のルエムは消えたが、その残響は彼の胸の奥に刻まれた。深紅の瞳が再び心に宿り、魔王の瘴気と呼応する。

 まだ制御できぬ力の気配を伴って。


「……ルエム………」


 闇の奥底から響く低い笑いが、アダンを嘲笑うかのように響く。


「フフ……憎しみを捨てるな……それが我を呼ぶ……」


 アダンは震える拳を握りしめる。眠りから覚めた時、彼の胸には一つの確信が芽生えていた。


 ――この世界を、全て壊す力が、自分の中で目覚めつつある。


 翌朝、広場に戻ると、ゴリガンはいなくなっていた。そしてジェイの遺体は冷たく、動かないままで横たわっていた。

 アダンは胸を締め付けられる思いで膝をつき、せめて埋葬しようとジェイの身体に手を触れた。


 その瞬間ーー


「ぐおぉ!?なんだ…この…力……!?」


 真紅の魔眼が疼き、血管を伝うように魔力がジェイの身体へと流れ込む。

 突如としてジェイは紫色の炎に包まれ、死者であるはずの身体がゆっくりと起き上がった。


 見た目は死亡した時のまま、明らかに深い傷痕を帯びていたが、ジェイはゆっくりと呼吸し、意識を取り戻した。


「俺は……死んだはずだ……」


 声はかすれ、しかし明確に意思を宿していた。

 アダンは震える手でジェイを見つめながら、自らの中で芽生えた力の一端を理解する。

 そして、恐る恐るこれまでの経緯、ルエムの死、復讐への決意、魔王の力のことすべてを打ち明けた。


 ジェイは黙って聞き、やがて口を開いた。


「この力、俺は……『黄泉帰りの左手』って呼ぶぜ」


 アダンは目を丸くし、左手の力が死者すら呼び戻せることを知る。

 その場で、思い立ったかのようにアダンはルエムを黄泉帰らせようとした。


 しかし、最愛の娘であるからこそ、アダンはふと立ち止まる。

 ゾンビのような姿で、苦しいこの世界に生き返らせることが本当に幸せなのか――。


 その問いに答えは出ず、アダンは決断を保留した。

 ジェイの紫炎に包まれた姿が、静かに揺らめきながら広場に立ち続ける。

 その光景は、絶望と希望、死と生の境界を映し出すかのようだった。

キャラクター紹介 No.2

【ジェイ】

ジェイは下層区で最愛の息子を上層兵に奪われた36歳の労働者で、がっしりした体格と深い皺のある顔に悲しみを宿しつつも絶望の中で生き抜いた。

死後、アダンの左手の魔力によって紫炎に包まれて死霊として蘇り、意思疎通を保ちながら彼の理解者となった。

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