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幸せの終わりと、絶望の始まり

【王都グランドリオン】

 光り輝く城壁の影で、民衆は今日も苦しみ、悲鳴をあげている。その闇の中で、一人の父親の心に、理不尽と絶望が深く刻まれていく。

 いつの日か、その怒りは王都を揺るがす力となるだろう。…だが、まだ誰もそれを知らない。

【王都グランドリオン 市街地】

 王都の路地裏に、かすかな瘴気が漂い始めたのは、ここ数か月のことだった。

 最初は体調を崩す者が出る程度だったが、今では自我を失い、獣のように暴れる者が時折現れるようになった。

 人々はそれを「瘴鬼病」と呼び、怯えながら暮らしている。


「ぐああああああああっ!!」


 夕暮れの市街地に、耳を裂くような叫び声が響く。

 一人の男が狂った目で通行人に襲いかかり、黒い瘴気をまとったその姿は、もはや人とは呼べぬ獣のようだ。


「下がれ! 皆、離れろ!」


 槍を構えて路地に飛び込むのは、奈落を踏破した英雄にして最強の騎士、アルガード=ドラコニス。

 その背を守るように続くのは、紅き刃の異名を持つ女剣士、フローレンス=ギルクラウド。若くとも奈落を共に生還した実力は歴戦の騎士たちをも唸らせる。


「アルガード殿、動きが速い……!」


「だが、まだ読みやすい。斬るぞ」


 二人は一瞬視線を交わすと、疾風のように間合いを詰めた。

 暴徒の腕が振り上がるより早く、アルガードの槍が突き抜け、フローレンスの剣が閃く。

 鋭い刃が瘴気をまとった肉体を断ち切り、悲鳴のような音とともに黒霧が散った。

 暴徒は痙攣し、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。


「……終わりです」


 フローレンスは呼吸を整え、剣を拭う。動きに迷いはない。アルガードも冷徹な眼差しで瘴気の名残を見やり、短く告げた。


「城に戻る。報告と対策が要る」


「了解です」


 二人は瘴気の残り香が漂う路地を後にし、王城へ向かう。鐘の音が遠くで鳴り響き、街の影はより一層濃く伸びていた。


 石畳に響く靴音が、やけに重く感じられた。

 フローレンスは、まだあの時の冷気が肌に纏わりついている錯覚を覚える。


 ――奈落。


 その名を耳にするだけで、胸の奥に焼きついた恐怖と重苦しい記憶が疼く。

 仲間の叫び、襲いくる魔物、背筋を凍らせた奈落六大将…あの深淵を踏み越えた者が、何人、生きて戻れただろう。


 隣を歩くアルガードの背中は、あの日と変わらぬほど大きい。彼がいなければ、フローレンスや、他の冒険者達も、とうに土の下だっただろう。

 だが、彼ですら……奈落に取り憑かれたあの瞳の奥の影は、消えていない。


 ――あの闇は終わってなどいない。

 むしろ、これからが始まりなのだと直感する。


【王都グランドリオン 城内】


 玉座の間に掲げられた王国旗は、昔より色褪せていた。

 若き王ルシアンは即位以来、腐敗した王政を正すため奔走してきた。

 しかし、王都の民衆の生活は一向に改善されず、重税と飢えにあえぐ声が街に溢れている。

 さらに近頃は、王都のあちこちで発生する「瘴鬼病」による混乱が拍車をかけていた。暴徒化した病人の制圧や治療体制の整備に追われ、城の執務室は連日、書状と報告書の山で埋め尽くされている。


 王国の税制は、長きにわたって民を苦しめてきた。旧王の時代、貴族や高官たちは王権の名の下に莫大な富を蓄え、民衆には過酷な税が課された。

 新王ルシアンはその腐敗を正そうとしたが、制度の根深さは容易に消えず、改革のたびに貴族や王直属の騎士団の一部から抵抗や不安の声が上がる。

 そこに未知の病まで加わり、王国の混迷は深まるばかりだった。


「民を思えば当然だが……王国の秩序が揺らぐのではないか……」


 王子の側近・アルガードは、静かにその重圧を受け止めていた。その隣には、フローレンスが控える。

 ルシアンは書類の山から顔を上げ、ふと天井を見上げた。


「国を変えたい。だが、変革には痛みが伴う……それでも、瘴鬼病に苦しむ民を、飢えた子どもたちを……見捨てることはできない」


 アルガードは静かに頷く。


「王子。私たちはあなたと民のために刃を振るう。それが騎士の務めです。王都を覆う影を晴らすため、我らは共に戦いましょう」


 フローレンスも瞳を燃やし、誓うように言った。


「王子さま、アルガード殿のような騎士になるため、私も命を懸けます! 正義のために、民のために!」


 ルシアンの瞳に力強い光が宿る。


「ありがとう、アルガード、フローレンス。君たちがいる限り……王都の民は、少なくとも希望を失わない」


 窓の外には、瘴気が漂う王都の路地と、飢えに苦しむ人々の影が見えた。

 飢餓、重税、病――絶望の声が王子の胸を締めつける。

 しかし三人の瞳には曇りがない。正義と信念を頼りに、この国を守る決意だけが確かにそこにあった。


【王都グランドリオン 貴族区】

 王都グランドリオンの丘の上にそびえる貴族区。

 その一角、前王マルセリウス=グランドリオンが幽閉されているはずの館は、「牢獄」と呼ばれながらも、絢爛な家具と豪華な料理に彩られた贅の空間であった。

 窓から見下ろせば、荒廃しつつある下層区の街並みがかすんで見える。だが、前王の目にはその惨状など映っていない。


 彼の周囲には、旧王派の貴族たちと腐敗した騎士団の面々が集い、香油と香煙の漂う部屋で杯を傾けていた。豪奢なシャンデリアの下で、彼らは民の苦悩など忘れたかのように談笑している。


「王都のどこかから瘴気が漏れ出したとかで、瘴鬼病が流行り始めているらしいな。物騒な話だ」


 白髪交じりの侯爵が眉をひそめる。


「だからといって我らが騒ぐ必要もあるまい。下層の連中がいくら死のうと、所詮は無価値な命だ」


 扇を手にした伯爵夫人が、吐き捨てるように笑う。


「とはいえ、奴らが病を持ち込むのは御免ですわね。街区の封鎖でも考えた方がよろしいのではなくて?瘴気の出所も、どうせ下層の汚らわしい住民(うじむし)どもが原因でしょう」


「封鎖となると金がかかる」


「金で我らの命が守れるなら、安いものですわ。……この血筋を守るためならば」


 そのやり取りに、誰一人として民の安否を案じる様子はない。

 彼らの耳に届くのは、己の屋敷と一族の安全のみ。下層区の飢餓や疫病は、まるで他国の災厄のように、遠い世界の話として語られていた。


「王子がどう足掻こうと、我らの権力は揺るがぬ」


「下層の民が苦しもうが、我々の暮らしには何の影響もない」


 そう豪語する者がいる一方で、別の貴族が不安げに口を開いた。


「しかし陛下……あのアルガードという騎士が王子側についたと聞きました。奴は戦場であまりに強すぎます。王子が反旗を翻し、彼を先陣に立てるとなれば……」


 前王マルセリウスは、薄い笑みを浮かべて杯を掲げた。


「ふむ……アルガードか。確かに猛き獅子のごとき男だが、王国の力は彼一人ではない」


 前王は指を鳴らし、部屋の空気を一瞬で支配した。

「『王の剣』――ソフィア=ドラコニス。アルガードの妹にして剣の才は兄に匹敵する。

 『王の盾』――ガンドロフ=ハルトマン。鉄壁の防御と戦略眼を兼ね備え、軍の信頼は絶大だ。

 そして『王の影』――オリアナ=シュバリエ。影のごとく王に仕え、暗殺と潜入を得意とする者だ」


 マルセリウスは杯をゆっくりと傾け、貴族たちの顔を順に見回す。

「この三人衆さえ揃えば、王子の側につく者は下民と共に死ぬ。恐れる必要など何もない」


 その言葉に、貴族たちはほっと息を吐き、場の緊張が解けた。

 だが窓の外、下層区の影の中で、瘴気はゆっくりと広がり続けている。

 彼らの笑い声は、飢えと病に苦しむ民のうめき声を、まるで存在しないもののように掻き消していた。

 王都グランドリオン――その華麗なる姿の裏には、深く淀んだ闇が巣食っていた。


【王都グランドリオン 下層区】

 灰色の雲が低く垂れこめ、路地裏には湿った風と錆びた鉄の匂いが漂っていた。

 下層区の掃除人アダンは、肩に小さな箒を担ぎ、仕事を終えて狭い路地を歩いていた。背中の籠にはわずかな給金と、露店で買ったばかりの小さなパンが一つだけ入っている。


「ただいま、ルエム」


 軋む扉を開けると、薄暗い家の中で五歳の娘がちょこんと椅子に座り、ぱっと花が咲くような笑顔で迎えた。


「パパ!おかえりなさいっ!」


「お利口にしてたか?」


「うんっ!ちゃんとお留守番できたよ!」


 ルエムはちいさな両手を広げ、駆け寄ってきて父の腰にぎゅっと抱きつく。その華奢な腕の温もりが、疲れ切った体に沁み込んだ。

 アダンは微笑みながら、背負ってきた籠からパンを取り出す。


「今日はちょっとだけ、ごちそうだぞ」


「わぁっ!おっきいパン!」


 ルエムは目を輝かせ、宝物のようにパンを抱きしめる。

 二人は古びた木のテーブルに並び、アダンは手を合わせた。


「いただきます」


「いただきまーす!」


 小さな手でパンを半分にちぎり、分け合いながら食べる。ルエムは一口かじるたび、楽しそうに話を始めた。

 近所の野良猫に名前をつけたこと。昼間通りかかった商隊の馬車がとても大きかったこと。壁に描いた落書きが今日はうまく描けたこと。


 アダンはそのひとつひとつに頷き、笑い、娘の声を聞いているだけで疲れが和らいでいくようだった。


「ねぇパパ、明日もお仕事?」


「あぁ、いつも通りだ。でもな、明日はもう少し早く帰れるかもしれない」


「ほんと?じゃあね、お絵かきしよう!ルエムね、パパの絵かきたいの!」


「おぉ、それは楽しみだな。かっこよく描いてくれよ?」


 アダンは娘の柔らかい髪を撫でた。その手触りには亡き妻の面影があり、彼は胸の奥が温かくなるのを感じた。


 食事を終えると、ルエムは古い紙切れに絵を描き始め、アダンは薪割りをしながらその小さな横顔を見守る。

 窓から差し込む夕暮れの光の中で、ふたりだけの小さな世界が静かに息づいていた。


 ——その夜、路地の向こうの酒場では徴税官たちが酒に酔い、翌日の徴収先について下卑た笑い声を上げていた。

 けれどそんなことを知る由もなく、父と娘の家には、暖かなランプの灯が揺れていた。


「パパ、見て!パパのお顔描いたよ!」


「お、なかなか似てるな。……髭までちゃんと描いたのか」


「えへへ、かっこよく描けたでしょ?」


「あぁ、とってもかっこいいさ」


 ルエムは照れたように笑い、父の胸に飛び込む。アダンは小さな体を抱き上げ、ぎゅっと抱きしめた。

 この瞬間、世界で一番大切な宝を、この腕で守り抜くと心の底から誓った。


 そして静かな夜が更けていく。



 ——その翌日。



 崩れかけた屋根、ひび割れた石畳に囲まれた小さな家で、アダンとルエムはいつものように粗末な食卓を囲んでいた。

 妻を亡くした日から、アダンは街の清掃員として働き、男手ひとつで娘を育ててきた。貧しくとも、確かにそこには温かな家庭があった。


「パパ……今日はご飯あるの?」


 ルエムのか細い声に、アダンは苦笑いを浮かべた。


「少しだけな。でも、明日はもっといいものを食べよう」


 その時、外から不穏な足音が響く。

 次の瞬間、扉を激しく叩く音と怒声が響いた。


「徴税だ! アダン=フロイト、今すぐ出ろ!」


 アダンの胸が冷たく締め付けられる。

 扉を開けると、重苦しい空気とともに徴税官の一団が立っていた。その先頭には、冷酷な笑みを浮かべるルカ=ベイルの姿。


「税を払えぬなら……その可愛い娘で遊ばせてもらおうか」


 ルカは籠手をはめた腕を振り上げ、アダンに襲いかかる。アダンは娘を抱き寄せ、盾となるように体を張った。


「やめろ……ルエムに手を出すな!」


 しかしルカの笑みは歪むことなく、力任せにアダンを殴りつける。

 衝撃でよろめく父の腕の中、ルエムの小さな体が揺れた。


「わははは!もっと泣けよ……パパと一緒に苦しめ!」


 ルカは容赦なく小さな肩を打ち据え、泣き叫ぶ声を笑い飛ばす。アダンは必死に庇おうとするが、その暴力は止まらない。


 そして——


 ルエムは地面に崩れ落ち、冷たく動かなくなった。


「……ルエム……!」


 アダンは地面に膝をつき、嗚咽を押し殺しながら娘を抱きしめる。

 胸は張り裂けそうなほど痛み、世界が灰色に沈んでいくようだった。


 周囲の人々は怯え、誰も声を上げない。

 アダンの腕の中の小さな体はもう動かず、それでも彼は放すことができず、震えが止まらない。


「なんで……なんで……」


 心の奥底から湧き上がる嗚咽と怒りに、体が押し潰されそうになる。


 ルカは背を向け、ゆっくりと歩き去る。振り返りざま、吐き捨てるように言った。


「あれ?もう死んだのか? ははっ……やっぱり貧乏人のガキは栄養が足りてねぇな」


 アダンはひとり、暗い路地に取り残される。

 胸の奥深く、怒りと絶望の種が静かに芽吹いていく。


 ——この日、王都の片隅で芽生えた小さな絶望が、やがて世界を覆う闇となる。

 その悲劇の始まりを、まだ誰も知らなかった。

キャラクター紹介 No.1

【アダン=フロイト】

本作の主人公。王都グランドリオンの下層区に暮らす28歳の青年。

かつて妻を病で失い、唯一の家族である5歳の娘ルエムを男手ひとつで育ててきた。

日々は街の清掃員として働き、貧しいながらも娘との穏やかな時間を大切にする、真面目で優しい父親。

その心には、正義感と愛情が深く根付いているが、社会の不条理や理不尽な暴力の前に無力さを痛感することも多い。

弱者を守りたいという思いと、心に芽生える怒り…これらが、後に彼を“魔王”として覚醒させる運命の種となる。

普段は控えめで人懐っこい性格だが、娘の命を脅かす者には決して屈せず、父としての強い守護心を見せる。

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