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短編

三度目の悪役令嬢は静かに暮らしたい~前世も前々世も破滅したので今度こそ脇役として生き抜きたいのです~

作者: 九葉

「ああ、また始まるのね」


目を覚ますと、見慣れた天蓋付きのベッドの中だった。薔薇の模様が刺繍された絹のシーツ。朝日を遮る厚手のカーテン。そして窓から差し込む光に輝く金色の髪。


これが三度目だ。アルス・フォビナとして目覚めるのは。


身体を起こすと、鏡に映る顔は十九歳の私。金色の巻き毛と碧い瞳。美しいと褒められる容姿。そして、乙女ゲーム『貴族のエトワール』の悪役令嬢そのものの姿。


「前世の記憶が消えていれば、どれだけ良かったことか」


記憶は鮮明すぎるほどに残っている。特に、最期の瞬間の。


一度目の人生。私はゲームのストーリー通りに傲慢な悪役令嬢を演じた。ヒロインのクラウディアを徹底的に虐め、周囲の評判を落とし、王子から遠ざけようとした。そして最終的には—


***


「アルス・フォビナ!貴女の罪は余りにも重い!」


アルフレッド王子の怒声が王宮の広間に響き渡った。私は床に膝をつき、頭を下げたまま、全身が震えていた。


「王国の平和を乱し、無実の者を陥れようとした罪。これより貴女はアンリエット王国から永久追放とする!」


貴族たちの蔑むような視線、ざわめき、嘲笑。それらは私を針のように刺した。私の周囲には誰一人として味方はいなかった。両親さえ私を見捨てた。


追放後の記憶はさらに鮮明だ。雨の中、荷物も持たされずに国境へと追われ、警備兵たちに突き飛ばされるように隣国へ。そこで待っていたのは、元貴族という立場を知った山賊たちの餌食となる運命だった。


痛み、屈辱、そして最後の瞬間まで誰も私を助けに来なかったという絶望。


***


二度目の人生では賢くなったつもりだった。クラウディアと敵対せず、悪役令嬢というレールから外れようとした。そして王子に本気で恋をした。それが最大の過ちだった。


***


「婚約を破棄します」


晴れ渡った空の下、王宮の庭園で。アルフレッド王子は微笑みながらそう告げた。その横には満足げな表情のクラウディアがいた。


「王の伴侶は、民から愛される存在でなければなりません。あなたのような冷酷な血を持つ者には、その資格はない」


あの微笑みが、今でも悪夢に出てくる。表面上は立派な言葉だったが、真実は単純に—彼は私よりクラウディアを選んだのだ。


「しかし、ご安心を。あなたの家系への配慮として、辺境伯のメルトン卿と新たな婚約を取り付けました」


メルトン。六十を超える老人で、すでに三人の妻を「事故」で亡くしていた男。それが私の新たな婚約者だった。


王子は隙も与えず、すべてを手配していた。式は一週間後。逃げる暇もなかった。


結婚初夜、メルトン伯爵の屋敷で起きた「不慮の事故」。伯爵が寝ている間に、彼の執事によって私の飲み物に毒が盛られた。伯爵の遺産を狙った執事の犯行とされたが、真相は闇の中。私の死は、単なる政治的な駒の処分に過ぎなかった。


***


ベッドの上で体を丸め、過去の記憶の重みに押しつぶされそうになる。両方の人生で、私は使い捨ての道具だった。悪役を演じれば追放と死。王子に恋をすれば婚約破棄と毒殺。


「今度こそ、生き延びてみせる」


震える手で顔を覆いながら、私は誓った。今度こそ、この呪われた物語から逃げ出すと。


メイドがノックする音が聞こえる。学院への出発の時間だ。今日から、この「脚本」を書き換える。もう悪役にも恋する愚か者にもならない。ただの脇役、存在すら気づかれない背景のキャラクターになるのだ。


***


貴族学院での一週間、私はひたすら存在感を消すことに集中した。クラウディアに会えば小さく会釈するだけ。授業では決して手を挙げず、真ん中の席を避け、常に隅に座る。以前の私なら絶対に行かないような図書館の片隅で昼食を取り、誰とも目を合わせなかった。


しかし、それでは足りなかった。


「アルスさん、最近変わりましたね」


クラウディアが不思議そうな顔で私に話しかけてきた。魂胆が読めた。彼女は私の変化を「何か企んでいる」と解釈しているのだ。


「アルフレッド王子が貴女のことを心配していましたよ」


その言葉で、血の気が引いた。前世、王子の「心配」は常に災いの始まりだった。


その日のうちに、私は体調不良を装って学院を休むことにした。そして家族に願い出た—田舎の別荘で静養したいと。幸い、家族は華やかな社交界に夢中で、娘の突然の気まぐれにさえ気づかなかった。


***


一週間後、私は最小限の使用人だけを連れて、フォビナ家の田舎別荘に到着した。ここなら安全なはず。王都から遠く離れ、乙女ゲームの「脚本」から外れた場所。ここでなら、悪役令嬢の運命から逃れられるかもしれない。


「お嬢様、お散歩になりますか?」


老メイドのマーサが尋ねる。この別荘は小さいが、周囲には美しい森と小川がある。王都の喧騒から離れ、ようやく安堵感が芽生えた。


「少し庭を見てくるわ」


別荘の庭は手入れが行き届いていないが、それが却って私には心地よかった。完璧でないもの。計算されていないもの。まるで、この世界の「脚本」から外れたかのような自由さがそこにはあった。


庭の奥、低い石垣の向こうに隣接する屋敷が見える。地元の地主の所有とマーサは言っていた。


石垣に近づいたとき、向こう側から声がした。


「おや、新しい隣人ですか?」


振り向くと、石垣の向こうに立つ男性がいた。二十代半ばといったところか。黒髪に鋭い緑の瞳。貴族的な雰囲気がありながら、どこか野性的な印象も漂わせている。


「セバスチャン・ナイトシェイド。この地の主です」


彼は軽く会釈した。その動作には、王都の貴族たちのような計算された優雅さがない。自然で、飾り気のないものだった。


「アルス・フォビナです。静養のために来ました」


私は必要最低限の礼儀だけを返した。親しくなるつもりはない。誰とも。それが生き残るための私の戦略だ。


「フォビナ?王都の名門のお嬢様が、こんな辺鄙な場所に?」彼は興味深そうに首を傾げた。「何かから逃げているようですね」


その言葉に、私は凍りついた。なぜこの男は、一目で私の本質を見抜くのか?


「失礼ながら、あなたのような噂の悪役令嬢が急に身を隠すとなると、好奇心をそそられます」


彼の言葉には悪意がなかった。純粋な観察と、少しの面白がりが混じっているだけ。しかし、私の全身から血の気が引いた。


「ご想像にお任せします。失礼します」


私は素っ気なく言い、踵を返した。セバスチャンの視線が背中に突き刺さるのを感じながら。


これが私の新しい戦略だ。目立たず、かかわらず、ただ生き延びる。過去二度の人生で学んだ教訓。この世界で、アルス・フォビナに幸せな結末はない。せめて、悲惨な結末だけは避けたい。


それが、私の三度目の人生の唯一の望みだった。


***


それから数日間、私は別荘の範囲から一歩も出なかった。


書斎に籠もり、持ってきた小説を読み、庭を少し散歩する。最小限のスタッフとだけ会話し、外界とのつながりを絶つ。完璧な計画だったはずだ。


「お嬢様、ナイトシェイド様からお野菜を頂戴しました」


朝食の席で、マーサが籠一杯の新鮮な野菜を見せる。見事な緑の葉物、鮮やかな赤のトマト、艶のある茄子。どれも完璧に育てられていた。


「返しておいて」


「でも、お嬢様。直接手渡されましたのよ。『アルス様のお口に合えば』とおっしゃって」


マーサの言葉に、私は顔を上げた。「彼が?ここまで?」


「はい、とても礼儀正しい紳士でした。『無理に挨拶する気はない』とも言っておられました」


それが引っかかった。紳士的でありながら、私の境界線を尊重する姿勢。王都の男性たちとは違う。彼らは常に自分の都合を押し付けてくる。


「…今度会ったら礼は言っておくわ」


そう言っただけなのに、マーサの目が輝いた。私は慌てて付け加えた。「偶然会ったらの話よ。わざわざ会いに行くつもりはないわ」


***


しかし、「偶然」は三日後に訪れた。


庭の果樹の様子を見ていると、石垣の向こうから声が聞こえた。


「今年のリンゴは豊作ですね」


振り返ると、セバスチャンが石垣に肘をついて立っていた。カジュアルな服装だが、その佇まいには生まれながらの優雅さがある。


「野菜をありがとう」私は素っ気なく言った。「返す物がなくて悪いけど」


「お礼など不要です。隣人としての挨拶代わりに」彼は微笑み、それから少し顔を傾けて続けた。「よかったら、領地内の湖をご案内しましょうか。この時期は水鳥たちが美しい」


断る理由は百もあった。でも、この別荘での隠遁生活は、予想以上に退屈だった。外の世界に触れたいという衝動が、警戒心に勝った。


「…一時間だけ」


彼の顔に浮かんだ笑顔は、前世で見たどの貴族の笑顔よりも純粋で、計算されていないように見えた。


***


湖は彼の言葉通り、美しかった。朝の光が水面に踊り、岸辺には色とりどりの野草が咲いている。水鳥の群れが水面をすべるように泳ぎ、時折潜っては魚を捕まえていた。


「これは…」言葉が出なかった。ゲームの世界で、こんな場所は見たことがなかった。


「気に入りましたか?」セバスチャンは静かに尋ねた。


「ええ」正直に答える。「こんな場所が、王国にあったなんて」


「多くの人は見逃します。特に、王都の華やかさに慣れた方々は」


それは私への皮肉だろうか。でも彼の声には非難の色はなかった。


「私は…王都の生活に向いていなかったの」言い訳のように口にした。


「都会と田舎、どちらが本当のアルス・フォビナを映し出すのでしょうね」


その言葉に、私は居心地の悪さを感じた。彼は何か知っているのか?それとも単なる観察力の鋭さか?


「どちらも違うわ」思わず本音が漏れた。「私はどこにも」


「それは興味深い答えですね」彼は湖面に目を向けたまま言った。「自分の居場所を探している。私もそうです」


私たちは湖のほとりを歩きながら、世間話を交わした。彼は押し付けがましくなく、私の沈黙も尊重してくれた。一時間はあっという間に過ぎた。


「また来ませんか」別れ際、彼は言った。「この辺りには、まだまだ美しい場所があります」


断るべきだった。でも私は頷いていた。


***


週に二度、私たちは湖に行くようになった。彼は決して個人的な質問はせず、ただ自然の美しさを共有してくれた。彼の存在は、予想外に心地よかった。


ある日、湖で休んでいると、彼が言った。


「王都では悪役令嬢と呼ばれていると聞きましたが」


私の体は一瞬で緊張した。


「噂は気にしないことにしてるわ」


「賢明な選択です」彼はうなずいた。「多くの場合、人は他者を単純なレッテルで理解しようとする。特に貴族社会では」


「あなたは…貴族ではないの?」


「この土地の主ではありますが、王都の貴族たちとは違います」彼は笑った。「彼らの複雑な社交界の作法には興味がなくて」


私は彼を横目で見た。本当に存在するのだろうか、こんな人が。ゲームの脚本にない人物。隠された目的はないのか?


「何故そんなに警戒するのですか?」彼は突然尋ねた。「私に何か隠し事でもあるとでも?」


「あなたこそ」言い返した。「なぜ私みたいな…悪役令嬢の評判を持つ女性に親切にするの?」


彼は少し考えて、それから静かに答えた。


「私はレッテルではなく、目の前の人を見るようにしています。そして目の前のアルス・フォビナは、噂で聞く人物とはまるで違う」


その言葉は、私の心に小さな亀裂を作った。


***


別荘での生活も一ヶ月が過ぎた頃、恐れていた知らせが届いた。


「お嬢様、王都からのお手紙です」


マーサが持ってきた手紙は、母からだった。


『親愛なるアルス、あなたの容体はいかがですか?(中略)素晴らしいニュースがあります。クラウディア・レインズワースとエドワード王子が、田舎の気候を楽しむために数日滞在するとのこと。彼らが滞在する屋敷はあなたの別荘からそう遠くありません。ぜひ挨拶に行きなさい。あなたの体調が本当に良くなったか確認する機会でもあります』


手紙を読み終えた私の手は震えていた。クラウディアとエドワード。ゲームの主人公とヒロイン。前世で私を破滅させた二人が、ここに来る。


しかも、母の言葉は単なる提案ではない。命令だ。挨拶に行かなければ、それは不審に思われる。そして不審は調査を招き、調査は監視を招く。


「お嬢様、大丈夫ですか?」マーサが心配そうに尋ねる。


「ええ、ただの知らせよ」私は無理に微笑んだ。「少し休むわ」


部屋に戻ると、恐怖で体が震えていた。逃げるべきか?でも、どこへ?この国のどこに行っても、結局は見つかるだろう。


窓の外を見ると、離れた場所にセバスチャンの屋敷が見えた。彼なら…何か助言してくれるだろうか?


考えるのをやめろ、と自分に言い聞かせた。誰かに頼るな。それは前世でも災いのもとだった。でも、心のどこかで、彼に会いたかった。


***


翌朝、予想外の訪問者が現れた。


「クラウディア・レインズワースさまがお見えです」


マーサの言葉に、私は凍りついた。あまりに早すぎる。心の準備ができていない。


「通してちょうだい」


数分後、応接室にクラウディアが入ってきた。前世と同じ、整った美しさを持つ少女。金色の髪と優しげな青い目。しかし今は、その目には警戒心が浮かんでいた。


「アルス、お久しぶり」彼女は軽く会釈した。「突然訪問してごめんなさい」


「いいえ、どうぞおかけになって」私は努めて穏やかに答えた。「お茶をお持ちします」


「実は…」彼女は座りながら言った。「あなたの急な変化が気になって」


「変化?」


「ええ、学院での態度が突然変わって、それから体調不良で別荘に…みんな心配しているわ」


嘘だ。彼女の目は私を探っている。


「単純よ」私は肩をすくめた。「少し体調を崩して、静かな場所で休みたくなっただけ。社交界は疲れるでしょう?」


「そうね…」彼女は部屋を見回した。「でも、アルス。あなたはいつも注目を集めるのが好きだったじゃない。突然の隠遁生活なんて…」


「人は変わるものよ」


「エドワード王子も心配してたわ。特に、あなたがいつも彼に関心を示していたから…」


私の胃が痙攣した。前世では、その「関心」が私の破滅につながった。


「王子殿下には、心配無用とお伝えください。私は単に静かな生活が気に入っただけです」


「本当に?」彼女は身を乗り出した。「何か…企んでいるわけじゃないのね?」


そこだ。彼女の本当の目的。私が陰で何か悪事を計画していると疑っているのだ。


窓の外で動きが見えた。セバスチャンが庭を歩いている。彼は一瞬こちらを見て、それから何も見なかったかのように歩き去った。


「何も企んでないわ」私はクラウディアの目をまっすぐ見て言った。「この平和な生活が気に入っただけよ。王都のドラマからは十分。今はただ、静かに暮らしたいの」


彼女は私の顔を探るように見つめた。疑わしそうだったが、証拠もない。


「明後日、この地域の収穫祭があるわ」立ち上がりながら彼女は言った。「エドワードも参加するから、ぜひ来てほしいな。あなたの…変化を、彼にも見せてあげて」


それは招待ではなく、試験だった。私が本当に変わったのか、それとも何か企んでいるのか確かめるための。


「体調と相談して」曖昧に答えた。


彼女が去った後、私は窓辺に立って、深呼吸した。今のやり取りは悪くなかった。不自然な言動はしなかったはず。でも収穫祭は危険だ。行けば王子と対面することになる。行かなければ、さらに疑惑を招く。


「心配事ですか?」


振り返ると、セバスチャンが入ってきた。マーサが彼を通したらしい。


「無断で入らないで」


「失礼」彼は申し訳なさそうに言った。「ただ、あなたの表情が…」


「クラウディア・レインズワースが来たの」私は思わずことの顛末を話していた。収穫祭のことも。


「行く予定ですか?」彼は尋ねた。


「行けば王子と会うことになる。行かなければ、疑いが深まる」


「僭越ながら、一つ提案があります」彼は言った。「私と一緒に行きませんか?」


「一緒に?」


「はい。隣人として自然でしょう。そして…」彼は少し躊躇った。「もし何か不快なことがあれば、すぐに帰れるよう手配します」


この申し出に、私は混乱した。なぜ彼がここまで?しかし、一人で行くよりはずっと安全だろう。セバスチャンがいれば、エドワードも直接的な行動はとりにくいはずだ。


「あなたは…なぜそこまで?」


「あなたの悩みが見えるからです」彼はシンプルに答えた。「そして、私にはあなたの中に悪役令嬢は見えない。ただ、自分自身であることを恐れている人が見えるだけです」


その言葉に、胸が締め付けられた。


「悪役になるのが怖いのではないの」私は小さな声で言った。「周りが私を悪役に仕立て上げるのが怖いの」


彼はただうなずいた。批判も、詮索も、説教もなかった。ただ理解があるように見えた。


「収穫祭、一緒に行きましょう」彼は言った。「そして何かあれば、私の隣の屋敷は常にあなたに開かれています」


***


収穫祭の日、私とセバスチャンは地元の広場に向かった。彼の提案で、目立たない服装をした。華美な貴族の衣装ではなく、上質ながらも地味な服で。


広場は賑わっていた。農民たちは収穫の喜びを分かち合い、踊り、歌っていた。見知らぬ光景だった。前世の私は、こういった「下層民」の行事には決して足を踏み入れなかった。


「楽しそうですね」セバスチャンが私の表情を見て言った。


「見ているだけで十分よ」私は答えた。「クラウディアたちに会えれば、それでいい」


しかし、祭りの雰囲気は予想以上に魅力的だった。子供たちは歓声を上げて走り回り、老人たちは笑顔で語り合っていた。


私たちが歩いていると、突然小さな男の子がぶつかってきた。彼は転びそうになり、私は反射的に彼を支えた。


「ごめんなさい、お姉さん!」彼は言った。


「大丈夫よ」私は微笑んだ。「気をつけて」


セバスチャンが私を見る目が変わった。


「素敵な笑顔ですね」


恥ずかしさで頬が熱くなった。「別に…」


突然、騒ぎが起きた。一人の子供が装飾用の高い柱によじ登り、バランスを崩して落ちそうになっていた。周囲から悲鳴が上がる。


「誰か!助けて!」母親らしき女性が叫んだ。


私の体は勝手に動いていた。魔法の基礎しか知らないが、緩衝の術なら―


「フロレス・クッション!」


私の指から放たれた光が、子供の下に空気のクッションを形成した。彼は柱から落ちたが、ふわりと着地し、無事だった。


周囲から拍手が起きた。子供の母親が駆け寄り、私に深々と頭を下げた。


「ありがとうございます!命の恩人です!」


恥ずかしさに言葉も出なかった。悪役令嬢が人を助ける―そんな脚本はゲームにはなかった。


「さすがですね」セバスチャンが言った。「咄嗟の判断力」


「当たり前でしょ」言い訳するように言った。「見殺しにはできないわ」


その時、人々の間に動きが起きた。人々が道を開けるように分かれていく。そして現れたのは―


エドワード王子とクラウディア。


王子は前世と同じく堂々としていた。金髪に青い目、完璧な容姿。そして彼の目が私を捉えた瞬間、私は震えた。


「アルス・フォビナ」彼は近づいてきた。「噂通り、ここにいたのですね」


クラウディアは彼の少し後ろから、私とセバスチャンを交互に見ていた。


「殿下」私は形式的に会釈した。「お久しぶりです」


「学院から突然姿を消し、田舎に引きこもるとは」彼は言った。「何か理由でも?」


その質問の裏に隠された疑惑が見えた。前世の彼も同じ目で私を見ていた―婚約破棄の直前に。


「健康上の理由です」簡潔に答えた。


「本当に?」彼は私に一歩近づいた。その親しげな仕草に、前世の恐怖が蘇る。「それとも…何か企んでいるのではないですか?」


「殿下、失礼ながら」セバスチャンが割って入った。「アルス様は本当に静養のためにここに来られたのです。彼女の体調は、まだ万全ではありません」


王子はセバスチャンを上から下まで見た。「あなたは?」


「セバスチャン・ナイトシェイド。この地の地主です」


「地主…」王子は小馬鹿にしたように言った。「アルスの新しい…友人ですか?」


その言葉の含みに、私は寒気を感じた。これは前世と同じ流れ。彼は私の人間関係を探り、弱点を見つけようとしている。


セバスチャンが答える前に、私は言った。「ナイトシェイド様は隣人です。彼のおかげで、田舎での生活が快適になりました」


「それは結構」王子は笑ったが、その目は笑っていなかった。「しかし、アルス。あなたのような高貴な家の娘が、こんな辺境で過ごすのは不自然だ。宮廷に戻るべきだ」


それは命令だった。そして私は彼の真意を知っていた。彼は私を監視下に置きたいのだ。


「ありがとうございます、殿下」丁寧に言った。「しかし、医師の助言で、しばらくはここで静養を続けるつもりです」


彼の目が細くなった。不満そうだ。彼の側にいたクラウディアが、不安そうな顔で私を見た。


「では、少なくともこの後の晩餐会に参加してください」王子は言った。「私たちの滞在を祝う小さな集まりです」


断れない招待だった。しかし―


「申し訳ありません」セバスチャンが割って入った。「今日はアルス様の体調が優れないため、早めに帰る予定でした。私が彼女を送ります」


王子はセバスチャンを睨みつけた。二人の間に緊張が走る。


「アルス」王子は私だけに聞こえるように言った。「このような…地方の男に心を奪われてはいけない。あなたには、もっと相応しい相手がいる」


その言葉に、恐怖が込み上げた。これは前世と同じ展開。彼が私に関心を持ち始め、そして最終的に私を玩具のように弄ぶ。その先に待つのは破滅だけ。


「失礼します」


私は慌てて人混みの中へ逃げ出した。後ろからセバスチャンの声が聞こえたが、立ち止まらなかった。逃げるしかなかった、この悪夢のような展開から。


人々の間をかき分け、祭りの外れにある小さな森へと入った。そこで初めて立ち止まり、木にもたれて震える足をなだめた。


「アルス!」


セバスチャンが追いついてきた。彼の顔には心配の色が濃く出ていた。


「大丈夫ですか?」


「大丈夫なわけない」声が震えた。「また始まるわ。彼が…彼が…」


言葉に詰まった。説明できない。どうして彼に言えるだろう?前世の記憶なんて。


「彼があなたを傷つけたのですか?」セバスチャンは静かに尋ねた。


「まだよ」私は苦笑した。「でも、そうなる。必ず」


「どうしてそう確信できるのですか?」


その質問に、何かが私の中で崩れた。長年抱えてきた恐怖と孤独感が一気に溢れ出した。


「だって、前に経験したから!」叫んでいた。「二度も!」


セバスチャンは混乱した顔をした。当然だ。正気じゃないと思われても仕方ない。


「私、おかしいでしょう?」鼻で笑った。「でも本当なの。私はこの人生を二度も生きたわ。そして二度とも悲惨な結末を迎えた。一度目は悪役令嬢を演じて追放され、二度目は王子に恋をして裏切られた。何をしても、アルス・フォビナには幸せな結末はないの!」


言葉が止まらなかった。全てを吐き出していた。悪役令嬢として設定された運命。ゲームの「脚本」に従うと待っている破滅。何をしても逃れられない結末。


言い終わって、私は彼の反応を恐れた。笑われるか、狂人扱いされるか。でも、彼の表情は違った。


驚きはあったが、否定ではなかった。むしろ…理解?


「信じてくれないわよね」疲れた声で言った。「当然よ」


「いいえ」彼は静かに言った。「信じます」


その言葉に、私は目を見開いた。


「なぜ?そんな馬鹿げた話」


「なぜなら」彼はまっすぐ私の目を見た。「私も『脚本』の存在を知っているからです」


風が吹いた。世界が一瞬止まったような気がした。


「あなたは…?」


「私は元々この物語の登場人物ではありません」彼は言った。「私は後から…意識を得た存在です」


「それってどういう…」


「詳しくはまた」彼は私の手を取った。「今は安全な場所に行きましょう。王子たちが探しに来る前に」


彼の手は温かく、強かった。私はその手に導かれるまま、森の奥へと歩き始めた。


頭の中は混乱していたが、不思議と恐怖はなかった。初めて、私は一人ではないと感じていた。


「セバスチャン」歩きながら尋ねた。「なぜ私に近づいたの?」


「最初は好奇心でした」彼は素直に答えた。「この物語の中で、脚本から外れようとする人物を見つけたので。でも今は…」


彼は言葉を切った。その沈黙の中に、言葉にならない何かを感じた。


「今は?」


「今はただ、あなたの幸せを願っています」彼は静かに言った。「アルス・フォビナという役割ではなく、あなた自身の」


その言葉は、前世でも前々世でも、誰も私にかけてくれなかった言葉だった。


***


セバスチャンの屋敷は、彼の人柄を映し出すようだった。質素でありながら品があり、権威を誇示するような華美な装飾はないが、随所に洗練された美しさがある。彼は私を書斎に案内した。


「安心してください。ここなら誰にも見つかりません」


暖炉の火が、部屋を優しく照らしていた。私は提供された椅子に座り、混乱する頭を整理しようとした。


「あなたも…この世界の真実を知っているの?」


セバスチャンは窓の外を見ながら深呼吸し、それから私の前に膝をついた。私たちの目線が同じ高さになる。


「私は本来、存在するはずのなかった人物です」


彼の声は静かだったが、確かな強さがあった。


「ゲーム…いや、この世界の物語には登場しない、脚本にない存在。私は偶然生まれた異常、パラメーターの外で意識を持ってしまった存在です」


「それはどういう…」


「十年ほど前、私は突然『目覚めた』のです。自分がプログラムされた存在ではなく、自由意志を持つ者になった。周囲の人々が決められた台詞を繰り返し、決められた行動をする中で、私だけが違った。そして私は気づいたのです—この世界は『物語』であり、多くの人は定められた役割を演じているだけだと」


私は彼の緑の瞳をじっと見つめた。嘘も狂気も見えない。ただ真実だけがあった。


「孤独でした」彼は続けた。「誰にも理解されない真実を抱えて生きるのは。だから私は王都から離れ、この地で暮らすようになった。ここなら、物語の主要な流れから外れていられると思って」


「それで…私に気づいたの?」


「はい」彼は小さく微笑んだ。「『悪役令嬢』という評判の貴族が突然田舎に引きこもる。不自然でした。そして初めてお会いしたとき、あなたの目に見たのです。覚醒した意識を」


「あなたは最初から…私の本当の姿を見ていたのね」


「見えました。仮面の下の恐怖と決意が」


私は震える手で顔を覆った。言葉にできない感情が胸に溢れていた。ずっと、ずっと一人で抱えてきた秘密。それを誰かが理解してくれる—その安堵感は、あまりに大きすぎた。


「アルス」彼は静かに私の手を取った。「あなたは一人じゃない。もう、決められた役割に従う必要はないんです」


「でも、逃れられない」涙が頬を伝った。「何をしても、結局は脚本に引き戻される。今日のように」


「いいえ」彼はきっぱりと言った。「脚本を書き換えることはできます。私自身がその証拠です。私は本来あるべき役割から外れ、自分の道を選びました」


「それが…可能なの?」


「私たちは覚醒した存在です。自分で選択できる。脚本に従うか、新しい物語を紡ぐか—それは私たちの自由です」


彼の言葉が、私の心に光をもたらした。二度の人生で感じたことのない、希望の光を。


しかし、その希望は長くは続かなかった。


***


玄関のドアが激しく叩かれる音が響いた。私たちは顔を見合わせた。


「アルス・フォビナ!」エドワード王子の声だった。「そこにいるなら出てきなさい!」


私の体が硬直した。


「来たわ…」震える声で言った。「結局、逃げられない」


「まだ決まっていません」セバスチャンは落ち着いた声で言った。「これはあなたが選択できる瞬間です。隠れることも、逃げることも、立ち向かうことも—全てあなたの選択です」


「でも、王子よ?前世では…」


「過去の人生はあくまで過去です」彼は私の肩に手を置いた。「今のあなたは違う。もう悪役令嬢でも、王子に恋する少女でもない。あなたはただ、あなた自身です」


ドアを叩く音が激しさを増した。


「どうしたらいい?」


「まず、あなたが何を望むのか教えてください」彼は優しく尋ねた。「本当は何が欲しいですか?」


私はしばらく考えた。過去二度の人生で、私は一度も自分に正直に問いかけたことがなかった。いつも役割や、周囲の期待に応えることだけを考えていた。


「私は…」言葉を選んだ。「自分らしく生きたい。役割に縛られず、誰かの脚本に従わず。そして…」


言葉に詰まった。最後の願いは、あまりにも単純で、それでいて深いものだった。


「そして?」


「幸せになりたい」ようやく口にした。「単純だけど、私は幸せになりたいの」


セバスチャンの顔に、温かな微笑みが広がった。


「素晴らしい願いです」彼は言った。「では、その願いのために、今立ち向かいましょう」


***


私たちが玄関ホールに降りると、すでにエドワード王子とクラウディアが中に入っていた。彼らの後ろには数人の衛兵が控えている。


「ついに見つけましたね」エドワードの声は冷たかった。「アルス・フォビナ」


「何の用ですか、殿下?」私はできる限り冷静に尋ねた。


「あなたの行動が不審すぎる。祭りから突然逃げ出し、この」彼はセバスチャンを軽蔑的に見た。「地方の男の家に隠れるとは」


「隠れてはいません」セバスチャンが言った。「単に招待したのです」


「黙りなさい」王子は彼を無視して私に向き直った。「アルス、あなたは今すぐ王都に戻ります。あなたの精神状態を調べる必要があります」


「精神状態?」


「ええ」クラウディアが一歩前に出た。「あなたの突然の性格変化、社交界からの撤退、そして今日の…異常な行動。これは魔法による影響か、何らかの病ではないかと心配しています」


理解した。彼らは私が「脚本」から外れたことを、正気を失ったと解釈しているのだ。そして王都に連れ戻し、元の役割—悪役令嬢に戻そうとしている。


「私は正気です」はっきりと言った。「ただ、自分の道を選んだだけ」


「あなたに選択肢はありません」エドワードは言い放った。「アルス・フォビナは社交界の花であり、貴族として相応しい振る舞いをすべき存在。この…田舎での隠遁生活など許されません」


彼の言葉に隠された真実が見えた。彼らは脚本に従う機械ではない。彼らなりの理由で、私を元の軌道に戻そうとしているのだ。王子にとって私は社交界の娯楽であり、クラウディアにとって私は彼女を引き立てる「悪役」なのだ。


心が震えた。また同じことの繰り返し。押し付けられる役割。奪われる自由。


そして、突然の明晰さが訪れた。


これは前世と同じシチュエーションに見えて、違う。今回、私には選択肢がある。そして…私には味方がいる。


「殿下」私は背筋を伸ばして言った。「私はあなたの臣下ですが、私の人生の選択権はあなたにはありません」


エドワードの目が見開かれた。予想外の反応だったのだろう。


「なんと無礼な!」


「無礼ではありません」私は穏やかに続けた。「私は王都での社交生活に戻るつもりはありません。それがあなたの期待に沿わないのであれば申し訳ありませんが、これが私の選択です」


「選択だと?」彼は嘲笑した。「あなたがそんな選択をできるとでも?王族の私が命じているのに?」


その瞬間、前世の記憶が鮮明に蘇った。同じ傲慢さ、同じ言葉。しかし今回は違う。私はもう彼に恋していない。彼の言葉に縛られない。


「はい、できます」


「衛兵!」エドワードは怒鳴った。「アルス・フォビナを拘束しなさい。明らかに正気を失っている」


衛兵たちが一歩前に出た時、セバスチャンが私の前に立ちはだかった。


「それはできません」彼の声は静かだが、揺るぎない強さがあった。「この土地は私の管轄です。王族といえども、正当な理由なく個人を拘束することはできません」


「貴様…」エドワードの顔が怒りで歪んだ。「アルスを誘惑し、彼女の精神を惑わせたのは貴様だな!」


クラウディアが王子の腕を掴んだ。


「エドワード様、冷静に」彼女は心配そうに言った。「このような事態になるとは…」


彼女の目には混乱があった。これは脚本にない展開だ。悪役令嬢が反抗し、隣に立つのは攻略対象の王子ではなく、未知の男性。物語がずれている。


「アルス」彼女は私に直接話しかけた。「あなたは本当に…自分の意志でこうしているの?」


その問いかけには、単純な疑念以上のものがあった。彼女自身も、自分の役割に疑問を持ち始めているのではないか。


「ええ、クラウディア」彼女の名を呼んだのは初めてかもしれない。「これは私の選択よ。二度と悪役にはならない。でも、あなたの敵でもない。私はただ…自分の人生を生きたいの」


彼女の目に、何かが閃いた。理解か、羨望か。


「おかしいことを言うな!」エドワードが割って入った。「お前の役割はすでに決まっている!父が—王が認めたお前の立場は—」


「役割ですか?」セバスチャンが穏やかに尋ねた。「誰もが予め決められた役割に従うべきだと?」


「当然だ!」


「では殿下は、自分の役割に満足していますか?」


その質問に、エドワードの顔から一瞬血の気が引いた。


「なんだと?」


「単純な質問です。殿下は王子として、将来の国王として、すべての期待と責任に満足していますか?一度も疑問を持ったことはありませんか?」


王子の目が揺れた。彼もまた、脚本に縛られた存在なのだ。


「黙れ!」彼は怒鳴った。「お前に何がわかる!」


「殿下」私は静かに言った。「私はもう、あなたの物語の一部ではありません。クラウディアと幸せになってください。それがあなたの運命です」


「運命だと?」彼は混乱し、怒り、そして何か—恐怖のようなものを見せた。「馬鹿な…」


「エドワード様」クラウディアが再び彼の腕を掴んだ。「もう十分です。彼女を無理に連れ戻しても…」


「黙れ!」彼は彼女の手を振り払った。


その瞬間、何かが変わった。クラウディアの目に傷つきと決意が浮かんだ。彼女もまた、脚本から外れようとしていた。


「いいえ、もう黙りません」彼女はきっぱりと言った。「アルスの言う通りです。私たちは彼女を放っておくべきです」


「クラウディア?」王子は唖然としていた。「お前まで?」


「私もずっと疑問に思っていました」彼女は言った。「なぜアルスを憎まなければならないのか。なぜ彼女を追い詰めなければならないのか。今、初めて理解できました。私たちは皆、誰かの期待に応えようとしていただけなのです」


王子は二人の女性を交互に見た。彼の顔には怒りだけでなく、混乱と恐れがあった。彼の世界観が崩れていく音が聞こえるようだった。


「馬鹿げている」彼は弱々しく言った。「皆、狂ったのか」


「いいえ、殿下」セバスチャンが言った。「むしろ、皆が目覚め始めたのです」


エドワードは後ずさりした。突然の転機に対応できないようだった。


「これで終わりだと思うな」彼は私たちに向かって言った。「父に報告する。貴族として不適格だと。覚悟しておけ」


彼は踵を返し、衛兵たちを引き連れて出て行った。クラウディアは一瞬躊躇い、それから私に歩み寄った。


「アルス…ごめんなさい」彼女は小声で言った。「あなたを誤解していたわ」


「気にしないで」私は微笑んだ。「私も自分自身を理解していなかったから」


「エドワード様を…なだめるようにします」彼女は言った。「あなたが選んだ道、尊重します」


そして彼女も去った。二人の足音が遠ざかり、ドアが閉まる音がした。


部屋に静寂が戻り、私とセバスチャンは顔を見合わせた。


「終わったの…?」私は信じられない気持ちで尋ねた。


「いいえ」彼は微笑んだ。「むしろ、始まったのです。あなたの本当の物語が」


その言葉に、熱い涙が頬を伝った。


***


夜が更けて、私たちはセバスチャンの書斎で暖炉を囲んでいた。そこでようやく、私は彼の全ての物語を聞いた。


彼がどのように「覚醒」したのか。どのようにして「脚本」の存在を理解したのか。そして彼がどう感じたか—この世界で唯一、自分だけが真実を知る孤独を。


「だから私があなたを見つけたとき、言葉にできないほど嬉しかった」彼は言った。「もう一人、私と同じ存在がいると知って」


「でも、あなたは『覚醒』したんだよね。私は転生なのに」


「方法は違えど、結果は同じです」彼は言った。「私たちは両方とも、定められた物語から自由になった存在」


私たちはしばらく黙って、炎の揺らめきを見つめていた。


「どうなるの、これから」小さな声で尋ねた。


「王子の言うとおり、あなたは貴族としての地位を失うかもしれません」彼は正直に言った。「彼は意地でも諦めないでしょう」


「構わないわ」私は微笑んだ。「貴族でなければ、もっと自由になれる」


「それに、私はこの地の地主です」彼は少しはにかんだように言った。「貧しくはありません。もし…よければ、ここであなたを支えたいと思います」


その言葉の重みに、私の心臓が早鐘を打った。これは…プロポーズなのか?


「セバスチャン…」言葉につまった。「それは…」


「急かしませんよ」彼は優しく言った。「これからの人生は、あなたが選ぶものです。誰にも強制されず、脚本に縛られず。ただ…選択肢の一つとして、私はここにいます」


彼の誠実な言葉に、胸が熱くなった。


「ありがとう」ようやく言葉を絞り出した。「あなたが…私の選択肢であることに、感謝しているわ」


彼は微笑むだけだった。その目に、言葉にならない感情が浮かんでいた。


私は突然、大切なことを聞きそびれていることに気づいた。


「セバスチャン、一つ聞いてもいい?」


「なんでも」


「あなたは…なぜ私に惹かれたの?単に同じ『覚醒者』だからじゃないでしょう?」


彼は少し考え、それから素直に答えた。


「最初にあなたを見たとき、私はその目に映る深い悲しみと恐怖を見ました。でも同時に、強さも見た。二度の人生で苦しみを経験しながらも、なお立ち上がる強さを。その姿に、私は心を奪われたのです」


彼の言葉は、純粋で誠実だった。脚本にない、真実の感情。


「私も…あなたに惹かれています」ようやく認めた。「あなたの優しさと、誠実さに」


私たちは言葉以上の理解を共有していた。同じ真実を知る二人だけの、特別な絆。


「明日から」セバスチャンが言った。「私たちの新しい物語が始まります。誰にも書かれていない、自分たちだけの物語を」


私は彼の手を取り、その温もりを感じた。


初めて、私は未来を恐れていなかった。


***


**半年後**


私は窓辺に立ち、庭に咲く花々を眺めていた。セバスチャンの屋敷—いえ、今は私たちの屋敷—は春の陽光に包まれていた。


予想通り、王子は私の貴族としての資格を剥奪した。両親は激怒し、私を勘当した。でも、それは前世のような絶望ではなかった。今回は、私には居場所があった。


「アルス」セバスチャンが部屋に入ってきた。「クラウディアからの手紙です」


彼女とは、意外にも友情が生まれていた。彼女もまた、少しずつ「脚本」から自由になろうとしていた。


「彼女は公爵の息子と婚約したわ」手紙を読みながら言った。「彼女の選択だって」


「王子ではなく?」セバスチャンは驚いた様子だった。


「ええ」微笑んだ。「彼女も自分の物語を書き始めたのね」


私たちの行動が、少しずつこの世界を変えていることを実感した。一人、また一人と目覚めていく人々。定められた役割から解放される魂たち。


庭を見下ろすと、かつて別荘から見たセバスチャンの庭が見える。あの日、初めて出会った場所。人生が変わった瞬間。


「後悔はない?」セバスチャンが私の肩に手を置いた。「貴族の地位も、華やかな社交界も失って」


「一つもないわ」振り返って彼の緑の瞳を見つめた。「あなたと出会えたから」


彼は微笑み、私を抱きしめた。


「愛してる」彼はささやいた。「アルス・フォビナ」


「私も愛してる」答えた。「セバスチャン・ナイトシェイド」


私は彼の胸に頭をもたせかけ、静かに目を閉じた。


これが私の三度目の人生。過去二度の悲劇から生まれた、予期せぬ幸福。プログラムされた悪役令嬢から、自分自身を選んだ女性への変化。


「脇役になろうとしたのに」微笑みながら言った。「結局、自分の物語の主人公になってしまったわね」


「最高の物語です」セバスチャンは私の髪に口づけた。「なぜなら、誰にも書かれていないから」


窓の外では春風が花々を揺らし、新しい季節の訪れを告げていた。私たちの物語もまた、ただ始まったばかり。


誰にも決められていない、自分たちで選ぶ未来へ向かって。

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