図書館の死
駅前の客足の途絶えたコンビニで、僕は、カツサンドと紅茶のペットボトルを購入して、寝ぼけた店員から釣り銭を受け取ると、店を出た。嫌に足が重い気がする。気乗りのしない勤め先であることは、僕自身、充分に自覚しているのだが、それでも、嫌なものは嫌である。このまま、自宅のボロアパートに引き返そうかとも思うが、そうもいかない今の僕の経済状況だ。そう考えて、何だかんだとしているうちに、足は、勤め先の「薔薇野探偵事務所」のある雑居ビルにたどり着いていた。重い足取りで階段を3階まで昇る。エレベーターなんて洒落たものはついていない。くそっ、馬鹿野郎、とひとりで毒づいて、いつもの玄関扉を開く。中は、そんなに広くない。机が5つ、6つくらいと、あとは応接間、それに狭い調理室くらいだ。
「おい、矢島君!君、読書に興味あるかね?」
と、いきなりに、僕に大声がかけられた。よく見ると、所長の薔薇野幾三が、デスクの向こうで、デップリと肥えた腹を突き出して、朝食のバーガーをガツガツと喰っている。この豚野郎が!
「読書、と言いますと?」
と、僕は、乗り気のない口調で自分のデスクに腰掛けながら答えた。
「本だよ、本。...............、実は、君にうってつけの依頼があってね?」
「へえ、依頼ですか?これは珍しい」
薔薇野所長は明らかに気を悪くしたらしい。僕の言葉を黙殺して、
「ちょっと、込み入った事情があってね」
と、薔薇野所長は、気まずそうに、モゾモゾと腰を揺すって、
「依頼人のことは口に出せんのだが、言えるのは、この探偵事務所始まって以来の高名な依頼人なのだよ」
「じゃあ、何故、うちなんかに?」
「どうも、極秘の調査らしい。調査料は莫大な額でね。これが成功すれば、君のボーナスも桁が上がるぞ」
そこへ、同僚の香川寿美子が僕にお茶を持ってきてくれた。寿美子は、十人並みの美人だ。こんな三流探偵社に勿体ないくらいの、器量と、抜群のプロポーションで男が魅了されるのだ。
「すごいわね、矢島君。あたしも関わりたいくらいよ!」
「うん?それなら、香川君にも、もちろん、手伝ってもらうつもりだよ」
その薔薇野の言葉で、寿美子は、思わず、その場で飛び上がって喜んだ。
「それじゃ、あたし、急いで、鳥打ち帽と虫眼鏡とステッキを準備しなきゃ!」
僕は、微笑んで、胸を張っている寿美子を見上げていた。
「詳しく話したい。悪いが、矢島君、応接間に来てくれたまえ」
そう言って、薔薇野は、重い腰を杖をついて持ち上げ、移動した。
急いで、僕も向かいの席に着く。
「君に調査してほしいのは、ある人物なんだよ」
と、薔薇野は、慎重な口調で言った。
「須崎孝太郎、名を知られた有名な物理学者でね。量子力学の世界では、「須崎理論」といえば、知らぬものはいないくらいさ。実は、ここからが重要なんだが」
と、薔薇野は声を低くして、
「君に、須崎博士の最新研究の結果を盗んできてほしいのだ」
僕は、しばらく無言だった。ショックを受けたのだろう。
「盗む、ですか?」
「ああ、ありていに言えばな。確かに違法行為だ。悪いことだが、それが通るのが現実世界だよ。依頼人はどうしても、それを知った上で、彼を超える研究成果を出したいらしい」
「つまり、依頼人も物理学者なんですね」
「ノーコメントだ。あのね、こんなことを言うのも何だが、わしも、この事務所を開く前には、製本の街工場でバイトしたり、電気の工事夫をやっとった。そんなもんさ。この過酷な世の中を生き抜くためには、多少のことは眼をつむらなきゃならんのだよ」
「ええ、分かりますが............」
「よし、話は決まった。さっそく、今から動いてくれ。ああ、それから、これは、蛇足だが、実は、須崎孝太郎は、偶然にもわしの義理の兄なんだよ。驚いたろう?だから、弟のわしからも、くれぐれも、彼は大事に扱ってやって欲しいんだ。頼んだよ、彼に身の危険が及ばぬようにな」
所長は、言い終えると、デスクに戻り、また豚みたいにガツガツとバーガーを喰い、ポケットからピンクのハンカチを取り出して、旨そうに口の回りを拭いていた。
僕は、デスクで、ため息を突いた。泥棒か.................。
「何しとる!早く、香川と一緒に行ってこい!東都大学だぞ!急げ!」
所長は、怒っているらしい。怖いな。仕方ないか?
デスクを立ち上がり、去り際に、所長の机を見た。デスクのうえで、ガラス製の可愛い水飲み鳥が、カタカタと器用に、首を振っていた................。
所の自動車に乗り込む。ガソリンは満タンらしい。慌てて、ハンドバッグを揺らせながら、寿美子が隣の助手席に駆け込んできた。
「矢島君、足、長いのね。追いかけるの大変よ!」
そう言って、スラリと白い足を伸ばして、腰を下ろす。その拍子に、ピンクのミニスカートがめくれて、ピンクのパンティーが覗く。寿美子は、それに気づいて、
「やっだー。どこ見てんのよ、この助平が!」
何、言ってんだか?とにかく、アクセルを踏む。発車する。
車は、駅前から、住宅街、郊外と抜けて、やがて、山の手のキャンパスロードをひた走る。
「話、盗み聞きしちゃった。でも、すごいわね、あたし、聞いたこと、あるわよ。須崎孝太郎でしょう?有名よ。この前もテレビの教育番組で、「科学の最前線」って特集に出てたもの。おじさんだけど、イケオジよね?でも、あたし、物理はチンプンカンプン。学問よりも、チョコレートパフェって感じ。男よりも団子よね?」
「僕も量子力学なんて知らないよ?所長、よく、僕らなんか行かせるよな?どうする、寿美子君?」
「うん、まずは、どうやって須崎博士に接近するか、よね?矢島君、あなた、例の名刺は?」
「もちろん、いつでも出せるよ。うーん、そうだな?................、これ、どうだろう?」
そう言って、僕は運転に気をつけながら、寿美子に1枚の名刺を差し出した。そこには、「東都新報 科学部門 取材記者 矢島潤一」とある。寿美子は感心したように眺めて、
「よく、こんなに色々と持ってるわね?これなら、うまく騙せるわね。いいわ、これで行きましょ?じゃあ、あたしは?」
「もちろん、助手のカメラマン、ならぬ、カメラウーマンってとこかな?」
「カメラマン、香川寿美子よね。よし、バシバシ、撮っちゃうぞ!」
そうしてるうちに、車は、すでに、東都大学の巨大な門を通り抜けて、広い緑のキャンパスの構内へ。やがて、僕は、やや重い気分で、車を降り、正面の守衛室へと向かう。
あとを、駆け足で寿美子が追ってくる。お構いなく、僕は、守衛室の窓口に顔を突っ込んで、
「あのう、お尋ねしたくて?」
窓口の奥から、中年の無愛想な顔つきの男が出てきて、
「何?誰だい?」
と、実に、そっけない。
「あのう、新聞社から参りました。須崎孝太郎さんは、今、どちらに?」
「そんなこと、知るかよ?自分で探せば?理学部なら、あっちだから」
と、奥の校舎を指差した。
「ああ、そうですか、どうもありがとう」
構内は、緑に溢れ、おおぜいの若者が、楽しげに行き来して活気に満ちている。僕にも、こんな時代、あったよな、と改めて懐かしい感慨に耽っていた。ふと、隣を見ると、もう記者気取りの寿美子が、一眼レフを両手に構えて、辺りをキョロキョロしている。
そんな挙動不審な僕たちは、やがて、理学部の学舎までやって来た。結構、大きな5階建ての建造物だ。玄関を入ると、小さなロビーになっている。そこへ、たまたま、ひとりの若い学生が2階からの階段を降りてきたので、抜け目なく僕は声をかけた。
「君、須崎先生の居場所、知らない?」
「ああ、須崎教授?先生なら、今日は月曜だから、研究室で学生とセミナーじゃないかな?誰です、あなたたち、テレビの取材?」
「そんなとこ、ありがとう、で、研究室はどっち?」
「3階の左手だよ。でも、よかったね、須崎教授、優しい性格で」
「ありがとう、じゃあ」
玄関ロビーの中にあるエレベーターで3階へ。廊下は、思いの外、明るくて、広い。しかし、実験器材や、山積みの段ボール箱で歩くのもやっとである。ようやく、「素粒子物理学研究室Ⅱ」と書かれてある扉を探り当てた。というのも、担当教官の札に「須崎孝太郎」とあったからだ。僕は、恐る恐る扉をノックする。しばらくして、若い丸眼鏡の小柄な若い女性が顔を出すと、
「はい、どちら様でしょうか?」
と、丁寧な口調で尋ねてきた。そこで、僕は例の名刺を彼女に差し出し、
「東都新報の矢島と申しますが、あの、先生は、今、こちらに?」
「ああ、教授ですね。須崎先生なら、今、セミナーの最中ですの。そうですわね、あと30分もすれば、終わりますから。先生には、この名刺、お渡ししときますから」
「では、お手数ですが。また、お邪魔します、失礼しました」
僕たちは、再び、外に出た。
日が眩しい。まだ、昼前だ。
「おい、寿美子君、昼飯にしないか?学食はどうだい?」
「大学の食堂?何か気乗りしないわね、どこかに、いいパーラーでもないのかしら?」
「贅沢言わないこと。学食でだって情報入る可能性はあるんだぜ?」
「ハイハイ、仰せの通りに」
近くで、おおぜいの学生が騒いでいる。ただ事ではない様子だ。
それは、理学部から程近い或る学舎の傍らである。人々がワイワイと叫んで、群れをなしている。
どうしたんだろう?
僕は、好奇心に駈られて、人混みをかき分けて、前へ出た。そして、あまりの惨状に自らを後悔した。
学舎のそばの路上に、ひとりの若い女学生が倒れている。白いタートルネックに黒のジーンズだ。手足が乱れて、投げ出され、頭が、まるで、柘榴の実のように紅くパックリと割れて脳が飛び散っている。即死だろう。
「驚いたよ。突然にそばで、ヒューと勢いよく落ちてきてさ、驚いたの、何のって」
「もう少し、ずれてたら、お前もあの世行きっだったのにな?」
「悪い冗談、よせよ!」
僕は、その場を離れて、校舎の上を見上げた。4階の窓が大きく開いて、中から、レースのカーテンがなびいている。自殺だろうか?でも、何で?理由は?
「あたし、気分、悪いわ!どこかに行きましょ!」
寿美子が青白い顔をして、僕を見上げている。そりゃ、そうだ。
「とにかく、昼飯食って元気をだそう!おい、行くぞ!」
学生食堂は、お昼ということもあって、大にぎわいだ。おおぜいの学生たちをかき分けて、窓際の席に着く。二人とも、日替わり定食だ。隣に寿美子が座った。
「あのさ、さっき見た素粒子物理学って何?全然、あたし、馬鹿だからさ」
「うーん、僕に聞かれてもなあ。ただ、物理学っていうのは、大きく分けて、理論物理学と実験物理学に二分されるらしい。理論物理学は、簡単にいえば、机上の学問、計算したり、理論をたてたり、その他もろもろさ。でも、実験物理学は、巨大な実験施設で、実際に実証して、現実に起こり得るかどうか調べるわけだな。その両方のアプローチから、未知の課題に取り組むわけさ。で、須崎博士の素粒子物理学は、物質の最小単位とされる素粒子の振る舞いについて研究する分野だから、まだまだ謎が残されている。そこで、見い出した「須崎理論」、僕には理解できないが、盗むだけの価値はある研究が今も行われている可能性は高いね」
「分かってきたわ。つまり、とっても、ちっちゃな分子を扱う学問ってことね?何か、ロマンあるのね?」
「はっ、はっ、はっ、君も研究室に助手で入れてもらうといい。................、そろそろ、行こうか?」
「そうね!でも、さっきのー」
「飛び降りかい?たぶん、自殺じゃないかな?」
「まあ、いいわ。行きましょ!」
二人は、須崎研究室へと向かって、足を進めた............。
「最近、妙な夢をよく見てね」
と、須崎孝太郎は、物理学者らしからぬ発言をした。
須崎は、60代半ばだろうか、長い銀髪と面長でスポーティーな顔立ちから、寿美子のいう「イケオジ」らしいダンディーなおじさん風の男性だ。背も高い。やぼい僕とは大違いだな、とやっかみながら、
「と、言われますと?」
「こんなこと、新聞記者の君たちに言っても始まらんが、どうも、気になってね。それが、空から落ちる夢なんだよ」
そこは、教授室だ。狭い室内の壁には、本棚が並び、至るところに横文字の原書らしい専門書がズラリと並んでいる。須崎教授は、僕たちに、お茶を勧めながら、
「嫌なものだね、毎晩だからね。落ちる夢だなんて。正夢にならなきゃいいんだが......................」
と、屈託なく須崎は笑った。僕は、さっそく、仕事の核心に触れた。
「先生のご研究の方は?いかがですか?」
「ああ」
と、真面目な表情で、
「お陰様で、順調に進んでいるよ、ホラ、あそこに」
と、机のうえに無造作に積んだ書類の山を指して、
「研究結果は、あそこに積んである。しかし、ごく最近は、少し、スランプ気味でね。量子の謎がまた深くなってきたよ。最近は、唯心論に傾きそうだよ、本音をいえばね?」
「唯心論?」
「物質は心から出来ているんじゃないかって、本気で思わされるよ。ねえ、君はどう思うね?」
「そういう難しいことは苦手でして................」
僕は、ホッとしたのが本音だった。仕事は、半分、終わったも同然だ。あとは.................。
「とりあえず、今回のインタビューはここまでにします。次回、また、続きをお聞かせ願えればと」
と、僕は、ハンディーレコーダーのスイッチを切った。須崎は笑って立ち上がると、
「いやあ、楽しかったよ。また、ぜひ、来てくれたまえ、おい、鈴木君、お送りして?」
例の丸眼鏡の若い女性が、実験室から呼ばれると、僕たちを案内した。小柄だが、可愛い娘だ。
「君、ここで何、してるの?」
と、僕が聞くと、その娘は、
「私、鈴木京子です。ここの実験助手やってます。では、こちらから?」
と、僕たちを送り出した。実にそっけない子だな、と、不満に思いながら歩いていると、後ろから、寿美子がニコニコした顔で、
「写真、バッチリよ!あのおじさん、かなりいける。何だかあたし、カメラマンの素質あるのかしら?」
僕は、げんなりして、階段を降りた。1階まで到着する。
その時だ。僕たちの隣で、2階からバタバタと階段を転げ落ちてくる者がいたのだ。
ビックリしていると、その若者は、何とか1階で床から立ち上がると、ポケットから取り出した薄朱色のハンカチで、足の傷口を押さえて、僕たちを見上げた。よく見れば、さっき、須崎研究室で、パソコン相手に格闘していた男だ。彼は、ニッコリと笑うと、
「ああ、先ほどの新聞社の方たちでしたか?こいつはどうも。寝不足なんですよ、最近。こんな調子で。あっ、僕、馬野浩一って言います。実験助手してます。鈴木君とはもう会われましたよね?教授なら、もう、大学の付属図書館の方へ調べものに行かれましたよ。あいたたた」
そこへ、白衣を着た長髪で丸顔の男が上から降りてきて、僕たちを見つけた。
「やあ、讃岐じゃないか?君、ちょうど良かった。僕、足を痛めたんだよ。悪いけど、僕の部屋まで運んでくれないか?」
「ああ、いいっすよ。ほら、肩貸してー」
僕たちが見送るなかを、二人は肩を組んで、ゆっくりと階段を上がっていった。
「持つべきものは、やっぱ、仲間よねえ?」
と、腕を組んで、寿美子がしきりに感心している。ふん、何、言ってんだか?
また表に出た。僕は、寿美子に尋ねた。
「僕たちのお目当ては、どうやら、教授の机の上らしいね。君、例の超小型カメラは持ってきたのかい?」
「万事、抜かりないわよ。上着の内ポケットに忍ばせてあるわ」
「そいじゃあ、あとは、教授室の扉の鍵だな。いったい、どこだろう?」
「決まってるわよ。教授の服のポケットの中よ。彼、今、図書館にいるって言ってたわよね?行ってみる?」
「でも、どうやって盗むんだい?僕、スリの名人じゃないぜ?」
「問題はそれよね。..................、とにかく、行ってみましょうよ、当たって砕けろって言葉もあるんだから?」
それで、僕たちは、そんなこんなで東都大学の附属図書館へと向かったのである。
東都大学附属図書館は、大学敷地内の、大きな池の辺りに建てられている。3階建ての立派なコンクリート造りの現代風デザインの建造物である。玄関は自動ドアで、入ると、1階フロアは、豪華なロビーが待ち、そこも、書物を抱えて右往左往する学生たちが、ソファに座っていたり、窓際で談笑していたり様々だ。
そして、僕たちが、ロビーに踏み込んだ時である。すぐ近くにいた、背の高い、長髪の青年が、人懐っこい笑顔で、僕に話しかけてきた。
「あのう、すいません。この館内に、喫茶ルームってあるんですかね?ご存じありませんか?」
それで、僕も、つい笑顔になって、
「さあ、僕たちも、ここ、始めてなんです。どうなんでしょうね?」
すると青年は、丁寧に頭を下げてどこかに去った。何だか、妙に印象に残る男だ。
「ねえ、須崎教授、どこよ?」
ちょっと、むくれた様子で寿美子が僕に訊いてきた。
「さあ、たぶん、図書室で何かの調べものじゃないかな?ちょっと、探してみよう」
どうやら1階は、玄関ロビーと大会議室で、2階が、図書の閲覧ができる閲覧室と、視聴覚ブース、そして、休憩室。最上階の3階が、軽食と喫茶のコーナーになっているようだ。その窓際の席にさっきの青年がいた。煙草を吹かして、旨そうに珈琲を飲んでいる最中であった。両手には、大きな書物が握られていた。何気なく、僕は、その書物の背表紙を覗いた。「メンタル奇術の近代的発展」とある。手品好きか?何やら、変わった男だなと僕は、正直に思った。
しかし、仕事である。とにかく、急いで須崎教授の居場所を突き止めねば。僕は、階段を、辺りをキョロキョロと見て、興味津々の様子の寿美子を従えて、2階の開架室へと向かった。
閲覧室は広いスペースを占めている。たくさんの書架が並んでおり、多くの学生や教師たちが並んで書物に首を突っ込んでいる。そして、それらを囲むように、まるで、回り廊下のように、遥か上空の環形の中2階が取り囲んで僕たちを見下ろしていた。
「おや、さっきの方たちですね?」
振り返ると、そこに、たくさんの本を抱えた若者がいた。あの、讃岐という男だ。僕は、笑って、
「ああ、あなたでしたか?調べものですか?」
すると、讃岐は、気障に長髪を振って、
「いやあ、ちょっと、馬野さんに頼まれましてね。見てくださいよ、この本の量。あの人、ああ見えて、読書家なんだから?で、あなたたちは、何で?」
「いやあ、僕も取材がてら、少しは勉強しておこうと思いましてね?物理学の本ってどの辺りです?」
「6番の書架ですよ。僕たちは、よく行きますがね。そうだ!あなたたち、鈴木さん、見かけませんでしたか?」
「実験助手の?さあ、知りませんねえ?」
「おかしいな、彼女、教授に話があるとか言って、こちらへ向かったはずなんですがね?」
そう言うと、讃岐純也は辺りを見回していたが、やがて、諦めた風で、どこかに去った。
「何ですかね?鈴木嬢の話って?」
と、寿美子が声を落として言った。
「教授との間に変な関係でもできて、揉めてるってか?冗談じゃない。僕たちは、芸能部の記者じゃないぜ?」
ともかく、6番の書架まで行ってみるか?僕たちは、学生の波をかき分けて、物理学の世界へと向かった。
6番書架。そこに、馬野浩一がいた。よれよれの白衣を着ている。どうやら、読書に没頭しているらしい。僕たちに気づかない様子だ。本の背表紙を盗み見た。「
量子多体問題の研究」とある。僕には、まったくチンプンカンプンだ。彼は、僕たちに気づかぬまま、立ち上がると、真剣な表情で、書架室の机に向かって去っていった。
「ほら?」
と、寿美子が、すっとんきょうな声を上げて言った。
「須崎教授、あそこにいるわよ!」
彼女は、上を指差している。僕も見上げた。
中2階の回廊でる。見上げるような高いところだ。
回廊の中ほどのある書架の前で、アルミ製の脚立に乗って、須崎教授が、本を閲覧していた。興味津々の様子だ。何かの収穫でもあったのだろうか。次々と、書籍に手を伸ばしては、本棚から抜き出している。そして、である。彼は、一冊の本を抜き出そうとした。その瞬間、彼は、衝撃を受けたかのように、バランスを崩した。そして、乗っていた脚立が倒れ、そのまま、彼は、まっ逆さまに、下の床へ転落した。
凄まじい衝撃音がした。
床に倒れた須崎教授は、落下したまま、微動だにしない。どうしたのか?
僕たちが、駆け寄るのと、もうひとりの人物が駆け寄るのが、ほとんど同時であった。
それは、さっきの奇妙な喫茶コーナーの男であった。
「落ちましたね。どうやら、即死らしい。この高さなら、無理もないか?」
と、平然としている。僕が、
「僕、見てましたよ。どうやら、バランスを崩して、落ちたみたいですね」
「そうですか?で、あなたたちは?」
「ええ、東都日報の記者です。今日は、この須崎教授の取材に来たんです、それが何か?」
「では、取材許可証をお持ちですね?ちょっと見せていただけますか?」
「しゅ、取材許可証?い、いや、今日はあいにく持ち合わせませんで..............」
「お持ちでない?どうも怪しいなあ?あなたたちの車、拝見できますか?」
「い、いや、それも..............。これは、しまった。つい、ボロが出ましたね?ばれたか?あなたは、鋭い方だ。ええ、実は僕たち、探偵事務所のものなんです。秘密裏に、須崎教授の素行調査の依頼を受けましてね」
と、僕は、あくまでも、嘘を突き通した。その男は、頷くと、
「そうでしたか。探偵さんですか?そんな感じがしましたよ。それで、そちらの方は?」
「あたし、彼の助手の香川と申しますの。よろしく」
僕は、辺りを見回した。何人かの者たちが、騒ぎを聞き付けて集まっている。また、すぐ近くでは、無関心な様子の、体格の良い配線工が、淡々と工事を進めているようであった。いつもの図書館、とはいかないか?
その時である。
死体に屈み込んだ三人の前に、ひとりの若い女性が、唖然とした様子で立ちはだかり、やがて、彼らに歩み寄ると、こう言った。
「やっぱり、そうだったのね。あたしの思った通りだわ。彼、殺されちゃったわ!」
「殺された?」
と、例の男が訊いた。
「あたし、奴が「仕掛ける」ところ、目撃していたの。やっぱり、そうよ。殺されたわ」
「あなた、誰です?」
「すべてお話ししますわ。ここでは、まずい。そうね、今日の夕方の5時に、学生ホールの裏庭でお待ちしています。そこで、すべてを。それじゃ」
そう言うと、その紅いワンピースの女は、逃げるように、その場から姿を消した。
「今の女、誰でしょうね?」
と、僕が訊いた。
すると、集まった群衆のひとりが、声を上げて、
「菅野小百合だよ。ここの図書館の司書をやってるよ!」
「ありがとう。ところで、あなたは?」
と、僕は、例の男に訊いた。
「いやあ、そんな」
と、照れたように、
「僕、鏑木っていいます。通りすがりですよ。それで、誰か、警察には?」
そんなことをいってる間に、さすがの司法機関である。あっという間に、大勢の連中が到着すると、現場検証に当たった。しだいに、人が増えてきた。僕たち3人は、逃げるように書架室の隅の腰掛けで避難していた。
そこへ、ひとりのツルツル頭の痩せた中年男が、鏑木を目敏く見つけて、やって来た。
「事件のあるところ、鏑木さんあり、ですな、お久しぶりで」
「やあ、匂坂警部さんでしたか?また、弱ったなあ、また僕に関わりがあるっていうんですか?」
「いやいや、まだ、事件と決まったわけではありませんからね。で、鏑木さんのご意見は?」
鏑木は、先刻の女性の話を警部に説明した。警部は、神妙に話を訊いていたが、
「奴が仕掛けた?ですか?殺しだと?ふむ、そいつは聞き捨てならんなあ」
正直、僕の頭は仕事で一杯だった。そこで、警部に訊いた。
「あのう、すいません。こんな妙なこと、訊いて何ですが、あの、被害者のポケットに鍵は入ってませんでしたか?」
「鍵?鍵ですか?いいえ、なかったですよ。どうして、また?」
「いえいえ、何でも」
僕は、落胆した。鍵は、教授のポケットではなかった。とすると、あるのは、研究室のどこかだ。そこで、僕が言った。
「この事故のこと、研究室の皆に僕たちが知らせてきます。それも、記者の勤めですから」
そう言って、僕は、素早く鏑木にウィンクした。鏑木が微笑みを返してきた。
「君たちも事故の目撃者だからね」
と、匂坂警部が言った。
「一応、君の携帯の番号を訊いとくよ?いいね?」
僕は、警部に番号を教えると、慌てて、その場を去った。
図書館を出たところで、青い顔をした寿美子が言った。
「怖いわ、墜落死。またよね、さっきの女学生とおんなじよ!」
「偶然だろう。それよりも、香川君、君、研究室のどこに例の教授室の鍵があると思う?」
寿美子は、首を捻って、
「そうね、教授室の前の廊下のどこかか、サロン室かしら?」
「確かに臭いね。そのあたりで、当たってみるか?」
その時、僕の携帯が鳴った。出てみると、鏑木からである。彼にも、番号は伝わったらしい。
「やあ、鏑木さん、何ですか?」
「ああ、悪いんですがね、例の菅野小百合の件、君たちに頼めるかな?僕、警部さんと用事が出来てね。ぜひ、行きたいんだが」
「ええ、構いませんよ。5時に学生ホールの裏庭でしたね?行きますよ。何か、分かったら、こちらからご連絡します、では」
すると、寿美子が思い詰めた様子で、
「でも、怖いわね、殺しだ、なんて。彼女、何、知ってるんだろう?」
「とにかく、行けば分かるさ。さあ、研究室へ急ごう、香川君、今、何時かな?」
「3時30分過ぎよ。そうね、急がないと」
須崎研究室の前は、嫌に静かだった。僕は、静かに扉をノックした。しばらく間があって、扉を開いたのは、中年の女性であった。茶色のドレスに黒の細いベルトをしている。背の高い、気品のある女性であった。
「あの、どちら様ですか?」
僕は、嘘の自己紹介をして、毅然とした態度を崩さなかった。
「あら、記者の方でしたか?それで、どのような件でいらしたんですか?」
僕は、あらましの内容を告げた。そして、話が、図書館での事件について触れると、
「それなら、すでに鈴木さんの方からお聞きしましたわ。まあ、どうぞ、お入り下さいな」
そこは、僕が予想したような談話室であった。広いテーブルが置かれて、椅子が何脚も並べられている。部屋の隅に、おそらく彼女の座るであろう机と椅子もある。
「私、文部省の技官をしております岡村珠世と申しますの。この度は、大変なことになりまして、皆、動揺しておりますわ。仕事どころじゃありませんもの」
「あちらの方は?」
テーブルに腰かけて、珈琲をすすりながら、こちらに背を向けている。小柄で、モジャモジャ頭の男だ。
「ああ、あの方は、准教授の茂木繁雄さんですわ。研究熱心なんですが、人付き合いが苦手な方で」
その茂木准教授が、こちらに顔を向けてじっと僕たちを見つめた。黒い口髭を生やしている。
「とうとう、奴もお陀仏か?彼も、図書館で死んだんだ。本望だろうよ」
そう言って、また僕たちに背を向けて珈琲を飲んでいる。でも、彼もどこか、もの悲しげな様子だった。
隣の寿美子が、肘で僕の横腹をつついて、小声で、
「鍵、鍵」
と、囁いた。うっかりと忘れていた。
僕は、抜かりなく、辺りを見回して、鍵のありかを探した。冷蔵庫の上、壁際の本棚の隅、もしかしたら、岡村技官の机の中だろうか?そうこうしているうちに、お茶の時間が来たのか、部屋に次々と研究室の連中がやって来た。馬野浩一、鈴木京子、そして、学生の讃岐の順であった。皆、一様に暗い顔つきだ。無理もない。
「おい、讃岐、この前言ってた温度の問題、どうなったんだ?」
「超低温の装置が何とか修理できてね。前に進みそうだよ、ありがとう」
「僕はよく知らんが、水素分子って扱いにくいのか?」
と、馬野が訊いた。
「うん、そればかりは、何ともいえんね」
「馬野さん?」
と、僕が尋ねた。
「あなた、さっき、コンピューターで研究されてたみたいですが?」
「ええ、量子ビットを使って、量子コンピューティングの研究をかじってましてね、日々、コンピューターとの戦いですよ」
「鈴木さん、あなたは?」
「私は」
と、鈴木は、やや口ごもって、
「顕微鏡ですわ。原子分解能の電子顕微鏡。カーボンナノチューブってご存じないですわね?閉じ込めた分子の振る舞いを観察しているんですの」
僕には、さっぱり分からない。それで、話題を切り換えた。
「みなさん、あのう、菅野小百合っていう女性をご存じありませんか?」
すると、鈴木京子が、
「あたしなら、よく図書館でお話ししますよ。普段は、おしとやかで、気のいい方なんですがね。何で、あんなこと、言ったのかしら?」
「他の方で、ご存じのかたは?」
皆、黙り込んだ。気の悪い沈黙であった。やはり、皆、須崎教授の死が気にかかるのであろうか?
また、寿美子が、肘で僕をつついた。そうだった。
「あのう、すいませんが、研究室の辺り、写真に撮っても構いませんかね?記事に使いたいんで」
「ええ」
と、岡村技官が言った。
「ご自由にどうぞ。ただし、教授室は鍵が掛かって入れないと存じますが?」
「ご協力、ありがとうございます。では」
と、言い残して、僕たちは研究室の硬い扉を出た。廊下に、人の気配はなかった。僕たちは、手分けして、教授室の扉の近辺を手当たり次第に鍵を求めて探しまくった。しかし、なかった。ないのである。どこなんだろう?
「おい香川君、今、何時だい?」
「5時15分前よ。そろそろ、会いに行かないと?」
そこで、僕は研究室の連中に失礼を詫びて、廊下を通り抜け、表へ出た。
「学生ホールってどこ?」
と、寿美子が呑気に訊いてくる。僕はあきれて、
「そんなことを僕が知るかよ。誰かに訊こう」
理学部の学舎を出て、とりあえず、大学の中央広場へ来た。すると、広場の芝生に座り込んで、沈み込んでいる様子のひとりの女学生がいた。そこで、僕は優しく声をかけた。
「君、どうかしたの?」
すると、彼女は、声を落として、
「あたしの親友の智子が死んじゃった、嘘みたいよね」
「死んだって、さっき、落ちてきた女の子?」
「そう、あたし、栗原佳子っていうの。でも、あの娘、最近、就職活動で思い詰めてたから、もしかしたら、自殺しちゃったかなって?でも、馬鹿よね、自殺するなんて。あたしなら、こんな大学、辞めてやるのに」
「そうなんだ。でさ、君、大学ホールって知ってる?」
「ここの?それなら、図書館の裏側にあるわよ。でも、おじさんたち、何なの?」
「ちょっとね。どうも、ありがとう」
僕たちは、もと来た道へと引き返した。
「馬鹿じゃない?図書館の裏じゃないの」
「人のこと言えるかよ。ずいぶんと時間、食ったな。今、何時だ?」
「もう5時過ぎてるわよ。さあ、行きましょ!」
学生ホールは、大きな円筒形の建造物であった。様々な施設があるのだろう。自動ドアの玄関を通り越して、円形の壁を沿って裏手に回る。裏庭には、こんもりとした林が生えていて、中央には、西洋の女性を形取ったブロンズ像が立っている。その周囲には、赤レンガの花壇があった。僕は、菅野小百合を探して、辺りを見回した。彼女がいた。近くの林の樹のそばに立っている。
「菅野さん、お話しをお伺いにー」
と、そこで、僕は奇妙なことに気づいた。彼女の様子が変なのだ。うまく表現できないが、妙にぎこちなく突っ立っている感じなのだ。それで、不審に思い、僕は彼女のそばに近寄って、ハッとした。
彼女は、細長いナイフで、背中を刺されて、串刺しにされて樹に刺さっている。すでに絶命していることは明らかであった。
「殺られたな?」
「ひどい、串刺しにするなんて!」
寿美子にしては、気丈になっている。慣れてきたんだろうか?
ともかく、連絡しないと。それで、僕は、恐らく警部と一緒であろう鏑木に電話した。鏑木が出た。事情を話すと、直ぐに警察と一緒にそちらへ向かうとのことであった。
ふと、僕は隣を見た。何やら、首をかしげて、寿美子が悩んでいる。
「どうしたんだい?」
「さっきから、気になってんの。待てよ、もしかして?」
そう言うと、寿美子は、急に被害者のドレスのポケットをゴソゴソと探っていたが、やがて、中から、1本の鍵を取り出した。
「やっぱりね、彼女が持ってたのよ」
「どういうことだい?」
「彼女、図書館の司書、してたでしょ?だから、須崎教授が、うっかりと図書館で落とした教授室の鍵、司書の彼女がどこかで拾ったんじゃないかなって推理したわけよ!」
「よっ、名探偵!鋭いね」
「そう、これで、無事に鍵は手に入ったわね。あとは、忍び込むだけよ」
ようやく、警察が現れた。裏庭が、騒々しくなり、その人混みを掻き分けるようにして、鏑木と匂坂警部のふたりが、疲れた顔で出てきた。
「やあ、警部さん、お疲れのご様子ですね?」
「ああ、どうも。今まで、事件の関係者と会ってきたばかりでね。大学の研究室ってのは、どうも性に合いませんなあ」
「で、今度の事件、どうお考えで?」
「殺しですな。これで、図書館の事件も怪しくなってきた。どうも、内部犯行の可能性が高いような気がします」
「僕もです。研究室の連中に殺人の動機はあるんですか?」
僕たちは、中央のブロンズ像の回りに沿って、並んで座っていた。西洋の女性像が、冷たく僕らを見下ろしていた。
「念のために調べておきました。今となっては、助かりますよ。順に、ご説明しましょう。まず、准教授の茂木です。彼は、教授の座を狙っている。そのために、殺したとしても不思議ありませんな。プライドの強い男のようですからな。次に、岡村技官、彼女の場合は、警察の内部ルートで裏を取りました。どうやら、教授と不倫してたみたいですね。あの顔でね。彼女も結婚してますからな、充分に殺人の動機はあります。それから、鈴木京子、彼女は、過去に実験データの捏造をしていたようですな。そして、それを教授に知られた。これも非常にまずい。そして、馬野浩一、彼は、教授の研究データを盗んだらしい。それを自分の功績に利用しようとしましてね。教授に知られたらしい。こいつも怪しい。あと、学生の讃岐ですがね、彼には、どうも動機が見当たらない。容疑から外そうと思っとるんです」
そろそろ、辺りが暗くなり始めた。夜が来た。
警部が言った。
「鏑木さん、あなた、何かご意見は?」
「いやあ、これといって。ただ、気になる点がひとつだけ」
「と、いいますと?」
「図書館の事件、被害者のそばに本が落ちてましたよね?」
「ええ、彼が取り損ねた本ですよね?」
「それ、どんな本でした?」
「そうですな、確か、ハードカバーの百科辞典です。金属製の背表紙がついた立派な装丁本ですな」
「そうでしたか.................」
僕は、腕時計を見た。午後6時だ。仕事を急がないと。
「ねえ、君たち」
と、鏑木が笑って言った。
「少しの時間で良いんだ。君たちに話があってね」
それで、僕たちは、警部を残して、三人で、木立のそばに来た。
そこで、鏑木が言った。
「ねえ、僕だけに本当のことを教えてくれませんか?どうも、君たちはまだ何か隠しているような気がしましてね。事件解決のためなんです。決して他人には告げ口しませんから、教えてくださいよ?」
どうやら、この男には、もうばれているらしい。鋭い奴だ。でも、時間もない。それで、仕方なく、本当のことを、最初から手短にすべて、こと細かく説明した。
「そうでしたか、ようやく分かりました。本当に感謝します。また、必要なら、ご連絡します。では、お気をつけて」
僕は、警部のところに戻ると、彼に言った。
「僕たち、そろそろ帰らないと。何か、あったら連絡ください。さあ、香川君、行こう!」
夜の研究室はひっそりとしていた。人の気配もない。廊下も、心なしか、暗いような気がする。
「何だか、泥棒の気分ね?」
と、また寿美子が間の抜けたことを言った。
「じゃあ、カメラで教授の研究結果を、黙って撮って帰るのは、何の真似だい?扉はどこだ?」
「こっちよ」
すぐに見つかった。少し、緊張しながら、扉に鍵を差し、回したが、カチリと音がして扉の鍵が開いた。ふたりで中に忍び込む。真っ暗な室内である。窓から、月明かりが差していた。暗闇と静けさのなかで、僕たちは部屋の明かりのスイッチを指で探り当てると、押した。パッと室内が明るくなった。
「これだな?」
と、僕は、教授の机の上の書類を見つけると、寿美子を手招きした。彼女は手に、超ミニカメラを持っている。
「さあ、頼んだよ」
まるで、サスペンス映画の女スパイさながらの勢いで、寿美子はバシバシと写真におさめていく。
そして、もう少しで終わるという頃、僕たちの不意を突いて、突然に背後の扉が開いたのだ。
驚愕して、僕たちは振り返った。
そこに、扉のところに、小柄な茂木准教授が立って、僕たちの姿を見ていたのであった。
「なるほどね」
と、腕を組んで、茂木准教授は納得したように言った。
「それにしても、部屋の明かりをつけたまま、カメラを撮るなんてドジなスパイもいたもんだ」
「恐れ入りました」
と、僕は、紅い顔をして言った。
「探偵社か?秘密を盗むとはねえ、世の中は恐ろしいものだ」
と、しばらく茂木准教授は考え込んでいたが、
「返したまえ」
と、言った。
「はあ?」
「決まってるだろう。カメラだよ。僕に返したまえ、今すぐに」
僕は、他に打つ手もなく、仕方なく、手なずけられた猫のように、カメラを茂木准教授に手渡した。
「その代わり、今回に限って、君たちを訴えたりはせんよ。安心したまえ。しかし、仕事とはいえ、君たちも危ない橋を渡るねえ」
僕たちは、談話室にいた。三人で話していると、廊下の扉が開いて、馬野浩一が白衣を着て、入ってきた。
「やあ、あなたたちでしたか?遅くまで、お仕事、ご苦労様です」
僕は、チラリと茂木准教授を覗き見た。彼は、微笑んで頷いた。
「土産物のお饅頭でもいかがですか?貰い物ですが?」
「誰か、来客でも?」
と、僕が訊いた。
「ええ、でも、それが妙な客でね」
と、馬野が困ったように言った。
「来るなり、教授はいつ図書館に行くんだ、とか、最近はどんな本を読んでいるんだ、とか、根掘り葉掘り訊いてくるんですよ。困ったな、と思いましたが、嘘つくわけにもいかないから、正直に答えましたよ。いったい、何なんですかね?」
と、馬野はハンカチで汗を拭いた。そして、思い出したように、
「これも、客の貰い物なんです。とにかく、気前の良い客でね、何だか、気味が悪いですね」
隣を見ると、ものも言わずに、寿美子は、饅頭をパクついている。こんな時でも、よく食う女だ。
そこへ、真っ青な顔をした鈴木京子が入ってきた。よく見ると、微かに震えているようだ。
「どうかしたの?」
と、馬野が心配して、彼女に尋ねた。鈴木は、椅子にペタンと座り込むと、手で頭を抱えて、
「私、どうしよう?サングラスとマスクでもしようかしら?」
「だから、どうしたの?」
「私、見たのよ。殺人の現場を、それに犯人の顔を」
「どこで?」
「学生ホールの裏庭よ。あたし、ホールの休憩室で友人とおしゃべりしたあとで、研究室に帰ろうと思って、玄関まで来たら、裏庭の方から、悲鳴みたいな声が聞こえて、急いで裏庭に回ったの。そしたら、大きな黒いコートを着た人が、あの女性をナイフで刺していたの。それで、思わず驚いて、私が声をあげた拍子に、その人がこちらを振り向いてー」
「その人物の顔は見たの?」
「ええ、でも、私、眼が悪いから、誰だか見えなかった。でも、犯人は、私が見たと思い込んでるわ。どうしよう?私、殺されちゃうかも?」
「それは弱ったな。それで、君は?」
「急いで逃げたわ。怖くて、怖くて。私、どうしよう?」
僕は、しばらく考えていたが、
「僕の方から、知り合いの警察に連絡しておくよ。安心すると良い。それじゃあ、僕たち、そろそろ帰っても良いですかね?」
そう言って、僕は、茂木准教授の顔を見た。
「ああ、どうぞ、気をつけてお帰り下さい。それから、新聞社の方にもどうぞよろしく」
と言って、僕をニヤリと笑った。嫌な笑いだな、と思いながら、まだ口をモグモグさせている寿美子を追いたてるように部屋を出た。
理学部の外に出ると、すっかり夜だ。星空は綺麗だった。僕たちは、駐車場の車へと向かう。その途中で、寿美子が言った。
「あーあ、大失敗ね。大目玉食らうわよ。どうするつもり?」
「仕方ないさ。僕が謝るよ。それよりも、急いで、車に戻って、連絡しないと」
「彼女、本当に危険なの?顔を見られたっていうけど」
「うん、可能性はあるよ。とりあえず、鏑木さんに訊いてみよう?」
暗い駐車場の敷地の隅。僕の車が停めてある。さっそく、僕は車に乗り込むと、スマホを取り出して、鏑木に電話した。
「ああ、鏑木さん、僕です。今、どちらですか?」
鏑木によると、警視庁にいるらしい。それで、僕は夜に研究室ヘ忍び込んでから、今までの経緯を事細かに説明した。
「どうやら、今晩が勝負だね。今から、警部に頼んで、鈴木京子の住所を教えるよ。だから、悪いが、君にも是非来てもらいたい。彼女の命が掛かってる。分かったかい?」
「ええ、協力しますよ。どこです?」
しばらく間があって、鏑木が、S区にある「ハイゲート」というマンションだと告げた。
「分かりました。すぐに向かいます。鏑木さんと警部さんは?」
「僕らも向かうよ。じゃあ、頼んだよ」
僕は、勢いよくアクセルを踏んで、車を走らせた。
「何だかドキドキするわね。名探偵鏑木と真犯人の一騎討ちよ。まるで、推理小説みたい」
「面白いことを言うな。アリャリャ、こいつはしまった。渋滞だ」
なかなか車が前へ進まない。それで、僕は車をターンさせて回り道に向かった。
「何とか間に合えば良いんだが」
ようやく、マンションの玄関が見えてきた。急いで、車を降り、マンションの玄関から、鏑木に言われた部屋の扉へ向かう。鍵は開いていた。
ゆっくりと扉を開く。
玄関や居間には、誰もいない。台所用品もきちんと整理されていて、食卓の上には、食べ終えたらしい食事の残りが置いてあった。
それで、僕たちは忍び足で、寝室へ向かった。
寝室は、思う以上に広かった。白で統一された壁や家具類は、京子の趣味だろう。部屋の中央の壁に沿って大きなベッドが置かれて、誰かが布団をかぶって眠っているらしい。起こしちゃいけないな。その時、カチャリと音がして、そばのクローゼットが開き、中から1本の白い手が伸びてきた。
「きゃ、幽霊よ!」
僕は、ようやく、それが鏑木の手と分かり、中へ入れという合図だなと察知して、僕たちは滑り込むようにクローゼットのなかへ入り込んだ。
「大声を上げてはいけませんよ」
と、鏑木が囁いた。
「もうすぐ、殺人犯人がやって来ますから」
警部もいた。無言で、拳銃を構えているらしい。そこは、思いの外、広く、男女4人が居ても、まだ余裕があるスペースがあった。
「何だか緊張してきた。あたしの心臓、バクバクもんよ」
「いっそ、止まればいいのにね」
「悪い冗談、よしてよ。それにしてもさ、あたし、前から思ってたんだけど、例の図書館の事件、本当に事故じゃないの?だって、須崎教授は、本を抜こうとして、バランスを崩して、上空から転落しただけでしょ?」
「いいえ、巧妙な殺人事件ですよ。あとでお話しします。..................、おや、どうやら、やって来たようですよ」
僕たちは皆、クローゼットの扉の隙間から部屋の様子を覗いていた。
寝室の扉が静かに開いた。外から、黒いコートを着た人物がのっそりと現れると、キョロキョロと辺りを窺っていた。やがて、その眼が、布団を捉えたらしい。その人物は、コートのポケットから1本の鋭いナイフを取り出した。
隣の寿美子が思わず声を上げようとした。その口を素早く鏑木が押さえ込んだ。
その人物は、両手にナイフを握り、高く掲げて、思いきり振り下ろした。寝ていた布団ごと、深く刺し傷がついた。すると、その人物は、首を傾げて、布団をめくった。中にあったのは、細く丸めて人の形をした毛布であった。
「しまった!やられた!」
「そこまでですよ!」
そう言って、僕たちは、勢いよくクローゼットから飛び出した。そして、黒いコートの背中に向かって、鏑木が言った。
「あなたの殺人も、最後はしくじった。ねえ?そうでしょう?薔薇野幾三さん?」
「なぜ、わしが犯人だと分かったんだ?」
と、薔薇野は、ベッドのそばの白い肘掛け椅子にデップリと肥えた腹を突き出して座り、鏑木を見据えた。
「それは、矢島君の話からです。第一に、あなたは、過去に電気の工事夫をしていた。電気の配線に詳しい。この事実は、あとで、図書館での殺人トリックに関わってきます。第二に、あなたは、ピンク色のハンカチを持っていた。これは、理学部の階段を転がり落ちた馬野君が、同じ色のハンカチを持ち、それを、奇妙な来客からのプレゼントだと言ったことから、その客があなただと分かります。つまり、あなたは、あらかじめ、客に成りすまして、教授が何時ごろに図書館に行くのかと、どんな本を求めているのかを知った。
そして、事件当日です。あなたは、電気配線工の変装をして、図書館に行き、あらかじめ、「仕掛け」をした。つまり、中2階の回廊で高い本棚の縁に導線を張り、いつでも高圧電流が流れるようにした。そして、その高いところにある本棚に、教授が求めている本で、金属製の背表紙のついたものを入れておいた。あとは、彼が来るのを待つだけだった。しかし、ここであなたは、ミスを犯した。その配線の様子をうっかり、図書館の司書の菅野小百合に目撃されてしまった。そんな場所に電気配線しませんからね、普通。そして、あなたは配線工として、我々のそばにいましたよね。教授が訪れて、中2階へ上がり、あなたは、電流を流した。そして、教授は、脚立の上に乗って、目的の本を抜き出す。そして、背表紙の金属と本棚の導線が接触した瞬間、彼の手から全身に高圧電流が流れ、その衝撃でバランスを崩して、脚立を倒し、地上へ墜落していったわけです、いかがですか?」
薔薇野は無言だった。それは沈黙の了承を意味していたのだろうか?
「殺人の後、現れた菅野小百合が、
「ここでは、まずい」
といった意味も分かります。そばにあなたがいることを彼女は知っていたからです。
かくして、あなたは、目撃者の口封じのために、第二の殺人として、菅野を殺さねばならなかった。そして、実行した。しかし、あなたにとっては不運なことに、また、その現場を目撃された。鈴木京子にです。しかし、あなたは知らなかった。彼女は眼が悪く、あなたの顔を知らないということを!」
一度、薔薇野は大きく眼を見開き、また閉じた。
「そして、僕たちの計略に乗り、まんまと、あなたは騙された。鈴木京子さんなら、今夜は駅前のビジネスホテルに泊まっていますよ。
あなたは、最初から偽の依頼人をでっち上げて、矢島君と香川君を大学へ向かわせて、目撃者に仕立てた。あなたの犯行を隠すためにね。
矢島君の話では、あなたは、須崎孝太郎の義理の弟だそうですね。つまり、彼が死ねば、独身の彼の莫大な財産は、あなたの所に転がり込む。それが、殺人の動機ですね?どうですか?」
薔薇野は、椅子から立ち上がり、
「警察はどこだね?連行してもらおう。ただし、わしにも黙秘権はあるし、弁護士をつけてもらうよ、分かっとるね?」
警部が手錠を掛けて、薔薇野を連行していった。
僕たちも、マンションの外に出た。夜というより、真夜中か?
相変わらずに、夜空は澄んで、星が煌めいている。
「忙しい1日だったな。おい、香川君、これから、どうするね?」
「決まってんでしょ?ナイトバーで飲み明かすわよ!どんどん、飲んでやる!」
そう言い捨てて、寿美子は、ハンドバッグを揺らせながら、街角を悠々と闊歩していく。
「お、おい、ちょっと待ってくれ?俺も付き合うよ!」
そう言って、寿美子のあとを追う僕たちの後ろ姿を、鏑木は、笑っていつまでも見送っているのであった..........................。