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2.1784 シャルル・バルバルー

 僕は借用の部屋に入り、 脱いだコートとシルクハットを木目のポールハンガーに預け、尻の形がついた椅子で一息ついた。

 デスクの上には先生の私設図書館から借りてきた文書ファイルが一束。

 先生にはお小言を貰ってしまったが、これは新しい先生ジャックからの課題だった。


 ノックに続き、メイドが黒い液体を運んでくる。コーヒーだ。

 数年前からサロンでは紅茶の代わりにコーヒーを飲むことが流行っていた。

 他国に遅れて、入って来たこの文化は僕には向かい風だった。


 先生などはさらりと飲んで見せるが、僕はつい顔をしかめてしまった。

 それ以来、僕の仕事にコーヒを飲むことが加わった。


 ギュッと目を瞑り、一思いに飲み込んだ。

 口の中に苦みが広がる。吐き出してしまいたいが、僕の背ではメイドが目を光らせていた。


 僕は飲み終わったカップをメイドに渡し、書類を手に取った。

 表題は「ジェヴォ―ダン被害報告書」。ちょうど20年前に起きた獣害の記録だ。


 1764年6月1日

 ジェヴォ―ダンの北東部、ランゴーニュにて未確認の獣が現れ、数名が負傷。農場で飼われていた雄牛たちによって追い払われる。


 同6月30日

 14歳の少女が、ランゴーニュ付近の村近くで行方不明となる。翌日、頭部が欠損した遺体となって発見される。


 1765年1月12日

 高名な猟師に勅命が下される。


 同2月17日

 猟師がクレルモン=フェランに到着。


 同6月22日

 フランソワ・アントワーヌ中尉に勅命が引き継がれる。


 同9月20日

 アントワーヌ中尉によって、巨大なオオカミが仕留められる。


 同12月2日

 獣は再び姿を現し、被害を出す。


 1767年6月19日

 地元の猟師によって、獣は討伐される。


 読み終えると日が暮れていた。幾つかの気になる箇所には赤線を引いた。

 ここまで真剣に読んでいるのは課題ということもあるが、多くは裁判のためであった。


 昨今では下火となっている魔女裁判であるが、未だ魔女の存在を信じている者は珍しくない。

 教育を受けていない労働者なら、兎も角、第一身分の貴族や第二身分の聖職者からの告発という事もよくある事であった。

 大抵の場合、告発というのは個人的な恨みや嫉妬、経済的な告発を動機としている。

 彼らの中では、自身に都合の悪い者が魔女であるということは、必然であった。


 今回の一件もそんな告発の一つだった。

 容疑者はアンという女性だった。報告によると、彼女の活動がやり玉に挙げられていた。

 女だてらに絵画を生業とする。世界的に見て、活動的な女性は増えていたが、この国では稀だ。

 一枚の絵に自然と動物を共に描く彼女の画風は、一見なんの問題もない。

 だが、告発者によれば「それは見せかけ」だという。


 彼女は女性でありながら、高尚な絵画を描く。それは彼女が魔女であるからに他ならない。その証拠に彼女は動物と会話する。犬や鳥、羊とさえ、言葉を交わす様は我々と同じ人間だとは思えない。加えて、私は彼女が狼に変身するところを目撃した。これはジェヴォ―ダンの獣と同様である。これらのことから、アン・スパークは魔女に違いない。彼女の身柄を速やかに拘束し、火あぶりに処すべきである。


 彼女と同門の男性画家はそう主張していた。

 小賢しいことに、実際に起きた事件を引き合いに出し、自身の主張を固めている。


 これは面倒な事件だぞ、と誰もが思ったことだろう。そこに都合よく、ジェヴォ―ダンの獣について調べている僕が居た。仕事を押し付けられることは、もはや必然だった。


 ここ最近は誰も彼も忙しくしており、僕は置いてけぼりだった。

 去年までは王弟アルトワ伯に仕えていた先生も職を辞し、政治活動に精を出している。


 僕がハァとため息をつくと、メイドがそれを見咎める。


「マラー先生は今回の事件を終わらせれば、修道院に連れて行こうとおっしゃっていました」


 修道院というのは政治家の社交場だ。そこで顔を繋ぐことこそが政治家として生きていく術。同門の者たちは行きたくて仕方がないことだろう。だが、誰もがそうというわけではない。僕はもう一度息を吐いた。


 ◇◇

「えー、ではこれより開廷を宣言する」


 やる気のない声が講堂に響く。それも仕方のないこと。これから始まるのは茶番だ。告発者と容疑者が共に貴族であるために裁判が開かれているが、結末は決まっている。証拠不十分で無実だ。


「訴追状を読み上げよ」


 その声に応じて、格式ばった訴えが改めて呼び上げられる。読み上げる法官は国に仕えるエリートだ。僕にもありえた未来が、眩しく映り、思わず視線を逸らした。


「市民諸君、私たちはここに集まり、真実と正義を求めて、貴族の裁判所における諸法に従い、この訴追の事案を提出することを宣言する。

 被告人アン・スパークに対して、悪魔との契約という重大な罪が告発されており、私たちはその事実を明らかにし、この法廷において正義を全うすることを求める。

 この訴追は、メーヌ子爵の告発に基づいており、被告が犯したとされる行為は、法の支配を脅かし、社会秩序を乱すものであります。このため、訴追は厳粛に、法と秩序を守る立場から行う。

 今、この訴追を読み上げることにより、法廷は裁きの場であり、真実と正義が支配することを確約する」


 読み上げられた訴追状は自明だ。


「それでは、メーヌ子爵。貴方が見たという被告人の悪行を教えていただけるだろうか」


 はい、と前に歩み出てくるのは髪を撫でつけた青年だ。メーヌという家名には聞き覚えがある。

 芸術家、特に絵画の収集で有名なメーヌ伯だ。恐らくはその嫡男。大物だ。

 これは面倒なことになったぞ、と声に出さずに思った。


「あれは満月の夜のことです。満月という物は美しく絵画の題材になることも珍しくありません。私は自らのインスピレーションを刺激しようとベルヴィルの丘を訪れました」


 両手を大げさに広げ、劇でも演じるかのような青年。彼は自らの言説に酔っていた。


「そこで私は目にしたのです。動物と話す彼女の姿を。

 具体的には狼です。神学大全によると狼は憤怒の象徴」


 そこで青年は目を閉じ、数瞬。


「そして、私は目にしたのです。彼女が狼に変身するところを」


 以上です、と締めくくる青年。裁判長の合図を待って、僕は彼に質問を投げかけた。


「魔女裁判は裁判所ではなく、教会の仕事ですよね」


 これは前提の確認。

 魔女裁判は正式な裁判ではない。私刑だ。

 疑いがあるのなら協会に訴え出るのが常道。


「それは私が事実であると確信しているからです」


 それだけで十分ではあった。言外にこの国の協会は腐敗していると、機能していないと、告げていた。

 この国には異端審問官が存在していない。諸外国と比べても、特に癒着が多い。加えて、カルヴァン派の台頭によって、弾圧をしにくい状況にあった。


「私自身、発言が怪しいことは理解しています。ですが、うやむやにすることはできません。信じていただけませんか」


 彼の言葉を冷めた目で見ていた僕は、悲しそうに垂れ下がった眉を見て、真実やもしれないと思ってしまった。けれど、弁護人として、それを認めるわけにもいかない。


 顔を上げると、彼と目が合い、僕は首を横に振った。

 そうすると、彼は覚悟を決めたように長く細い息を吐き、懐に手を突っ込む。

 出てきたのは銃。決闘用のピストルだ。

 10年ほど前から急速に流行り出したそれは、フロントロック式の単発銃。実戦では使い物にならないが、確かな殺傷能力を持つ。

 講堂内に緊張が走った。

 メーヌ卿の荒い呼吸がカウントダウンとなる。

 五つ数えて、銃口がアン・スパークに向けられた。


 その瞬間、僕は隣に座っていた気配が蠢くのを全身で感じ取った。

 僕より10cmほど低いアン・スパークの影が膨らむ。すぐ隣に目を向けることができない。


 唸り声が響いた。


 ◇◇

 女性らしくない女性だった。

 髪を短く切り、画材で汚れた作業着を身にまとった彼女は見るからに下積みの画家。

 女性画家といえば、昨年王立絵画彫刻アカデミーに迎えられたヴィジェ=ルブランが有名だが、その門は酷く狭い。ルブランが会員となれたのは王妃の後押しがあったからであり、アン・スパークが会員となることは事実上不可能だ。

 加えて王立絵画彫刻アカデミーの女性会員は、四人まで決められており、その席は既に埋まっている。

 それでも画家になろうと言うのであれば、必要なのは画力ではなく、気骨だった。


 彼女の絵はお世辞にも上手いとは言えなかった。もちろん、僕よりは上手いが画家としては中の下。だが、独特の味があった。

 ありふれた自然の中に生きる動物。それが彼女のテーマだった。

 流行のギリシア芸術には見向きもしない。


 せっかくだから僕も彼女の絵を買ってみた。価格は150リーブル。

 強気な価格だ。服が三着は買える。見習い法律家には厳しい価格だった。


 だが、買った。それは彼女の絵が魅力的だったからだ。

 冬の森でトラバサミに囚われた狼。誇りを失わず、されどその未来は決まっている哀れな獣。

 その獣は彼女自身であるようだった。


 彼女の家はノルマンディーに小さな領地を持つ男爵だ。その歴史は予想以上に古く、700年前、ノルマンコンクエストまで遡れる。事実かどうかは確認できないが、正当性は存在する。貴族の価値は歴史の長さに等しい。

 にも関わらず、なぜ男爵なのか。

 それは彼女の家が度々異教徒の疑いを掛けられているからだ。


 貴族が異教徒として疑われる時、その大半は政治的な争いだ。疑いが事実無根であろうと、疑われたという事実があれば、陞爵は難しい。

 さらに700年続くという話が事実なら彼女の先祖はヴァイキングということになる。歴史の長さが疑惑を補強していたのだ。


 僕は彼女に直接、事実を確認した。異教徒なのか、どうかだ。まともな人間なら肯定することなどないだろう。だが、異教徒はそうではないのだ。


 アンは否定した。彼女は神の前で跪き、聖句を唱えて見せた。

 だから、僕は彼女を信用した。


 そんな彼女が怪物として吠える。


 パンッという軽い炸裂音が鳴る。

 それは頼りなく消えた。


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