1.1784 シャルル・バルバルー
看守が扉を開くと、心地良い寒風が押し寄せて来た。
顎を上げ、胸を張り、全身で受け止める。
それが牢屋における唯一の清潔だった。
冷たい風が汗と垢、そして獣の匂いを連れ去っていく。
僕たちにとっては嗅ぎ慣れた匂いであったが、看守は反射的に鉄を被せた上腕で鼻を覆った。
パリ東部を守る要塞――バスティーユ。
人口の増加に伴って、拡張されたパリでは無用の長物となった要塞は、今ではすっかり牢獄と化していた。
牢獄といっても待遇はそれほど悪くない。
荷物の持ち込みや注文も可能だ。
講義で習ったときは、反省部屋なんてあだ名をつけて笑い合っていたものだ。
そのときは、そこに自分が入ることになるなんて想像もしていなかった。
そんな牢獄で僕が割り当てられた部屋は特別に酷い。
正面には全身剛毛な赤毛の大男。コイツが獣臭さの元凶。
その隣は顔の長い男だった。額を露わにした知的な顔立ち。
彼らは壁越しに対話する。
顔の長い男が長々と講釈を垂れ、時折、大男が相槌を打つ。
彼らは互いの姿が見えていないが、対面にいる僕からは、鉄格子越しに、その様子が丸見えだった。
彼らの関係は教師と生徒だった。どちらが教師かは言うまでもない。
彼の中では僕も生徒の一人らしく、話を振る。
僕はそれに応えた。どうにかして暇を潰す必要があった。
彼はジャックと名乗った。
「マクシミリアン先生。わざわざここまで来られなくても……」
扉を開けた小汚い看守が慇懃に道を譲ると、一等上等な男が入ってきた。
その恰好は、今からパーティーにでも出かけるのか、と見まがうほどに場違いであった。
「構わないさ」
男は僕なんかには目もくれずに背中を向け、親し気に口を開いた。
「やあ、ジャック。気分はどうだい」
そうして、通路に面した鉄格子が一つ、開かれた。
「君は釈放だそうだ。私に感謝してくれたまえ」
先生と呼ばれたマクシミリアンという男は尊大に、傲慢に感謝を要求した。
「マクシミリアン、君はどうやって此処までやって来たんだい?」
「金だ。世の中、金を求める者で溢れている」
マクシミリアンがちらりと看守に視線をやると、看守はヘイと背を丸め、手を揉んだ。
もっとも、金に飢えているのは、この看守に限ったことじゃない。
ほとんどの人間は金どころか、食に飢えている。
中にはコインに噛り付く者もいるかもしれない。
それほどまでに国民は飢えていた。
例外は第一身分と第二身分、そして僕たちブルジョアだ。
「さて、ジャック・ピエール・ブリッソー。貴君は本日付で釈放となる。速やかに支度を済ませるように」
「それは出来ない」
格式ばった口調で釈放を告げる声に、待ったが掛かった。
「なに?」
「手紙で伝えたと思うが、私にはまだ、ここでやることがある。釈放は明日まで待ってくれないか」
せっかくのお達しにも関わらず、ジャックは軽く肩をすくめて、応えた。
「やる事?……ああ、それが例の獣か」
マクシミリアンは隣に視線を滑らし、思い出したように平坦に納得した。
「獣というのは良くない。彼は立派な我々の同志だ」
「同志?100人近く殺した害獣だろ。民衆は受け入れないぞ」
確かな忠告は届かず、またしてもジャックは肩をすくめた。
「彼はかれこれ20年もここに幽閉されているんだ。誰も覚えちゃいないさ」
「善行のつもりか?」
徐々に語気が強くなるマクシミリアンと受け流すジャック。
「徳のある人は人のために良いことを為すもの、だろ」
カツカツと光さえ反射する靴を鳴らし、苛立つマクシミリアンとハラハラと見つめる看守。
ジャックは行儀悪く膝を立てた状態で、下から見上げ、薄く笑みを浮かべていた。
「ヴォルテールか。彼は確か民衆に知恵を付けさせることに反対していたはずだが?」
「良い所は認め、取り込むべきだろう」
「徳は恐怖と共にある」
「我々フランス人はニュートンを受け入れるのに60年の月日を必要とした。常道ではこの国は変えられない」
そうして、ジャックは立ち上がり、キッチリと襟を整え、言い放った。
「私は意地っ張りなんだ。この牢獄の先達、ヴォルテールと同じようにね」
その夜、ジャックはヴォルテールについて教えてくれた。
6年前に没したヴォルテール――本名をフランソワ=マリー・アルエは啓蒙に目覚めた哲学者だった。
ヴォルテールの思想を象徴する一節がある。
「私はあなたの意見には反対だが、あなたがそれを述べる権利を守るために命を懸ける」
彼は理性を尊び、人間は寛容であるべきであると主張した。
本来寛容であるべき、キリスト教の不寛容さを批判したために、バスティーユ牢獄に幽閉されて、なお「あの忌むべきものを打ち砕け」と言い放った。
ジャックは言う。その通りであると。
手始めに、このバスティーユ牢獄。そしてゆくゆくはこの国を打ち砕くと。
大男はそのためのピースだった。詳しく知りたいのなら、自分で調べろと、教師らしく課題を出された。
手掛かりは最新の寓話「ジェヴォ―ダンの獣」だった。
「ところで、シャルル。君はどうしてここにいるんだ?」
最後の一仕事と、大男に辛抱強く、合図と仕事を教え込んだ。
そうして朝日が昇る頃、もう寝る時間はないと僕に尋ねかけた。
正直言うと、僕は少し拗ねていた。誰も彼も僕のことには興味がなかった。
だからジャックが僕のことを尋ねた時、嬉しかった。
僕は僕の身に起きた悲劇を語りたくて、仕方なかった。
僕は準備していたセリフを言った。
「恋はつらい、あまりに残酷だ、暴君だ、茨のように人を刺す!」
「なるほど、シェイクスピア、許されざる恋か」
大仰に手を振り回す僕を見て、ジャックはなるほど、と首を縦に振った。
「であれば、私について来るといい。私は身分の垣根を壊す。きっと君の願いも叶うことだろう」
そう手を伸ばすジャックは化けた蛇のようで、僕の願いが禁断の果実のようであった。
それでも、この瞬間、僕はジャックに心服し、手を取った。