甘い誘惑の『ピンク』
翌朝。蒼弥は『ピンク』の御朱印を選んだ。
昨日の話が正しければ、また違う人格の紫音が姿を現すのだろう。
今日は雨が降っていない。
霧も出ていなくて、遠くの景色が良く見える。
帰るなら、今日がチャンスかもしれない。
紫陽花が咲く池を眺めていると、足音が近づいてきた。
そして、背後からぎゅっと抱きしめられる。
「蒼弥くん。好き~」
甘い声が耳に広がり、良い香りが鼻をかすめる。
一瞬で、僕の体温は夏を凌駕した。
鼓動が高鳴り、顔が熱くなっていく。
「しっ、紫音さんっ!?」
「なぁに。蒼弥くん?」
これはまずい。
今日はまだ顔を見ていない。
しかし、初日と昨日の記憶がある。
神秘的で美しい表情と、クールビューティーな姿。
どちらも見惚れるくらい綺麗なのだ。
そんな美貌を持つ紫音と触れ合っているこの状況は、夢のまた夢。
「い、一度離れてもらっても、良いですか……?」
「えぇー。なんでなんで。私の事嫌いなの……?」
「嫌いなんて、そんな……むしろ嬉しいというか、幸せすぎるくらいで」
「じゃあ良いじゃん。もっと二人の時間を楽しもうよ」
拝啓、父さん母さん。
山奥の僻地で遭難してしまった僕ですが、故郷へ帰る選択を放棄してしまうかもしれません。
これが悪質な悪戯や何かの罠だったとしても、もう悔いはありません。
今日まで育ててくれてありがとう。
僕は幸せ者です。
「……紫音さん」
「うん」
「そろそろ、流石に……」
蒼弥の消え入りそうな声を聞き、紫音は抱擁を解く。
「むぅ。じゃあ、手を繋ご?」
背中で言葉を受け取り、蒼弥はゆっくりと振り返る。
手を差し伸べていたのは、三つ編み姿の紫音だった。
柔らかい表情で、大きな瞳を輝かせている。
これが『ピンク』の紫音なのだろう。
昨日との温度差で、風邪をひくのも時間の問題だ。
今日の紫音は、破壊力がやばい。
素直になれない事が多い蒼弥だが、早くも理性が仕事を放棄し始めている。
言われるがまま手を繋ぎ、二人は池の周りを歩き始めた。
「ねぇねぇ。今日は蒼弥くんのこと、沢山教えてよ」
「良いですけど、大した話はないですよ」
「それで良いの。蒼弥くんのことを知りたいだけだから」
「……うっす」
「好きな子は居るの?」
「い、居ないです。彼女もいません」
「どんな子が好き?」
「……うるさくない人、ですかね」
「じゃあ、私のこと好きでしょ?」
「す……って! 変なこと言わせないでください」
「好きじゃないの……?」
切なそうな表情を作って、紫音は小首を傾げる。
やめてくれ。本当に好きになってしまうから。
「可愛いとは思います……」
「えへへ、褒められちゃった」
「蒼弥くんはさ、お家に帰りたい?」
「そりゃ帰りたいですよ。運良く紫音さんに出会えたので生きてますけど、あのまま遭難し続けていたかもしれないので」
「私と暮らす未来を選んでくれても良いんだよ? 誰も居ないこの場所で、二人で幸せに暮らすの」
「……魅力的ではありますけど、今は帰りたい気持ちの方が強いです」
「そっか。後悔しても知らないんだからねっ」
紫音の笑顔が眩しくて、不思議と切ない気持ちになった。
ピンクの紫音と過ごす時間は、ドキドキの連続だった。
とにかく傍に居てくれて、何気ない話も楽しそうに聞いてくれる。ご飯も一緒に食べたり、『お風呂も一緒に入る?』とからかってきたり。
思春期男子には、あまりにも幸せ過ぎる時間だったと思う。
しかし、夢のようなひとときは、いつか終わってしまうものだ。
夜を迎え、蒼弥は眠りにつく。
また紫音に会うために――