神秘的な『紫』
「ねぇ、こんなところで何してるの?」
突然、耳元で優しく囁かれ、蒼弥は慌てて後ろを振り返る。
そこに居たのは、白髪の若い女性だった。
赤い紫陽花の髪飾りと、小さなおさげ。
切れ長でぱっちりとした目、柔らかそうな唇。
純白を基調とした和服に赤色の帯を巻き、足は涼しげな格好をしている。
その女性は、見惚れるくらい綺麗だった。
「……や、山で遭難したというか、そしたらこのお寺を見つけて、誰か居るかなと……」
「迷い込んだって訳ね。この後はどうするの?」
「ここがどこかも分からないので、会った人に助けを求めようと思っていました」
蒼弥は女性に目を向ける。
どこか神秘的な雰囲気を纏う姿は、何回見ても美しい。
「今日帰るのは諦めた方が良さそうだよ。雨は止みそうにないし、もうすぐ日も暮れちゃうから」
「ですよね」
「今日は、うちの寺に泊まっていったら? 明日以降、雨が止んだら帰れば良いし」
「……そう、ですね」
「うん? ご飯とかも出して上げるから心配しないで」
優しく微笑む女性を見て、ひねくれ者の僕は怖さを覚えてしまう。
「……僕は、無事に帰れるんでしょうか……?」
怯えた表情で問う蒼弥を見て、女性は微笑を浮かべる。
「もしかして、妖怪か何かだと思われてる……?」
蒼弥は視線を逸らし、小さく頷く。
女性は「そっか」と呟くと、真っ直ぐな目で蒼弥を見つめた。
「なら、触って確かめてみる?」
「……えっ……」
戸惑いつつも、蒼弥は女性の方に手を伸ばす。
女性は蒼弥の手を取り、そっと握手した。
そして、笑みを浮かべて告げる。
「ねぇ、期待した?」
上がりかけた体温が、一気に冷めていく。
大きな溜息をつき、蒼弥はリュックを背負った。
「帰ります」
「どうやって?」
「歩き続ければ、いつか下山出来るでしょう」
「体力持つかなぁ? この山、結構複雑だから迷ったら終わりだよ。熊も出るし」
「……でも、お世話になる訳には……」
「お世話になりたくて来たんじゃないの?」
「うぐっ……それは……」
「素直に『雨が落ち着くまで泊めてください』って言えばいいのに」
「……雨が落ち着くまで泊めてください……」
「はい。よく出来ました」
女性は本堂の扉を開けると、小さく手招きした。
「案内するからおいで」
蒼弥は女性の後を追い、本堂の中へ足を踏み入れる。
暗い廊下を進んだ先、小さな和室に案内された。
「この部屋は自由に使って。お風呂とトイレは、出て右のところにあるから。ご飯も後で持ってくるね」
「ありがとうございます。あの、お名前だけ聞いても良いですか?」
「水無月紫音。君は?」
「晴山蒼弥です」
「蒼弥君。明日になったら、今日みたいに御朱印をあの部屋に持ってきてね。選ぶ色によって色々と変わると思うけど、ちゃんと私が出てくるから」
「……分かりました。水無月さんを呼ぶためには、あの御朱印が必要ってことですね」
「そういうこと。あと、紫音で良いよ。蒼弥君とは仲良くなれそうな気がするし」
紫音は小さく手を振って、どこかへと行ってしまった。
一人になった蒼弥は畳の上に寝転び、大きな欠伸をする。
体力も限界なのだろう。意識が遠のいていく。
雨音が響く部屋で、蒼弥は睡魔に襲われた。