奇跡の記憶
ちょうど今から一年前。
私と一時帰国中のレイノルド様は、穏やかな陽気に誘われて、王城の庭園内にあるガゼボにいた。
空は晴れ渡り、柔らかな風が頬を撫でる、気持ちのいい午後だった。
「レイ様は、どんな魔術を使えるのですか?」
二人きりだったので、レイノルド様を『レイ様』と愛称で呼んだ。
そんな私を前に、レイノルド様はいつも通りの美しい笑みを浮かべている。
マリアナージュ魔術学園に入学して一年。半年に一度しか会えなくなっていたけれど、彼は変わらず優しく接してくれていた。
「得意なのは水と風かな」
「水ですか。学園の先輩に、独学で魔術を使えるようになった方がいたんです。何も無いところから、カップ一杯ほどの水を出したと聞いて驚きました。でもその方は、マリアナージュ魔術学園への入学は叶わなかったそうです。レイ様でしたら、もっと沢山の水を生み出せるのですか?」
「……見たいの?」
「叶うならば、是非!」
「うーん……。無闇に魔術を使うことは禁じられているんだけど。リアがそう言うなら、特別だよ」
レイノルド様は優美な仕草で目を伏せ、左耳のピアスに触れた。
マリアナージュ魔術学園入学時に、魔力安定を目的として全員がつけるという魔石のピアスだ。
レイノルド様の瞳と同じ、艶やかな青。光の加減で緑にも見える、深みのある不思議な色。
その石が、きらりと光る。
刹那、その光を中心に、空気がぴん、と張り詰めた気がした。
レイノルド様がそっと瞼を開けると、その瞳に吸い込まれそうだと本気で錯覚する。
まるで強い引力を受けたかのような感覚だ。
この空間に存在するもの全てが彼一人に支配されているということが、はっきりとわかる。
息をのむほど神々しい姿だった。
食い入るように見つめる私の後方に、レイノルド様が流れるように耳元から外した指先を向ける。
そして短く、魔力解放の呪文を口にした。
「ルース」
広大な庭園全体に、雲ひとつない空から突如雨が降り注ぐ。
光を受けてきらきらと輝く雨粒は、まるで宝石のようだった。
予想を遥かに超えた魔術のスケールに、言葉も出ない。
ぽかんと口を開けたまま呆けた私に、レイノルド様が楽しそうに笑いながら言った。
「リア、見て。虹だよ」
レイノルド様の視線の先を追うと、そこには光り輝く雨粒と共に、空に架かる大きな虹が見えた。
◇◇◇
懐かしい記憶に思いを馳せていた私は、はっと我に返る。
炎は、もう目前に迫っていた。
ばしゃり、と何度目かの水の音が耳に届いて目をやると、ディラン様が頭からバケツの水をかぶっていた。
更に両手にも、水がいっぱいに入ったバケツを抱えている。
「アメリア様! 今そちらへ行きます!」
あろうことか、ディラン様まで炎に飛び込もうとしている。
「なんでそうなるんですか! 来ないでください!!」
慌てて大声で制す。
ディラン様は水を滴らせながらも、足を踏み出せずにいた。恐怖に顔が引き攣っている。よく見れば、足もぶるぶる震えていた。
当然だ。ただの文官が、訓練された護衛のように勇敢に、自ら危険に飛び込むことは簡単ではない。
ただでは済まないとわかっていながら、無茶を出来ないのは当たり前のことだ。
改めて躊躇なく動いたルカを思う。
…………もしも、ディラン様が抱えるあの水が届けば。
この部屋全体の消火は不可能でも、ルカの足を燃やす火くらいは消せるだろうか。
水が、ここにあれば。
無意識のうちに、自分の耳元に指で触れていた。
魔術学園に通わずとも、魔術を使うことが出来たという先輩。
私にも、同じことが出来たなら……。
──カップ一杯の水。
──王城の庭園に降る雨。
頭の中にイメージしてみれば、触れた耳と指先に、なにかが集まる感覚があった。
…………あたたかい。
これが魔力だと、運命的な邂逅にも似た思いで理解する。
ルカを助ける。
私には出来ないなんて、微塵も思えなかった。不思議と、当たり前に魔術が使えると確信する。
────水を。出来る限り沢山の水を、ルカへ。
「ルース!」
レイノルド様の見よう見まねでルカを指さす。
耳元に集まった魔力が指先へ、そして指さした先へ、流れていくのがはっきりとわかった。
目を見開いて私を見つめるルカ。
その頭上から水が、
────滝のように落ちてきた。
「ぎゃあああ!!!」
悲鳴を上げたのはディラン様だった。
ルカの頭上に、直径1メートルほどの円柱状の滝が生まれていた。
その水の勢いは凄まじく、部屋中にみるみる水が溜まっていく。
消火どころか、部屋の中が川にでもなったようだった。
ディラン様はその勢いに流され、壁に体を打ち付けていたのだった。
思ってたのと違う!!
私がイメージしたのは雨だ。決して洪水ではない。
何もない空間から水が吹き出すという異様な光景。
とんでもない量の水が流れ出し続けている。
私は立っていられず、カーテンにしがみついた。騎士たちでさえ、壁に手をついて流されまいとしている。
室内とそこにいる全員を水浸しにして、ようやく水が止まる。
大量の水は開いたままの扉から流れ出し、徐々に室内の川はただの水溜まりへと変化した。
水が引いた室内で、ただ一人仁王立ちで全身ずぶ濡れになったルカが、物凄い形相で私を睨んでいた。