忠犬炎上
恐ろしいものを見つけてしまった……。
聖女様は、大陸全土が待ち望んだ存在なのだ。
世界を救う聖なる存在。
この大陸を『災厄』から守ると言われている。
絶対に害することは許されない。
禁忌とされるそんな大罪を、叔父は犯そうというのか。
あの、気弱な叔父が……?
「…………まさか」
小さく呟き、更に翻訳を進めようと書面に目を落とす。
とんでもない一文を発見してしまった以上、知らぬふりで自分ばかり逃亡することは出来ない。
穴が空くほど、とはよく言うが、そんな勢いで文字に視線を送っていると、紙の中心に、本当に小さな穴が空いた。
「…………えっ!?」
よく見ると、穴は黒く焦げ、その周りからちろちろと僅かに火が上がっている。
小さな火はあっという間に紙全体に燃え広がり、私の指先まで炎がかすめた。
「きゃあ!!」
思わず悲鳴を上げ、紙を投げ捨てる。
すると床に落ちた紙は絨毯を燃やし、めらめらと激しく燃え始めた。
──しまった!!
そう思った時には何もかも手遅れだった。
異常なほどの早さで、部屋中に火がまわってしまったのだ。
炎は完全に部屋を分断してしまっている。私の背後には窓しかない。
私の膝ほどまで大きく上がった炎は、執務室入口の扉に向かうことを阻む。
これでは、到底逃げられない。
「どうし……ぎゃあ!! 火事!!!」
扉から複数の人々が顔を出す。
多くは騎士服を纏っており、騎士団員だとわかる。
その中に、見知った顔を見つけた。
「ディラン様! ヒューゴ様!」
「げっ、アメリア様!」
「アメリア嬢!? 何故ここに!?」
レイノルド様の手下…………もとい、側近のお二人だ。
二人ともレイノルド様とは王立学園在学時の学友で、現在ヒューゴ様は騎士、ディラン様は文官として勤めている。卒業後、たった二年でヒューゴ様は騎士団の小隊長、ディラン様は官僚候補にまで上り詰めた。もちろん王太子殿下の覚えめでたいという優位さあってのことだろうが、実力が伴わなければそれまでなので、間違いなく優秀なお二人と言える。
レイノルド様に紹介されて以来、二人とは何度も王城でお会いしている。
顔を合わせれば世間話をする程度には仲良くさせてもらっていた。
階下から聞こえた聞き覚えのある声は、やはりこの二人のものだったか。
「お二人こそ、何の御用で?」
「いやいやいや! それどころじゃないでしょう! 水! 水を!!」
ディラン様が指示し、騎士たちが走り出す。
そこへルカが姿を見せた。
炎に囲まれた私を見て、一気に顔を青ざめさせる。
「お嬢……! 何してんだよっ!!」
「何もしてないけど!?」
勝手に紙が燃えたのだ。
火事を私のせいにするのはやめてもらいたい。
騎士数人がバケツを抱えて戻ってきて、炎に向かってぶちまけた。
けれど、炎の勢いはちっとも弱まらない。
むしろ勢いは増すばかりで、どんどん炎が迫ってくる。
騎士たちは再び空のバケツを持って駆けて行くけれど、とてもそれで消火出来るとは思えない。
じりじりと、炎に炙られている気がする。
ドレスに守られていない素肌が熱い。
窓際まで後ずさりして、背中に窓が当たった。
部屋の中は、すっかり火の海と化している。
どこにも逃げ場はないし、助からない。
そんな絶望で頭はいっぱいになった。
ヒューゴ様も、ディラン様も、そしてルカも。
手の打ちようがないことに、苛立ちを滲ませながらも立ち尽くすばかりだ。
そうしている間に、彼らが立つ部屋の入り口近くにも、勢いを増すばかりの炎は迫っている。
「…………あの! 皆さん逃げてください! この火の勢いでは、屋敷全体が危険ですので!」
私の言葉に、ヒューゴ様が驚いて声を上げた。
「アメリア嬢を置いては行けない!」
まあ、流石は志高き騎士様。
目の前の人間は、誰であろうと見殺しには出来ないのだろう。
しかしその志を活かして欲しい対象が他にいることを思い出した。
「義母が部屋にいるはずです。どうか屋敷の外に連れ出していただけませんか?」
「!? ……わかった。他に人がいないか、俺が確認する!」
ヒューゴ様が走り出し、屋敷内全てを見て回ってくれるようだった。
これで義母は安全に逃げられるだろう。
バケツと共に戻って来た騎士たちが二度目の消火を試みるも、火の勢いは全く衰えない。
彼らの表情には、どこか諦めの色が見てとれた。
それでも、私がここにいるから、逃げるという選択肢を選べないでいるのだ。
「ルカ」
頼れる護衛の名を呼ぶ。
ルカは、先程からずっと黙って私を見ている。
助けて、と喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
……駄目だ。ぜったい駄目!
私が求めれば、きっと護衛としてどんな危険を犯しても私を助けようとしてしまう。
その価値が、私にはないとも知らずに。
覚悟を決め、無理矢理笑顔をつくった。
「今度こそ最後の我儘にするわ。皆を連れて屋敷から出て行って。無事に皆を逃がしてちょうだい。私は……大丈夫よ。なんとかするわ!」
思い切りハッタリだ。案などない。
私だって好き好んで炎に焼かれて生を終えたい訳ではないけれど、自身が枷になって人を巻き添えにはしたくない。
生まれながらに守られるべき王族ならばまた違っただろう。
けれど今の私は、ただの元伯爵令嬢だ。
王太子殿下が信頼する側近と護衛を危険に晒すわけにもいかない。
とにかく優秀な人材には先に安全を確保してもらって、それから本気でどうするか考えよう。
最悪、飛び降りれば良いのだ。足の一本二本折れるかもしれないが……。うん、最悪の最悪の手段だが、死ぬよりマシだろう。
黙りこくっていたルカが、顔を上げる。
その藍色の瞳に、決意の炎が灯るのを見た。
ルカは燃え盛る火なんてまるでないかのように、真っ直ぐ私の方へ歩みを進めた。
「ちょっと…………ルカ!?」
こっちじゃない。逃げるなら逆でしょうが!
「待って! ルカ!!」
怯まず進むその様子に恐怖を覚えたその時、
ルカは腰ほどまで高く上がる炎に迷わず飛び込んだ。
「…………!!!」
私の喉から出たのは、悲鳴にもならない声だ。
ルカは私を凝視したまま炎の中を歩み続ける。
その足には火が燃え移っている。
痛みと熱さが襲っているはずなのに、全く構う素振りもない。
炎の中を抜け、とうとう私の目の前までやって来た。
「お嬢。怪我は?」
「私よりあなたが! 燃えてるじゃないの!!」
ルカのズボンで燃え続ける火を払おうと手を伸ばすと、ばっと手を掴まれた。
「火傷するから触んな」
そうは言われても、私よりもルカの足こそ間違いなく酷い火傷を負っているはずだ。
それなのに、ルカは私の心配ばかりしている。
「あー……。お嬢を抱えて窓から飛び降りるつもりだったんだけど……。このまま抱き抱えたら、お嬢にも火がつくかもな……」
平気な顔をして私のことばかり優先しようとするルカに、罪悪感でいっぱいになる。
自然と涙が滲んできた。
ルカがそんな私をまじまじと見て、言った。
「お嬢のことは、傷ひとつつけずにオレが守るから。大丈夫」
安心させるような言葉は、私が恐怖で泣いていると思っての事だろう。
けれど、その表情が苦痛に歪む。
平気なはずがない。
私のために、なんでもないふりをしているだけだ。
その間にも、彼の体は炎に焼かれているというのに。
ルカが窓を開け放ち、外を確認し始める。
本当に飛び降りるつもりだろうか。
私を抱えてそんな事をすれば、重さが増す分、足の一本二本では済まないかもしれない。
窓の外は、嫌になる程いい天気だ。
伯爵家の若干荒れ始めた庭に、穏やかな陽射しが降り注いでいる。
……雨でも、降ってくれたら。
そう思うけれど、真っ青な空には白い雲が僅かに浮かんでいるばかり。
とても雨など降りそうにない。
────雨。
ふと脳裏に浮かんだのは、こことは違い、とんでもない広さでありながらも完璧に整えられた王城の庭園だ。
色とりどりに咲き誇る季節の花に、美しく狩り揃えられた芝生の緑に、惜しみなく注がれた優しい雨。
忘れもしない。
あれは私が初めて見た、世界一美しい魔術による奇跡だったのだから。