氷漬けのマリアナージュ
目を開けても暗闇があった。
ただ視界の端に、丸い光の塊がいくつか浮かんでいる。
漂う光がぼんやりと照らすのは何もない、暗闇ばかり。
「…………ここは、死後の世界というものかしら?」
ぽつりと呟いてみると、どこからかくすくすと笑い声が聞こえた。
「姫君は、死をお望みでしたか?」
「ノア!」
淡い光に照らされた、宝石のような美しい金色の瞳に覗き込まれ、驚いて体を起こした。
負ったはずの傷がない。
けれども制服の胸元はどす黒い血に汚れ、穴が空いている。それを隠すように、ノアが身につけていた外套がかけられていた。
「もしかして、ノアが治してくれたの?」
「無論でございます。姫君の大切なお体、傷ひとつ残しはしません」
「ありがとう。それじゃあ、エリー……えっと、私と一緒に刺された子は?」
「あちらに」
ノアが手で指し示した先に、丸い光がふわふわと移動した。
その下で光に照らされ、エリーが横たわっているのが浮かび上がった。
「エリー!」
「治療は済んでいます。眠っているだけです」
「良かった……。本当にありがとう、ノア」
「全ては姫君の望むままに」
ノアが優美に微笑んだ。
何も知らなければ、どこかの国の貴族のような佇まいだ。まさか奴隷という身分だなんて、誰も思いはしないだろう。
「ノア……。信じられないけど、魔力の暴発が止まったのね……」
「貴方様が私を一人逃がし、その命を落とされたあの時、我を失う程の怒りと悲しみを覚えましたが……。姫君に再びお目見えることが叶えば、そんな感情も全て、吹き飛ぶというものです」
「えっ。まさか……ノアの魔力暴発って、私のせいだったの?」
「姫君以外のことで、私が感情を動かされることはありません」
当然のようにノアは言う。
そうだ。ノアはそういう人だった。
そして、魔力暴発とは絶対に止められないものではなかったのだ。その原因を取り除けば、止めることは可能だった。
過去に魔力暴発を起こした人々の多くが、戦争により大切な誰かの死をきっかけにしたものだったために、そんな思い違いが生まれたのだろう。
────いや、待って。
大陸全土を脅かし、多くの魔術師たちを死に追いやり、150年もの間、恐怖の対象であった『災厄』を生んだ原因が、私……?
とんでもない事実に体が震えた。
そんな現実、受け入れなくない。私の背中に背負うには重すぎる。
「……違う……。そうよ、違うわ。私は姫なんかじゃないし……」
「姫君。どうされました?」
ぶつぶつと否定の言葉を自分に言い聞かせていると、ノアが不思議そうに首を傾げた。
「ノア! その呼び方はやめてちょうだい。私は姫でもなんでもないわ!」
つい、きつめにノアに当たってしまう。
けれど彼は、気にした様子もなく微笑んでいる。
「いいえ、貴方様こそ私の姫君です。姿形が変わろうと、その魔力は変わりません。貴方様の魔力をこの身に受けた時、姫君が新たな器を手にし、私の元へ戻って来てくださったのだと理解しました」
「うっ……」
ノアの真っ直ぐな瞳を見ていたら、これ以上は否定出来なかった。
暴発は止まった。もう『災厄』の恐怖に人々が恐れを抱くことはないし、ノア自身も、苦しみから解放されたのだ。
とても受け入れ難い前世の自分の過ちも、一旦飲み込んでおくことにした。
それに、今は────。
「ノア、あなたのその力が必要なの! 助けてちょうだい!」
「姫君がお望みであれば、何なりと」
「私の大切な方が、魔力暴発を起こしてしまったかもしれない。手を貸して欲しいの」
「大切な、方」
ずっと微笑みを絶やさなかったノアの表情が変わった。
急に真顔になるの怖い。
「姫君が死んだものと思い、魔力を暴発させ全てを凍らせたあの男ですか。私と同じ道を辿るなんて、哀れで愚かで、親近感さえ湧きますね」
「やっぱりそうなのね? 大変だわ! レイノルド様のところへ連れて行って!」
「…………」
「ノア?」
「姫君。本来ならば、暴発の原因である貴方様の無事をあの男が知れば、それも止まるでしょう」
「まぁ! それなら、私がレイノルド様の前に姿を見せればいいだけね?」
「その通りでございます。ですが……」
ノアが言葉を濁す。
さっきから随分と歯切れが悪い。
苛立ちを滲ませた私の様子を見て、ノアは困ったように微笑んだ。
「地上に出てみましょう。話はそれからです」
そう言うと、ノアの体がふわりと浮かんだ。
続いて私と、眠ったままのエリーまでもが。
柔らかい風に包まれて、そこでようやくノアが風魔術を使ったのだとわかった。
無詠唱で、何の動作もないままに魔術使用が出来るなんて……。
やっぱりノアは、現代の魔術師とは圧倒的に能力差がある。
風に乗って上へ上がっていくうちに、徐々に明るくなってきた。さっきまで居た場所は、大地の割れ目の底だったのだ。
大きな割れ目の間から覗く空には、夕暮れが近づいていた。鮮やかなピンク色に染まった雲が、まだ青い空を彩っている。
私たちを乗せた風は高く舞い上がり、マリアナージュを一望出来る高さで留まった。
眼下に広がる景色に息を飲む。
まるで氷の国だ。マリアナージュの全てが凍り付いている。
辺り一帯は静かで、一切の音がしない。
鳥の囀りも、葉が風に揺れる音も、何もない。
耳がおかしくなったのかと勘違いしてしまいそうな静かな世界。
吸い込んだ空気までも冷たくて、胸が痛くなる。吐く息は真っ白になった。
「……凄いわね……。マリアナージュに居る人たちは、大丈夫かしら……」
「下りてみましょう」
凍えるような寒さの中、私たちはゆっくりと地面に下り立った。
先程まで居た、崩れた教会の前だ。
「……!」
そこには、木々や建物と同じく、凍り付いた皆の姿があった。
グレースやメイソン先生、ルカにサミュエル。血濡れた剣を持ったままのアルロも。
まるで氷の彫刻のように、硬い氷に覆われて動かない。
そして、全てを凍らせた張本人であるレイノルド様までもが、氷の中で最高傑作の芸術作品と見紛うような美しい姿そのままに固まっていた。




