書棚の秘密
自室で一時間ほど大人しくしていると、どうやら叔父が出掛けるようだと気が付いた。
扉を少し開けて外の様子を窺えば、叔父は玄関前で執事長に外出する旨を伝えている。
これは好機!
このまま昼まで待って、食事中にこっそり執務室に忍び込むつもりだったのだが、出掛けてくれたとなると、のんびり調べられるというもの。
義母は気の毒なことに、貴族の暮らしが合わずに一年ほど前から部屋に引き篭っているし、執事長は今一階にいる。
私は音を立てないように、しかし素早く自室から出ると、叔父の執務室へ向かった。
廊下には相変わらず誰もいない。
窓からは眩しいほどの日差しが差し込んでいる。外は、この屋敷内の空気とは不釣合いなとてもいい天気だ。
私は、今朝訪ねたばかりの執務室の扉を静かに開けた。
室内は、今朝見た時と何も変わっていないように見える。
変わらず埃っぽく、机の上には書類が乱雑に積み重なっている。
「まぁ……。全て確認していたら、日が暮れそうね」
机の上ばかりではない。
その向こうの書棚にも、大量の書類が収められている。
途方もない量の紙切れに、うんざりする。
いくら叔父が外出中とはいえ、全ての書類をあらためる時間はないし、そんな面倒なことはごめんだ。
しかしなんてことはない、私にはあてがある。
躊躇うことなく机の三番目の引き出しを開け、その奥に手を伸ばした。
小さくて冷たい感触がしたので、それを掴んで手を引っこ抜く。
「…………あったわ。隠し場所を変えないなんて、詰めが甘いわね。助かったけど」
書棚の鍵。
壁一面の大きな書棚の一部には、特に大切な書類を仕舞うために扉と鍵がつけられている。
その鍵を、叔父は父が隠していた場所から移動させなかったようだ。
「ふっふっふっ。何が入っているのかしら?」
余りにも順調に事が進んでいるので、笑いが込み上げてくる。
どうせ見ても楽しいものなんて一つも入っていないと、わかってはいますけどね。
叔父が何を隠しているのか。
このイルヴァーナ伯爵家が現在どのような状況なのか。
うん、全くうきうきしない。
むしろパンドラの箱でも開けるような気分だ。
しかしここでやめるわけにはいかないので、鍵穴に鍵を差して回す。
かちゃり、と小さな音がして扉が開いた。
「………………これだけ?」
中に入っていたのは、帳簿が一冊と、数枚の紙だけだった。
帳簿をぱらぱらとめくると、領地経営の悪化がはっきりと記されている。
まあ、よくも二年でここまで酷い状況に追い込んだものだと、逆に感心する。どうやら叔父にはこういった才能は一切無かったようだ。
もう没落寸前だ。
亡きお父様、お母様。お二人が一生懸命守ってきた伯爵家を、私もこの家にいながら、こんな状態まで放置してごめんなさい。
そして義理の家族を思う。
義妹はああ言っていたからもちろんのこと、義母にとっても、このまま没落して平民に戻るのも悪くないかもしれない、と思う。
義母はもともと大雑把だけれど明るい性格で、気弱な叔父をよしとして結婚した人だ。
この家に入るまでは市井で働いて元気に暮らしていた。
大きな屋敷で部屋に閉じ籠るような生活は、果たして幸せと言えるだろうか。
義母にとっての幸せは、きっとここにはない。
────けれども、私はどうだろう。
もし平民になってしまったら、全てを失ってしまう。
王太子殿下の婚約者という立場だって、間違いなく危うい。
貴族としての生き方しか知らない私は、どうしたらいいのだろう。
「…………はぁ」
やっぱり、何も楽しいものなんて無かった。
ばさり、と乱暴に帳簿を書棚に戻すと、一緒に入っていた紙切れが二枚、ひらひらと床に落ちた。
そのうちの一枚に手を伸ばす。
拾い上げようとして、手が止まった。
──私の名前が、書かれている。
何故、と紙に目を走らせる。
それは叔父との養子解消の書面だった。
しかも提出済書類の控えであり、養子解消は、既に前日に済んでいる。
「…………つまり私は、もう平民になっているということ……?」
私は何も聞いていない。
どうして叔父は私をイルヴァーナ伯爵家の籍から抜いたのか。
それも、一言も相談することなく。
叔父に切り捨てられるような行動を、私がしただろうか。
混乱する私の足元に、もう一枚の紙が落ちていた。
『レイノルド・ルーファス』
そのサインに、心臓が止まりそうになる。
見慣れた美しい字体で婚約者のサインが記された紙には、こう書かれていた。
アメリア・イルヴァーナをイルヴァーナ伯爵家の籍から抜くこと。
その暁に、イルヴァーナ伯爵家へ金銭的援助を約束すること。
サインは、レイノルド様個人のものだ。
王家としてではなく、レイノルド様が個人的に叔父と契約した書類。
……………………なんのために?
ぞわり、と全身に悪寒が走った。
レイノルド様のきらきらしい笑顔が浮かんで、頭の中で真っ黒に塗りつぶされる。
私を平民に落としたのはレイノルド様だ。
いつも優しげな笑顔を絶やさない、完璧な王子様。
書類を持つ手が震える。
レイノルド様は、初めて会った時から優しくてきらきら王子様だった。
婚約して間もない幼い頃、お茶会には私の好きなお菓子ばかりを沢山用意してくれた。
王太子妃教育が始まった頃、弱音を吐く私を励まして息抜きに誘ってくれた。
両親が亡くなったあの日、ずっと隣にいてくれた。
あ。これ多分、走馬灯ってやつだ。死ぬ間際に見るやつ。
政略で結ばれた婚約だろうが、私たちはそれなりに仲を深めてきたはずだった。美貌の王子様に優しくされれば、淡い恋心も多少は生まれようというもの。そう、自分でも気付かないうちに。
それが今、死んだ。自覚した瞬間、お亡くなりになった。
…………レイノルド様め…………!!
私が気に入らないなら他にいくらでもやり方があっただろうに、陰険な手を使うなんて。
清廉に振る舞っておきながら、よくもこんな仕打ちが出来たわね!?
怒りで頭に血が上った。
呼吸も上手く出来なくて、頭がくらくらする。
思いがけず知った婚約者の裏切りは、周囲への警戒心を喪失させるのに充分だった。
「アメリアお嬢様!?」
しゃがみ込んだまま動けないでいる私の背中に、不意に声がかけられる。
私は驚いて立ち上がり、振り返った。