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ワインディングダンス

ワインディングダンス Ⅱ

作者: Haru@miyuki

 ワインディングダンス Ⅱ


「下原さん、彼女はいないんですか?」

 江嶋 薫にそう聞かれたのは、初ツーリングを二日後に控えた金曜日だった。


 古いカルテ等の整理のためにエアコンも無い倉庫で汗だくになっている俺に、機材を取りに入ってきた彼女が後ろから話し掛けてきたのだ。


「ださいおっさんには彼女なんて出来ないって」

 俺は額の汗をぬぐって言った。


「またまた、いじけちゃってー。あれは冗談やって。それに下原さんの事言ったんとちゃうよー」

 薫の笑顔は無邪気でかわいかった。

 こっちも思わず笑顔を返してしまう。


 二人っきりの倉庫。

 近寄って思わず抱きしめたくなるのをぐっとこらえた。


「実習の方はどう? もう慣れた?」


「だいたい。でもオムツ替えばっかりで、ちょっとたまらんわー」


 そうかもしれない。

 うちのような病院に来ても、手術なんて月に2~3回有るか無いかだ。


 大した実習になるわけじゃない。

 病院側は無料の労働力を何でも利用しようと考えてるだけだ。


「おっと、あんまり長くなったらまたサボってるって言われるからいくわ」

 薫はそう言うと、機材を持って足早に出て行った。


 薫の八重歯の白さがいつまでも眼に残っていた。

 薫と初めて会って、まだ2週間しかならないのに、彼女といると心臓の拍動が早まり、血圧が上がるのを感じる。


 ひょっとして恋してしまったかな。

 いつ以来だろう。

 こんなに一人の女性にドキドキするのは……。


 30も近くなった独身男が、二十歳そこそこの女の子にドキドキするなんて、なんか格好悪い。

 夏の太陽が事務所の西向の窓を赤く染め上げる頃、やっと俺の仕事も一段落ついて、俺は帰り支度を始めた。


 タイムカードを打って見ると、数字は19:20となっていた。

 今日は2時間の残業だ。


 無愛想なクリーム色の通用扉を開けて、駐車場に向かう。

 俺のバイクの横には、薫が車止めの上にちょこんと座っていた。


「遅かったねー。待ってたんよ。いっぱい蚊にかまれちゃった」

 尻尾振り回す子犬のように嬉しそうに薫が言った。


 待ってろなんて言った覚えはないし、知らなかった。

 俺は突然の喜びに、にやけそうになる顔を必死で引き締めて無表情を装う。


 薫が待ってると知ってたら、仕事なんか適当に切り上げて、もっと早く来たのに、と少し残念だった。 

 俺がきょとんとしていると、薫が続けて言った。


「明後日の練習や。また乗せてよ。弟のヘルメット借りてきたん」

 薫はスクーター用の半キャップのヘルメットを手にしていた。


「しょうがないな。ほら」

 彼女のヘルメットと自分のを交換する。


「万が一という事があるからな。そっちかぶってな」

 薫が俺のフルフェイスをかぶり、俺は半キャップのヘルメットをかぶった。


 思ったとおり、半キャップのヘルメットはぐらついてフィット感が悪い。

 いくら法定速度30キロ毎時のスクーター用とはいえ、これじゃあ転んだ時役に立つのか、はなはだ疑問だ。


 顔を覆う物も何も無いし、これ一つで時速60キロでかっとぶおばちゃんライダーには無謀さではとてもかなわない。


「なんかこれ、顔が挟まって変やー」

 ちゃんとしたフルフェイスヘルメットは、ぐらつかないよう頬にフィットするように出来ている。


 薫の顔が両側から圧迫されて、子豚のようになっていた。

 おかしくて笑う俺の背中を一回叩いて薫が言った。


「笑うなー! どつくどー」


「お客さんどちらまで?」

 タンデムシートに座った薫に聞く。


 薫はいつものミニスカートじゃなく、ジーンズをはいていた。

 ヘルメットも持参で、朝から俺の後ろに乗るつもりで出てきたんだろう。


 暑かっただろうに。

 何だかいじらしくなってしまう。


「お客さん、住所は?」

 答えない薫に、聞こえないのかと少し大きな声で聞いてみた。


「うるさいなあ。聞こえてるわ。今考えてたん。住所は稲葉山展望台2-1や」

 稲葉山展望台付近に住宅街は無い。まあいいか。腹も減ったし、途中でコンビニにでも寄ろう。


 俺にセルスターターを押されるのを痺れを切らして待っていたTLが、俺の親指に即座に反応して、ビッグVツインの咆哮を上げた。


 町外れにある展望台から見下ろす風景は夜景というにはまだ早かった。

 薄暮れからやっと夜に変わろうとしている。


 少しずつ町の灯かりが目立ち始める頃だった。

 此処は夜景のきれいな名所で、この街のデートスポットだが、今日は不思議な事に俺達の他にはアベックが2~3組だけだ。

 少しずつ暗くなってくる景色を見ながら、二人でコンビニで買ってきたおにぎりをほおばった。


「やっぱ、おにぎりは明太マヨネーズが最高やね。あたし、これが一番好き」


「口の端にマヨネーズがついてるよ」

 俺がそう言うと薫はいたずらっぽく笑って唇をゆがめる。


「そう? 舐めて舐めてー」

 俺は一瞬素直にそうしようとしたが、照れくさかったのでやめた。


「ばか! 大人をからかうな」

 薫だって二十歳の大人だし、俺も薫と比べてそれほど分別のある大人ってわけじゃないが、まだ高校生くらいにしか見えない相手についそんな言葉が出た。


 夏の夜にしても少し空気が湿ってるなと思っていたら、帰りには雨が降り出した。

 稲葉山を降りている途中だった。


 彼女を後ろに乗せているときに、雨に降られることほどバイク乗りにとって嫌な事はない。

 自分が濡れるのは全然かまわないが、愛する人に、冷たく、惨めな思いをさせるのは心が痛む。


 最初はパラパラだったが、しばらくして土砂降りに変わった。

 薫だけ下ろしてバスで帰そうかと思ったが、完全にタイミングを失ってしまった。


 俺も、薫もすぐにずぶぬれになった。

 路面も一気にウェットになり、少しでも気を抜こうものならマンホールや側溝の鉄蓋にフロントタイヤをすくわれかねない。


 一人のときでも嫌なのに、タンデムのウェット走行は最悪だ。


 信号待ちで隣に並んだスポーツカーの助手席からは、哀れみと優越感のこもった女の視線が投げられてくる。


 信号が変わると、よたよた走るこちらに水しぶきを浴びせて、その車は光の交差する町並みに吸い込まれていく。


 さっきまではいい感じのデートだったのに、後半は最悪だ。

 薫の指定した場所まで、ほんの20分がやけに長く感じた。


 細い急坂の下のバス停付近で、薫を下ろした。

 その急坂を登ってすぐのところに彼女の家があるらしい。

 

「ごめんな。びしょぬれになったな」

 ヘルメットをとって薫に言う。


「えーよ。別に寒くもないし。シャワーって思えばええやん」

 ヘルメットをかぶっていた為に濡れていなかった薫の髪が見る見るうちに大粒の雨を吸って黒く光り顔に張り付いていく。


 行き来する車のライトを反射して、髪が赤く染まった薫を俺はバイクにまたがったまま、抱き寄せた。


 そして当然のように唇を重ねる。


 細い薫の腰を右手で抱いて硬い唇を開かせた。

 薫の舌が、恐る恐る絡まってきた。


 薫との始めてのキスは、二人の顔を伝い流れ落ちる雨水の味がした。



 日曜はあいにくの曇り空だった。

 先日のことがあったので、慎重に天気予報を確認する。降水確率は、午前中20%、午後10%という事だ。


 午後から少しは晴れてくるのだろう。


 今日もぐらつく半キャップヘルメットで走らないといけないかと、少し憂鬱だった。


 薫のためにフルフェイスヘルメットを買いたかったが、あいにく給料日前で手持ちが無かった。

 待ち合わせ場所に行くと、薫は真新しいフルフェイスを自慢気に手に持って佇んでいた。


「ふふー、いいやろ。昨日買ってきたん。色違いのおそろいやね」

 俺のはワインレッド。

 薫は同じ種類のシンプルなホワイトを買っていた。


「紅白でおめでたいな」

 俺はそういいながら薫のためにタンデムステップを開いた。


 半島を巡る海沿いのワインディングロードを軽快に走った。

 軽快では有ったが、暑い時期のバイクツーリングは端から見るほど快適とは言い難い。

 エンジンの熱気は上がってくるし、転倒と紫外線対策で、真夏でも半そでは着れないし。


 とにかく暑いのだ。

 走っていると、まだいいが、信号ストップでは路面からの熱気も合わさっていやになる。

 そろそろ夏も終わりのはずなのに、太陽が顔を出したとたん、進路には陽炎がかかって見えた。

 

 

 いくつかの交通取り締まりポイントでスローダウンする。

 この国道は良く走る道だから、どこがやばいポイントかと言うことは既に頭に入っている。


 左手に海を見ながら走る海辺の道。

 車と違って視線の高いバイクでは防波堤の上から、テトラポットと白い砂浜が交互に続くのが見て取れる。


 所々アスファルトの荒れた所が有って、そのショックが俺の背中と薫の胸を突っつき合わせる。

 その度に、俺の身体に回した薫の腕の力が瞬間強くなる。


 ショックを吸収するために瞬間的にアクセルとブレーキで荷重移動する技もあるのだが、頻繁にブレーキランプを点灯させるのは後続の車のいない時にしかできないし、薫の胸の感触を楽しみたかったから、あえて不必要な業は使わないことにした。


 バックミラーを何気なく見ると、かすかに白い点が写っていた。


 白バイだ。こっちを狙っている。

 速度違反を取るつもりじゃない。

 追い越し違反を取るつもりでいるのだ。


 中央線のイエローラインは当分終わりそうに無い。

 バックミラーに写るか写らないかのぎりぎりの距離を維持して、彼は張り付いている。


 そうしているうちに前の車に追いついた。

 こんな時に限って前に現れるのは、法定速度遵守のおばちゃんドライバーだ。

 抜きたくても抜けない状況に、いらいらしてくる。


「どうしたん? 抜かへんの?」

 それまでの走りと変化したのを感じて、薫が聞いてくる。


「うしろ。白バイだ。やっぱり海岸線の交通量の多い道は良く出るんだよな」

 フルスロットルで逃げたい気持ちをぐっと押さえる。


「下原さんの行きつけの峠は遠いんか?」


「いや。この先を山側に上ったところだけど……」


「じゃあ。そっちに行こう。峠はあまり交通量無いから白バイもいないんやろ」

 嬉しい事を言ってくれる。

 海岸線の道はタンデムにしても単調でうんざりしていたところだ。


 俺はウインカーを出すと、右折して登っていく登山道路の方に進路を変えた。

 白バイがついてこないか、少し心配だったが、彼は直進したようだった。


 うっそうとした森の中のワインディングロードは、路面に落ちる木漏れ日が、砕かれた宝石のかけらの様に輝いている。


 右に左に、走るものを天国にいざなう天使の舞いの様に両目の端を光の束が掠めていく。

 森の木々に冷やされた天然の冷気が、二人とTLをさわやかにリフレッシュしてくれる。


 ついちょっとだけ気合を入れて、コーナーに飛び込む。

 薫も慣れたのか、今度は驚かずにバイク任せに体重を預けていた。


 海岸線で初めて深く倒しこんだ時は、倒れるのを怖がって、薫は身体を外側に起こしていた。

 オーバーランしてガードレールがすぐそこまで来ていた。


「要領がわかってきたみたいだな」

 薫は俺の声にまあねーと答えた。


 バックミラーにヘッドライトが写った。

 バイクが何台か追いついてきたようだ。


 白バイではないのはすぐにわかった。

 だいたい、白バイは普通昼間にライトは点けていない。

 獲物を狙うのに自分が目立つのは具合が悪いからだ。


 すぐに最初の一台が俺達を追い越して、追い越しざま左手を上げてピースサインを出してきた。

 ライムグリーンのカワサキZX-9Rだった。


 DOHC四気筒の900CC、143馬力のモンスターバイクだ。

 次にオレンジカラーのホンダCBR900RR、そして青白ワークスカラーのスズキGSX-R750が続いた。


 最後のライダーは左手を尻にぺんぺん当てて、おちゃらけたポーズでこっちを挑発してきた。きゅんと引き締まったウエストと大き目のヒップはヘルメットと皮つなぎの格好をしていても、それが女性だというのはすぐにわかる。


「なにあれ。馬鹿にしてん?」

 むっと来た薫がつぶやくのがかすかに聞こえた。


「仲間だよ。あいつら焼餅やいてるのさ。彼女居ない暦何十年のやつらばかりだからね」

 俺は左手でハエでも追っ払うようにして、彼らを先にいかせた。


 あいつらのペースで走るにはタンデムでは危険すぎる。

 俺達は今、淡い恋の中、身体を寄せ合って、木漏れ日を浴びながら愛を確かめ合ってるところなのだ。ださいやつらはさっさと行きなさい。


 この台詞いいな。峠であったら、早速使ってやろう。

 彼らの悔しがる顔を思い浮かべると、ひとりでにニヤケ笑いがこみ上げてきた。

 今、鏡を見せられたら、ちょっとショックだろうな。


 少しして、また後ろから迫ってくる物があった。

 腹に響くぶっとい排気音はバイクじゃない。


 バックミラーの中にブラインドコーナーから飛び出してきたのは、ブルーのスバルインプレッサWRXだった。4WDで280馬力の、峠で最速の4輪の1台だ。


 タンデムで流して走っている俺達をわかってるんだろう。

 後ろであおる事も無く、彼は鮮やかに俺達を追い越すと、コーナーの中にかき消すようにいなくなった。


 衝撃波がズンと襲ってくる。


 やっぱりバイクとは迫力が違う。

 あいつら、峠の駐車場まで持つかな。

 あのインプレッサは初めて見るが、走りは只者ではない。


「全員玉砕だー。あのブルーインプはプロじゃないのかな。めちゃくちゃ速い奴だったよ」

 峠の小さな公園の駐車場。


 三台並んで停まってる横につけて、ヘルメットを脱いでいると、真っ先に大木和馬が近寄ってきて言った。

 ライムグリーンの自分の愛車のタイヤを指差して続ける。


「でもタイヤがこれじゃしょうがないよな。もう換え時だもんな」


「和馬の9R、こないだ変えたばっかりじゃなかった?タイヤ新品でもあのスピードについていくのは厳しいと思うわよ」

 自分のGSX-R750のカラーに合わせた青白二色のヘルメットを片手に持って、峰岸広美が言う。


「ゲバラが一人だったら、ひょっとしたら着いていけたかもな」

 ゲバラなんてひどい名前で俺を呼ぶのはCBRに乗る早坂徹だ。


 名前しか知らないこの三人は、峠で競い合い、ともにワインディングダンスを踊るうちに仲間になった連中だ。早坂は俺と同年代。

 後の二人は二十代前半だった。


「ゲバラって下原さんのこと? 怪獣みたいやな-」

 薫は初対面の連中にも臆することなく屈託無く笑っていた。


「ああ。怪獣みたいな奴なんだよ。こっちのバイクの方が馬力じゃ勝ってるのに本気出されたら、登りでも全然ついていけないんだもんな」

 早坂が言った。


 俺の方に目配せして、薫の紹介をせがむ。

 一応薫をみんなに紹介して、公園のベンチでランチタイム。


「たくさん作ってきたから皆さんの分もあるでー。良かったらどうぞ」

 薫の言葉に腹をすかせた連中の目の色が変わった。


「俺の分が無くなるからみんな一個ずつだからな」

 薫と二人でランチにする予定だったが、楽しいからよしとするか。


 気の合う仲間と、出来たばかりのかわいすぎる恋人。

 こんな時間がずっと続いたら、人生はすばらしいだろうな。

 俺達の未来がその時の俺には当然見えなかったが、それでも胸に詰まる切ない感情は何かの暗示を既に感じ取っていたからかもしれない。



 その一日の出来事は、俺の心の中に深く浸透して絶対に風化しないものと俺には思えた。


 何年も。何十年も。


 時が過ぎ、俺が老人になって、バイクに跨る事さえ出来なくなっても、颯爽と走り去るタンデムの若者を目で追うと、今日の事が鮮やかによみがえる筈だ。


 決して消える事の無い、今日一日というすばらしい時間が。




      ワインディングダンス Ⅱ     終わり



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