箱庭の少女
「ここは……どこ?」
雑然と積み上げたような建物で囲われた街路で、見知らぬ景色に戸惑い少女は佇んでいた。
ふわっ…
優しい風が吹き抜け淡い青の可愛いらしいワンピースが微かに揺らぐ。
年の頃は十二、三歳であろうか?
「私は……誰?」
しかし、少女は名前さえ思い出せない。
「いったい何が?」
状況を理解できず不安になってキョロキョロと見回す。
道行く者は誰もなく、建物のベランダや窓からは緑色に茂った木々が突き出していた。
まるで廃墟。
「誰もいないの?」
少女の耳に人の息づく音は届かない。
ここにいるのは自分ただ一人だけ……
そんな直感が少女をとても心細くする。
ピカッ!!
突然、遥か前方、道の先の先に、抜けるような青い空へと何処までも伸びる光の柱がそそり立った。
「何?」
明らかに不自然な現象に、だけど、不思議と警戒心が湧いてこない。
気づけば足は自然と光へ向けて踏み出していた。
ひたり、ひたり…
街路の石畳を素足のまま歩む。
足がひんやりとして心地良い。
街路は真っ直ぐ光へと向かう。
石畳は整然と敷き詰められて綺麗だった。対照的に左右には無造作に積み上げたようなごちゃごちゃした建物が並ぶ。
その建物からにょきっとせり出している緑が、人の存在が久しく居ないのを物語っていた。
雑然としていながら整然として、人気がなく寂しいのに諸所の緑が瑞々しく和ませてくれる。顔を上げれば街路から僅かに覗く空はとても青く澄んで吸い込まれそう。
「不思議な所……」
建物に挟まれた街路は狭く、しかし幾ら歩いても変わらぬ街並みに果てが見えない。だから、広い箱庭の世界に迷い込んだのではないかと少女は錯覚を抱いた。
そして、変わらぬ景観に同じ所をぐるぐると周っているのではないかと不安を覚えた頃、少女の前にそれは現れた。
「赤い…扉?」
行く手を阻むように街路の中央に記念碑の如く扉だけがぽつんと立っていた。
赤い色と頑丈そうな金属製というのも異様さを際立たせている。
周囲から完全に浮いている異質な存在に好奇心がくすぐられた。
少女は見上げる程の大きな赤い両開きの引き戸の扉をまじまじと観察する。表から見ても、裏から見ても、やはり赤い扉だけが孤高を貫くが如くそそり立っているだけ。
まるで扉だけが取り残されてしまったかのようで何処か寂しい。
ズズズッ…
突然、重厚な鋼鉄の扉が左右へ重い音を立ててスライドしていく。
ズゥゥゥン!
「うそ……何これ?」
開いた扉の先を見て少女は唖然とした。
そこは別世界――無機質な幾つもの高層ビル、道を走る数多の車や行き交う人の群れ、少し澱んでいるが何処までも続く空……
様々な音で形成された不協和音、今いる街とはまるで正反対に広がっていく世界。
「私……ここ知ってる?」
それは失われたはずの記憶に触れる。
無意識に足は中へと踏み出していた。
「痛ッ――‼︎」
しかし、敷居を越えようとした少女は何か見えないものにぶつかり体勢を崩して後ろへ倒れ込んだ。
「な、何?」
起き上がって恐る恐る伸ばした手は扉の枠の辺りで阻まれた。
まるでガラスでも嵌められているかのように透明な壁があり、幾ら強く叩いてもびくともしない。
ガガガッ…
やがて、無情に赤い扉は閉まってしまい、力の限り押せども引けどもピクリとも動かない。
色々と試行錯誤してみたが、赤い扉は沈黙を守り少女の求めに応じてはくれなかった。
「いつまでも、こうしていてもしょうがないか」
顔を上げれば光の柱は輝きを失わずに屹立している。
再び少女は光を求めて街路の先へ歩き出した。
暫く進むとまた同じような赤い扉が現れ、やはり同じ霞む青空や天を貫く高層ビル、数多の人で形成された雑踏などの光景を眼前に突きつけた。
だけど、扉の中へは入れない。
その後も赤い扉と少女のそんな邂逅は続いた。
何度も何度も……
その都度、扉が見せる光景は少女の記憶を強く揺さぶる。
だからだろうか……
扉を越えた世界こそが自分のいるべき本当の場所で、箱に閉じ込められるように少女はこの世界に囚われているのではないか……そんな荒唐無稽な考えが浮かんだ。
その答えは光の柱にあるのだと、漠然とした確信めいたものが少女の背中を押した。
少女は進む。
この箱庭の世界から抜け出す為に……
それから何度目であったろうか――
「これは?」
――赤い扉が見せる景色が一変した。
「診察室?」
そこは間違いなく病院の診察室で、白衣を纏った医師と幼い少女、その母親らしき女性の三人の話し声が聞こえてきた。
『……未知さんの病気はおそらく遺伝性痙性対麻痺だと思われます』
『えっ……あの、それは?』
医師から告げられた聞き慣れない病名に戸惑う幼い少女とその母親。
まだ十に満たない少女の方が未知と呼ばれた患者であろう。
『かなり稀な疾患です。小脳や脊髄が萎縮し運動障害や痙攣、麻痺を引き起こす神経変性疾患です……』
その後、なるべく平易にイラストを描きながら医師は解説していくが、未知にも箱庭世界から覗いている少女にも難解すぎて理解の埒外だ。
『……通常ならゆっくりと進行していく疾患なのですが、未知さんは発症年齢も症状の悪化も類を見ない程に早いのです』
病気の詳細は分からなかったが、箱庭の少女は未知が重い病気に罹患し絶望的な状況にあるのだろうとは薄っすら感じられた。
『それでは未知は……』
母親が医師に何か問い掛けたが、その声を掻き消すように扉が大きな音を立てて閉じていく。
完全に赤い扉が閉まっても少女はしばし先程の光景を反芻しながら佇んだ。
「今の何だったんだろ?」
今までとは全く異なるものを見せられて少女は戸惑った。
「でも……ちょっと引っ掛かる」
この告知のシーンも少女の記憶に触れた。が、どうにも思い出せない。
刺さった棘が思うように抜けない、少女はそんなもどかしさを感じた。
それ以降、赤い扉は少女に未知を見せ続けた。未知の病気はどんどん悪化していき手の施しようがなくなっていく。
何とか病状の進行を遅らせようと未知は懸命にリハビリを行い、飲みたくもない薬を服用する毎日。
未知の日常は闘病の記録。
だから、赤い扉の先はその殆どが病院の中になった。
まるで未知は白い箱の中に囚われているよう……
中へ入れない箱庭の少女は不憫な未知に頑張れ、頑張れと応援する以外できない。
それがとてももどかしい。
やがて、死期が背後に迫り焦燥に胸を鷲掴みにされると未知は次第に自棄になり始めた。
『辛いの……何でこんなに苦しまないといけないの?』
そこに希望も救いもない病気との闘い。
それは幼い少女にはあまりに酷な運命。
『もうイヤッ! いくら頑張ってもどうせ動かなくなるんだよ!!』
幾らリハビリをしても少しずつ動かなくなる身体。
昨日はできていた事が今日はできなくなっている。
『どうして私は生まれてきたの……どうしてお母さんは私を産んだの?』
病院の中だけの色褪せた意味を見出せない人生。
だから未知は呪詛を吐く他になかったのだ。
『こんなんなら生まれてこなきゃ良かった!!』
少女にはなぜか未知の辛さが、苦しみが……傷が痛い程わかった。
だけど世界に目を閉じ叫ぶ未知は気づかない。
未知の心の傷から膿のように出た己の人生への憎悪の叫びが自分だけではなく周囲も傷つけていただと……
父が、母が、未知の吐き出す苦しみに言葉を掛けられず苦渋の表情で愛する娘を悲しげに見守っている。
何もしてやれないと傷ついているのは両親も同じ……
少女も見ているしかできないから分かる。
この両親の辛さ、苦しさを……彼らのやり場のない悲しみを……
「気づいて未知……傷ついているのは貴女だけじゃない」
しかし、箱庭の少女の叫びは届かず赤い扉は無情に閉じた。
「どうしたら」
傍観者の少女に出来ることは何もない。
それがとてもやるせなくて小さな胸をぎゅっと締めつける。
その時、光の柱の中央付近が急激に明るくなった。
「何かしら?」
天から地へ真っ直ぐに伸びる光の線に沿って、ひときわ強い光の点が徐々に空から舞い降りてきていた。
この箱庭世界で何かが起きている。
気が付けば少女は駆け出していた。
何かに急き立てられるように石畳の街路を裸足で走る少女。
彼女の行く手には、もう赤い扉は姿を現すことはなかった。
「はぁ、はぁ……ここは?」
息を切らせて走り建物に挟まれた街路を抜け出すと、少女の目の前に広がったのは大きな丘陵。
一瞬、街を……箱庭世界を飛び出したのかとも思った。
しかし、光の柱を目指し丘陵を登って頂上に到着した少女の眼前に広がる景色にそれは考え違いであると悟った。
この大きな丘陵は周囲をぐるりと建物で囲まれており、ちょうど街の中央に位置しているようだ。
「こんなに大きな街だったんだ」
果ての果てまで建造物がひしめいており、終わりがまるで見通せない。
しかし、この大きな街に、あの数多の建物の中に、誰も住んでいないのだと少女には何となく理解できた。
ここは少女の、少女の為の、少女しか存在しない箱庭の世界なのだから。
その少女の為の世界にあって丘陵へと注ぐ光は何処か異質だ。
「きっとこの中に答えが……」
眼前の強い光に畏敬の念が湧いて中へ飛び込むのを躊躇ったが、少女はそれでも一歩を踏み出した。
少女の身体は光の中へと溶けていき、次第に光と一体になるような感覚の中で自分自身に回帰し全てを思い出した。
「ああ……やっぱりそうだったんだ」
だけど薄々そうではないかと勘づいてはいた。
「私は未知……赤い扉が見せていたのは未知だったのね」
『その通りです』
突然の声に未知は驚いて心臓が跳ねた。
先程まで確かに光しかない世界だった。しかし、いつの間にか未知の目の前には女性が立っていた。
白くゆったりとした服を纏った白銀の髪の絶世の美女。
「貴女は?」
『貴女の認識で言うなら女神でしょうか』
美しく神々しい、だけど表情が抜け落ちた顔で淡々と語る女神。
『間も無く貴女の命の灯火は消えます』
「ここはあの世ではないの?」
『この場所は魂が輪廻へ還る前の逗留地』
赤い扉が映していたのは未知の過去。
『本来ならここで魂は輪廻の輪へと戻り、数多の魂と溶け合い新たな魂へと生まれ変わります』
「本来なら?」
『はい……私が箱庭に神域を降ろしたのは貴女に一つ提案をする為です』
未知には何となく無表情のはずの女神の目が悲しげに見えた。
『創造神たる私は多数の世界を実験的に作り様々な検証を行なっています。その中にこの世界の創作物を元に創造した世界があるのですが、そこへ未知を転生させようと思います』
それは異世界転生の提案。
「なぜ私を?」
『誰でも良かったのですが……貴女が最も相応しいと感じたのです』
女神によれば転生先は創作物の登場人物で未知と同じ苦しむ人生らしい。
未知の転生でこの人物の未来を変え世界の可能性を広げるのが女神の目的。
「その苦痛を克服するのは並大抵ではありません……だから断っても良いのですよ?」
今世と同じ苦しみが齎される……そう言われても未知に迷いはなかった。
「私は自棄になって途中で投げ出していまいました。だから、もう一度チャンスを貰えるのなら……私を転生させてください」
未知の目に今までにない強い光が宿っていた。
「お願いがあります……転生する前に一度だけ現世へ戻れないでしょうか?」
「今は危篤状態ですからかなり苦しむことになりますよ?」
「構いません……私にはやり残したことがあるんです」
未知の言葉に女神が頷くと周囲がより明るくなり未知は光の濁流に飲み込まれた。
女神は相変わらず無表情で冷たく見えたが、未知にはその瞳がとても優しく見えた……
……光の海から意識の戻った未知はベッドの上にいた。
「意識が戻ったようです」
青いスクラブの医師が未知の手を握ったり、聴診器を胸に当てたりしながら容態を診ていく。
未知は自分の身体に点滴の管や何かのコードが繋がれているのに気がついた。枕より上後方にはテレビのようなモニターがあり幾つもの波形が流れていく。
左右には横一列に並んだベッドの上に未知と同じ状態の患者がいた。
(ここ…病院?)
そこは集中治療室。
未知にそんな知識はなかったが、自分の置かれている状況を何となく理解はできた。
「もう挿管しなければいけません」
(そっか…私はもう死ぬのね)
医師の宣告に未知は全てを理解した。
「ですのでお話し出来るのはこれが最後だと思ってください」
医師が後ろに下がると代わりに二人の男女が未知のベッドサイドに姿を現した。
「未知!」
「お母さんよ分かる?」
その二人は未知が苦しめてしまった両親。
「ぁ……ぉ…とぅさん……ぉかあ…さん……」
上手く言葉が紡げない。
息が苦しい、体が痛い……それは病気による苦痛。
気持ち悪い、頭が重い……それは薬に伴う不快感。
「ぃ…いままで……」
(私…二人にちゃんと言わないと)
身の置き所のない苦痛と耐え難い不快感に苛まれるのは分かっていた。それでも戻って伝えないといけない言葉が未知にはある。
(それが私が頑張ってきた理由。それが私が生きてきた意味だから)
意味を見出せない苦行のようなリハビリや無駄と思えた薬の服用。
それらの積み重ねのお陰で今の未知は最後の力を振り絞れた。
未知の人生をかけて残すそれは、たった一つの言葉だけれど、たった一つの想いだけれど……
「ありが……とう……」
「「――ッ⁉︎」」
(言えた……)
全ての力を使い切った未知に両親の反応を確認する術はなかったが、きっと二人は未知の呪縛から解き放たれただろう。
お父さん……ありがとう……私を見守ってくれて……
お母さん……ありがとう……私を産んでくれて……
本当にありがとう……
その想いを残して未知の意識は光の闇へと溶けていった……