どうか誰も拾いませんように。
潮風が頬を優しく撫でる。
カーディガンか何か、羽織るものを持ってくるべきだった。
周りを見渡しても人影はない。
そりゃそうだ、こんな平日の早朝に海岸に来るやつなんているわけがない。サクサクと砂を踏む感触を足裏に感じながら、片手に持っていた瓶の表面をつと撫でた。
あれは確か、タワーをした次の日だった。
つい先日まで歌舞伎町のホストに夢中だった。
暇があればホストクラブに足を運んでいた。熱心に指名をしていた彼に惚れたきっかけは覚えていない。そんなことは些細な問題だ。恋に落ちる理由なんて後付けばかりで、実際は大したものではないのだ。
彼はこれと言ってカッコいいわけでも話が上手いわけでもなかった。
それでもどうしてか、当時の自分は彼のためなら死んでもいいと思っていた。文字通り血と肉となり、彼を彼とたらしめるものの一部になりたかった。そんな世迷言を平気で言えるほどには彼を愛していた。
蒸し暑くなってきたある日、彼におねだりをされた。
近く彼の誕生日があり、店でバースデーイベントをやると。盛大にやりたいからお願いしていいかな。大好きな彼にそう言われたら命に代えても叶えてあげるしかない。
お店の方針でツケ、いわゆる借金は不可能らしく誕生日のその日まで死に物狂いで働いた。そうして彼の誕生日当日、五百万円のシャンパンタワーをプレゼントした。
無事にイベントが終了したあと、彼がドライブに誘ってくれた。
家猫のように機嫌が変わる彼にしては珍しい発言だ。誕生日だからと周りにもてはやされて気分が良かったからかもしれない。
タバコのヤニで汚れた歯ですら愛おしいとすら思っていた馬鹿な自分はもちろん承諾した。お互いに顔を酒で浮腫ませながら、レンタカーを借りて海に行った。
海を選んだ理由は分からない。
けどマァ、レンタカー代で客の機嫌を取れたら安いものだろう。海に行くなんてロマンチックだし。この一ヶ月間、この日のために自分は知らない男の身体を舐め回していたのだ。疲れ切った頭では大好きな彼とのドライブが桃源郷に行くように感じられた。
早朝だったこともあって海は人っ子一人いなく、そして風が冷たかった。
テキトーなコインパークに車を泊めて砂浜を歩く。回らない頭を無理やり動かしながらひたすらに歩いた。随分と気まずかったのを覚えている。勢いだけで来てしまった自分たちが海ですることなんて何もなかった。
案の定、彼はすぐに不機嫌になってしまった。
彼に嫌われたくない自分は必死で話題を探そうとした。一生懸命彼に話しかけても「ン」だとか「ア」だとかしか返ってこなかった。
五百万円もしたのにどうして優しくしてくれないの。疲れていていつもよりナイーブだった自分は、彼の後ろ姿を見ながらとぼとぼと歩くしかなかった。
ふと、海に目をやるとキラリと光るものがあった。
眩しさに目を細める。
その光は海の反射ではなかった。興味を惹かれた自分は、ザブリと海水に手に入れてみる。思ったより近い距離にあったそれは難なく掴むことが出来た。
酒瓶のようなそれはなんてことないメッセージボトルだった。
「ねぇ面白いものがあるよ」と話題が見つかって喜んだ自分は早速その話をした。
面倒くさそうにまつ毛をパシパシさせながら振り向く彼。徹夜明けの油ぎった毛穴がよく見えた。
彼は無言でいるので、自分は仕方なくそのボトルを開けてみる。
二枚の紙と銀色の小粒のピアスがあった。
一枚広げてみると何と婚姻届。
驚きながらもう一枚を見ると「幸せになってください」という文章が小さな字で書かれてあった。結婚に憧れがあった自分はそれを見てひどく感傷的になった。
なんだかとっても素敵なものに巡り会えた気がして、年甲斐もなく浮かれた。
だって海からきた漂流物に婚姻届が入ってるだなんて夢がある。
これを入れた人は何を考えていたのかな。もしかして自分たちを祝福してくれてるのかな。お花畑な頭でそんなことを考えた。
死んだ魚のような目をしている彼にそれを伝える。
そして「私たちはいつになるんだろうね」なんてぼかしながら希望を言って、彼も「そうだね、早く結婚しよっか」と抑揚のない声で応えてくれた。
嬉しい、思いは伝わっていたんだ。
つまらなかった散歩が突然価値のあるようなものに思えてきた。「私たちもボトルに何か入れようよ」「結婚記念に何かをいれてさ」「ねぇ大好き」そんなことをお互いに語り合った。
当時を振り返ると死にたくなってくる。
そんなものお得意様への営業の一環だ。ATMの自分と結婚だなんて、一ミリたりとも考えていなかったのだろう。それでも当時の馬鹿な自分は、彼との結婚を本気で考えていたのだった。
そうしてしばらくして、そんな出来事も忘れた頃、彼はホストを引退する宣言をした。
突然だった。
何も聞いていない。呆然とする自分が不憫に思えたのか、彼の友人が結婚が理由だと教えてくれた。お相手は某有名なキャバ嬢。頭が真っ白になった。
結婚? 誰と? 私とじゃなくて?
嘘をついてたの? 結婚するって言ってたじゃない。
涙は出てこなかった。
彼のためにどれだけ心を砕いたと思っている。
時間と金をどれだけ彼に費やしたと思っている。
一千万? 二千万?
そして、カッとなった自分は手のつけられないほどに暴れた。
まるで闘牛のようだった。ドッタンバッタンと力任せに壁や床を殴り、目についたもの全てを投げつた。部屋の壁はペコンと凹んでしまった。布団は二度と使えないくらいに包丁でズタズタにした。
そうしてもう壊すものがないくらいに暴れたあと、ふとその存在に気がついた。
メッセージボトルだ。
床にちょこんと置いてあったそれは無事だった。「幸せになってください」? ボトルに入っていた紙を思い出す。うっすらと青いその硝子を見ていると、なんだか無性に泣けてきた。身体の力はへにょへにょと抜けてしまった。
何が結婚だ、何が幸せだ。
結婚が幸せの最頂点であるような、結婚が幸せの象徴のような、そんな言い方をするこの漂流物がひどく憎らしくなった。
そして、この紙の通り婚姻届を出して幸せを掴もうとする彼も。
あんなに憧れていた結婚がひどく忌々しいものに思えてきた。
自分の思いも何もかも、全部全部捨ててしまいたくなった。震える手でボトルを掴む。壊してしまうような元気はなかった。おずおずと改めてボトルの中身を確認する。そしてあることに気がついた自分は一つの決心をした。
そうして、全てを終えて今ここにいるわけだけれども。
中身のないボトルに婚姻届とその紙を入れる。
入っていたピアスは捨ててしまった。それから少しだけ迷って、ホストクラブの領収書を入れた。泣けてくる話だが彼との思い出なんてこれしかない。積み重なる領収証は当時結婚への切符だと思っていた。ギュッギュッと束のそれをなんとか詰め込む。
忌々しくも輝かしいそれを海に放り投げた。
二度目のメッセージボトルを確認した時、気づいたことが一つあった。
古びた婚姻届には血のような跡があった。
このボトルを海に投げ捨てた人は、本当に幸せになってほしいと思っていたのだろうか。
もし本心からそう思っていたとしたら、その連鎖を止めれなくて申し訳ないと思う。いやいや、もしかしたら自分のような人を渡り渡っているのかもしれない。
ただ確実に言えることは、これを投げた人はこうして思いを捨てたのだ。
自分と同じく輝かしい結婚生活と何かを。
さて男から逃げなくては。
携帯が鳴っている。
先ほどからしつこいくらいにメッセージの着信を知らせていた。彼は血眼になって自分を探しているのだろう。見つけ出すことは出来るだろうか。いや、それよりも先に海の藻屑になるほうが早いかもしれない。
ツケが出来ないはずのお店が特別にツケをさせてくれた。
自分がお得意様だからと言う理由だった。コイツは俺に惚れてるから逃げないだろうとタカを括っていた彼はそれを了承した。自分が店に金を払わないで逃げたとすると、代わりに払うのは彼だというのに。最後だからととてつもない額の借金をしてやった。
どこまでも馬鹿な男だ。
自分を捨てて結婚する男に対してどうしてそこまで真摯にならんといけないのか。
彼が働いていたホストクラブは、歌舞伎町では有名な悪評絶えない店だった。
実は裏カジノを運営しているのだの、薬を売買しているのだの、人身売買をしているのだの、本当にロクデモない店だった。
そんな店が彼から金を回収するとしたら臓器を売ったりする方が手っ取り早い。彼もいい年だ。結婚してホストも上がる男から金を回収する方法なんて一つしかない。
それに彼は店に大分迷惑をかけていたと聞いた。
恨みを持っている人も多数いるだろう。彼の奥さんが風俗に行くという手もあるが、彼女はSNSでも有名なキャバ嬢だ。無名な彼を失踪させる方が労力も少ない。
そうして身体の大事なパーツを抜き取られてペラペラになった彼は、きっと粉々に砕かれて海にまかれるのだ。
小さな魚が何食わぬ顔でそれを食べて、彼は深海を泳ぐことになる。
彼は何を考えて死ぬのだろう。何を考えて海を泳ぐのだろう。
魚になった馬鹿なあいつは、きっとアテもなく自分を探すのではないか。
自分を恨んで恨んで、海を泳ぎ回る。ひたすら自分のことだけを考えて泳ぎ回る。金を返せばまた生き返れるとですら思っていそうだ。
そのとき、もし、少しでも自分に愛情があったら、メッセージボトルのことを思い出すのではないか。
もし何かの拍子でこのメッセージボトルを見つけたら、少しは自分のことを考えてくれるのではないか。
マァきっとただの領収書だとしか思わないだろうなぁ、あいつは。
馬鹿なことを考えるのはやめてさっさと海外にでも逃亡しよう。
砂のついた手をパッパッと振る。
将来ひとり寂しく過ごさないように、老後の独身生活でも考えよっと。
息抜きに書いたものを供養します。
反応いただけると少しお互い紅茶とクッキーを用意するくらい喜びます。