大樹
8月
太陽の照り付けが激しくなった季節。
辺りには、甲高い50㏄バイク特有な音が鳴り響く。
ツナギに足を通し、ブーツを履く。
慣れていることのはずなのに時間が掛かった。
ツナギの袖を腰のところで結び、ヘルメットを持ち車を出る。
他の選手と目線を合わせないようにして、厳しい表情で車庫に入ってくると、仲間から「落ち着け」や「がんばれ」などの当たり前の台詞を貰うが、何の足しにもならなかった。
ドキドキするのに、やたらと眠い。
胃の辺りが痛い。
小便が近い。
こんな公式にも載らないような小さな大会で、何とも情けなく思うが、身体がまるで言う事を聞かない。
フワフワしたようで、地に足がついていなかった。
「はぁー」
朝から何度目かの、情けない溜息を吐ているところに、このレースに誘ってくれたバイク屋のおっちゃんがやって来た。
昔に齧ったことが有るらしく、おっちゃんは趣味で、気に入った若い子をたまにレースに誘うことをしていた。
「おい、大樹。朝飯は食ったのか?」
「いえ、何だか吐きそうで………」
「緊張してるのは解るが、何か腹に入れとかないと、いざッて言う時に踏ん張りがきかないぞ」
「解ってはいるんですけど………」
大樹はそい言って、再び短い溜息を吐いた。
仕方がないっと言った様子で、おっちゃんは自分のカバンからバナナを取り出し、大樹に投げ渡した。
大樹は思わず受け取ってから、情けない顔でおちゃんを見る。
言っていることは解るが、今は何も受け付けない。
「俺の朝飯だ。やるから食え」
「ありがたいですけど、今は胃が受け付けません」
その台詞に、おっちゃんは本日に使う単車を見た。
「こんな小さな大会だがな、俺は、単車の整備なら完璧にしてやる。今日も、大樹のカーブの癖や、ストレートで伸びる力を最大限に発揮が出来るようにマシーンを組んできた。しかし、残念ながら俺たち整備士はレーサーの整備は出来ん」
そう言って、おっちゃんは投げ渡したバナナを見た。
「そいつはな、今日、走るためのお前のガソリンだ。マシーンしか触れない、俺がレーサーにしてやれる、唯一の整備だ」
その言葉で、大樹はバナナを剥くと頬張り、詰まった様に慌てると、ペットボトルの水で流し込む。
とにかく、自分のガス欠で、最高のマシーンの本領発揮できないのだけは避けたかったためだ。
「それ食ったら、練習走行に行って来い」
「はい!」
「本番ではないから、気負って、下手に力を入れて走るなよ。流す程度で走れば良いからな!」
「分かりました!」
大樹は口の中のバナナをモグモグさせながら、ツナギの袖の手を通した。
「ねー、まだ始まらないの?」
コースに目をやりながら、三夏はつまらなそうに声を上げた。有吾はピット横を指さし答える。
「練習走行は終わっているみたいだけどな」
「もう始まるって。ほら、みんな出て来て、バイクにまたがっていくだろ」
各々がエンジンをふかして、その時を今か今かと待ちわびる。
そして、チェッカーフラッグが振り下ろされ、一斉にエンジンをふかした。
辺りは一機に騒音に支配され、我先にとバイクは走っていく。
「大ー樹ー!! 行けー!!」
「えっと、大ちゃんって何番だっけ? ヘルメットかぶっているから、分かんないよ」
「8番って言ってたじゃん。だけど、8番は小柄に見えるな」
「その後ろの9番じゃないか? 体格もそれぐらいだし」
「ちょっと、どっち?」
そう三夏が頭をかしげたところに、横から声が掛かった。
「河原 大樹は6番です」
「6番? あっ、本当だ。あのヘルメットはそうだ!」
そう返しながら、三人はその声の主を見た。
こんなレースには珍しい、自分たちと、同じ年ほどの少女。
そこで三夏は気が付いた。
「あなたは、大ち………河原君の彼女さんですか?」
「川本 美加です」
「川本さんか。私達は、昔っからの知り合いの3人で、今日は応援に来ました。よかったら、一緒に応援しませんか?」
「私はっ!!」
三夏が気を使いながら彼女を誘う台詞に、川本は思わず叫んだ。
しかし、そこで何か思ったのか、そのまま下を向き、小さく続けた。
「私は…………応援に来たんじゃありません!」
そう言って、3人とは距離を開けるが、座ってレースを眺めている。
大樹と彼女の、二人の間に何かあったのか、他人が口を出したはいけない空気に、3人は川本から意識を放し、レースに集中していく。
現在の大樹の順位は11位の真ん中あたり。
バイクが好きで、運転技術もそこそこ旨いのだが、レースは勝手が違うのか、前に追いつくも抜くことが出来ない。
そして、レースは後半に差し掛かり、大樹はさらに順位を落とし、14位になっていた。
レーサーを夢見て、自分がどこまで出来るかを、大樹は知りたがっていた。
それが、こんな結果で終わってしまうのかと、有吾は祈るように大樹の背中を目で追う。
「やばいな、もう、あと2周しかないぞ!」
「だけど、大樹も頑張ってるって!」
「解っているけどよ」
「でも、先頭の方は団子状態だし、上手くいけば一気に抜けるかも知れねーぞ」
「そうだよな、トップ集団とそんなに離れて無いし、チャンスさえあれば」
たしかに、トップとの差は開いておらず、先頭から中盤にかけては団子状態で、上手くいけば一気に順位を上げれるだろう。
後は、どこで仕掛けるかだ。
そこで、先頭を走っていた選手と2位の選手が接触して、二人して倒れる。
団子状態が良く無かったのか、周りもその転倒に巻き込まれていった。
大樹の目の前には、なんとか体勢を立て直そうと、ふら付くバイクが現れ、彼は大きくそれを躱した。
そこで道は開く。
大きく集団を避けたことにより、大樹の目の前には、邪魔する者が居無くなっていた。
大樹は一気にアクセルを煽る。
転倒に巻き込まれた連中や、それによりスピードを落とした連中をすり抜け、どんどんとスピードを上げる。
この事故で、何台も抜いたが、無事にすり抜けた者もいるだろう。
前にマシーンは見えない。
どれほどの距離を開けられたか解らないが、少しでも、前の連中との距離を詰めなくては、残り1周も半ほどしかない。
先頭を探して再びアクセルを吹かす。
そして、残りも僅かなコースにして、ようやく先頭のテールランプを見つけた。
その差ははるかに遠い。
大樹はどんどんとスピードを上げ、それに追いつこうとする。
周りの風景なんて、もう視界には入らない。
一歩でも前に。
しかし、まえの単車に追いつくことも無く、チェッカーフラッグが振られてしまった。
追いつけなかった。
だが、転倒に巻き込まれなかったので、少しは順位は上がっただろう。
せめて表彰台に上がれるなら嬉しいと思い、ピットに戻ると、おっちゃんが笑顔で両手を広げ待ち構えていた。
「やったな! 大樹!」
「おっちゃん! 俺、何位だった?」
「何位って、お前、ピットの方見てないっと思ったけど、解らず走ってたのかよ?」
「集団で倒れたのを躱した後は、解んなくなって、とにかく追いつこうって必死だったから。3位までには入っていたか? 表彰台には登れるか?」
「登れるかって、お前………」
「やっぱダメだったか。けっこう追いあげたと思ったんだがな」
そう、頭を下げた時、おっちゃんは大きく大樹の背中をたたいた。
「登れるんだよ、一番高いところに!」
「っえ? 一番高いって?」
「大樹、お前が1位なんだよ! 優勝だよ!」
「優勝? 俺が? だけど、まだ前に誰か居たぜ?」
「ありゃ、周回遅れだ。チェッカーフラッグはその選手が過ぎた後に振られていただろ?」
「じゃ、俺、表彰台か?」
「あぁ、棚からぼた餅みたいなところもあったが、それも含めてがレースだからな。大樹、お前がトップだ」
「やった! マジで、やったぞー!」
大樹はバイクに跨ったまま、両手でガッツポーズを作った。
簡単な表彰式が終わり、片付けをしているところに、3人はやって来た。
「おぅ、大樹! 友達が来てっぞ!」
その声に反応して、大樹がマンベンな笑顔を作る。
「みんな、見ててくれたか?」
「大樹スゲーじゃん、俺、カンドーしちまったよ!」
「大ちゃん、やったね!」
「みんなが転倒したときは、一緒に転倒しないか心配したぞ」
「バカヤロー、俺が巻き込まれて転倒なんかするもんかよ! 俺は、最初っから誰かがあそこで転倒するって思っていたぜ。あのカーブは無理に攻めようとしたらやばいんだ! 俺の作戦通りなんだよ」
そう得意げに話しながら、みんなの後ろに居る人物に気付き言葉に詰まった。
「美加! ………来てたのか」
「ごめんね! 来たら迷惑だった?」
美加は眉間にしわを寄せ、言葉荒げにそう言う。
「迷惑だなんて………」
「そう思ってるんでしょ? 邪魔者だって! そうよね、バイク、バイク、バイク! 私なんて、どうでもいいもんね!」
「そんな事………」
「優勝おめでとう! 良かったわね、これで、また、私をほったらかしにして、走る理由が出来たもんね!」
「美加、俺は………」
「大樹なんて、大樹なんて! 一緒に事故っちまえば良かったのよ! バカ!!!」
そう大声を上げて、美加は一人走り去っていく。
大樹はただ下を向き、拳を握り締めていた。
「ぉ、おい、大樹、追いかけた方が……」
響也がそう言うが、大樹はまるで動こうとはしない。
その様子に有吾も声を上げた。
「なぁ、大樹」
「いや、俺には、そんな事する資格は無いよ」
そう言って無理矢理笑うと、大樹は車庫の中に消えていった。