トンネルの中
1997年6月
携帯のアラームで目を覚まし、まだ眠り足りないような目を擦し、大きなあくびをした。
「ふぁーぁ」
そこには昨日と同じ朝があった。
いい加減、鬱陶しくなる毎日。
この日常に、何の意味があるのだろうか。
カーテンを開けると、街は雨に飾られ、憂鬱に彩られていた。
少年は起き上がると、トイレに行き顔を洗い、ゆっくりと学生服に着替え、カバンを持って部屋を出ていく。
傘を差しながら歩いて行く。
降り続ける雨は、一体俺にとって何の意味があるのだろうか。汚れていく世界を、綺麗にするために降っているのであろうか。
そんな意味すらないことを考えながら、毎日変わることの無い景色を退屈に見ながら、学校に歩いて行く。
学校に着くと、少し湿った上履きに履き替え、いつもの顔ぶれとたわいのない話を交わし、いつもの席に腰を下ろした。
そして、一つ大きなあくびをすると、また、たわいの無い授業が始まった。
朝飯を抜くと腹が減る。
二時間目あたりから腹の音が鳴りやまない。解っていたことだけど、どうしても、少しでも睡眠時間を延ばす誘惑には勝てない。
机の上に伏せている少年に、一人の少女が近づいてくる。
衣替えも終わり、長そでのカッターシャツのみで、襟元のリボンを蝶々では無く、ボータイにしているのは彼女のこだわりのようだ。
肩下まである髪を、本日はポニーテールにして、その紐の色をボータイと合わせている。
彼女は解って居たように彼に話しかけた。
「オッス、狩ちゃん。その様子なら、また朝を抜いて来たでしょ?」
「いつもの事だよ」
「そんな事ばっかりしてたら身長止まるよ。育ち盛りなのに」
「ほっといてくれ。背が低いのは親の遺伝だ」
「もうすぐ、私にも身長抜かれちゃうよ」
「本当だな、ついでに体重も抜かれちまうかも」
「なんで、増えたの知っているのよ?」
「最近、三夏のお菓子料が増えてるから」
「だっ、だけど、ちゃんとご飯の量も減らしてるし、サラダ中心だよ!」
そう言い訳をしたところに、丁度チャイムが鳴る。三夏は溜息を吐き、「だったら、私が太らない様にこれを処理をしておいてね」っと、チョコクッキーを置いて教室を出ていった。
それに気づくと、慌ててチョコクッキーを手を伸ばすが、それより先にクッキーを奪われる。
悲しい表情で顔を上げると、そこには見慣れた国語教師の顔があった。
「狩田、学校にはお菓子持ってきたら駄目だぞ」
そう言って、チョコクッキーは国語教師が持って行った。
彼は、再び机に伏せた。
ようやく念願な昼休み。
狩田 有吾が売店の焼きそばパンをかじっているところに、彼より身長の高い少年が、ニヤケ顔で寄ってきた。
「おいっ! 有吾聞いたか?」
「なにをだよ大樹?」
「実はな、響也の奴、彼女が出来たらしいぞ!!」
有吾は焼きそばパンを食べる手を止めて、河原 大樹の顔を覗き込んだ。
「………マジか?」
「マジだ」
「マジかよ」
有吾は顔をしかめて天を仰いだ。
「これで、三人の中で彼女が居ねーの、有吾だけだな」
そこにもう一人の少年が近づいてくる。
「なんだか噂話が聞こえたが、それって、俺の事かい?」
わざとらしく、佐々木 響也が彼らに話しかける。
「おう、響也。ちょうど今、有吾に教えてやっていたところだ」
「ほう。それはそれはご丁寧に。こんな偏狭な地にまでその噂が広がっているか。そうなんだよね。噂通りに、俺にも彼女が出来ちまったんだよね」
有吾はその響也の得意げな顔に、しかめっ面のまま答えた。
「それは、それは、めでてぇ事で」
「いやいや、それほどでも。ところで、こっちの子は元気がないようだが、大樹くん、何かあったのかね?」
「さぁ、彼女のいる、俺には分かりませんが、寂しくって、すねているんじゃ無いですかね?」
「そんなのじゃねーよ。ただ、………ただの雨のせいさ」
「おっ、さすが詩人だね」
響也がそう返した時、教室のドアを勢いよく開け、三夏が入って来た。
「ちょっと、狩ちゃん! さっきのチョコクッキー先生にあげたでしょ?」
「違うよ、三夏がこんなとこに置いとくから先生に取られたんだよ」
「せっかくあげたのに、こんなことなら自分で食べたらよかった」
その会話に大樹と響也も加わる。
「えっー、三夏っちゃん、有吾だけにクッキーやったの? それって俺らせつねーぜ!」
「そうだよ、この四人は幼馴染みみたいなもんなのに」
「そんなにチョコクッキー食べたかったの? でも、もう先生に取られよ」
そこで有吾は焼きそばパンを握りしめた。
「お前ら、彼女いるのに、俺のチョコクッキーまで奪うきかよ! 山賊か!」
「彼女いるの、かんけーねーじゃん」
「山賊もな」
「そもそも、チョコクッキー奪ったの先生だしね」
有吾は三人に反撃を喰らい、言葉に詰まった。
「いや、だけど………」
「それに、奪われたのは、私のチョコクッキーだよ? せっかく楽しみにしてたのに」
「えっ? あれってくれたんじゃ………」
「楽しみが減っちゃったよ」
わざとらしく、残念そうに三夏は唇を尖らせる。有吾は焦った。
「かっ、買って返そうか?」
「そうよね。そうすべきよ。狩ちゃんの責任だもんね」
「そうそう。俺はポテチな。のり塩だぞ、のり塩」
「俺はバター醤油のポップコーンで負けてやる」
「なんで、彼女が居る、お前たちにまで奢らなきゃならないんだよ! 海賊か!」
「だから、そのツッコミがよく解らない」
悩んだように大樹が言った。
学校の意味のない授業が終わり、みんなで街に繰り出す。
別に何があるってわけでは無いし、何かすることも無いけど、ただ、街をぶらつく。
雨はようやく上がり、三日ぶりの太陽がやけにまぶしかった。
「やっぱ、夏が近づくとウキウキするよな?」
「そうだよな。夏は、特にバイクに乗ってると気持ちいーんだよな」
「大樹はバイク好きだからなー。今年の夏はどこか行くのか?」
「ツーリングで海とか、あと、八耐を見に行くとか、行きたいところはいっぱいあるけどよ、今年は無理かな」
「海って良いな。俺も行てー、泳ぎてー」
そう、はしゃいでいる、大樹と響也を横目に、有吾は別の事を考えていた。
街路樹たちは久々の太陽を気持ちよさそうに浴びていた。
道路に残った水たまりは、太陽を反射させてまぶしかった。
低いビルの窓は全て開いており、久々の解放感にみんながウキウキと心を弾ませているようだった。
その中で、自分一人だけが取り残されている感じがした。
太陽の、まぶしい光の中、自分が暗い、先の見えないトンネルの中に居るように感じ、足掻こうと爪を立てたいが、何処に向かえばそこから抜け出せるか解らない感情だ。
だから、笑顔が少なくなる。
「どうしたんだ有吾? 最近、何だか暗いぞ」
「さっきの事、まだ根に持ってるのか?」
「いや、そんなのじゃねーけどよ。俺は、夏はあんまり好きじゃねーかもな」
そう言って、一人、遠くを眺める。
「………まっ、いつかお前も彼女出来るよ」
そう慰めてくれる大樹に、有吾は困った顔のまま答えた。
「だから、違うって」
そんな話をしながら、三人は有吾のマンションにやってくる。
彼は、親が借りてくれたワンルームマンションで一人暮らしをしていた。
「やっぱ、いーよーな。一人暮らしって。親が金を持ってると違うよな」
「でも、生活費はそんなにもらって無いから、飯も洗濯も自分でするの大変だぜ。まー、親が勝手に別れて、ケンカも見なくいいから、気楽っちゃ、気楽だけど」
有吾は気楽と言って、自分を納得させる。
「それでも、羨ましーぜ。俺だったら、ぜってー、女連れ込むね。有吾も女………、ごめん、彼女居ないんだったな」
「響也、お前、今のぜってーわざとだろ! くっそー、バイトの時間が空いたら、ナンパしまくって彼女作るからな!」
「ところで、響也はどうやって知り合ったん?」
「おっ、聞いちゃう? 俺の、運命の出会い」
「もったいぶらずに教えろよ」
「では、有吾君にも、今後のため教えてあげよう。俺が、壁の上でハーモニカ吹いている時………」
「なんだよ、その嘘くせー話」
そんな、たわいのない話で盛り上がる。
しかし、その中でも、有吾は心の中から楽しめていなかった。
その理由は、他人が聞けば、たいした事では無いかもしれないが、有吾の中では大きく、今の自分を左右させているものだった。
いや、本当はこの三人ともそう思っていたのかもしれないが、誰も、口に出すものはいなかった。
三人は夕方まで有吾の部屋で話し込み、辺りが暗くなり出す頃に、二人は帰っていった。
そこから有吾は煙草に火をつけ、パソコンの電電を立ち上げた。
そこには書きかけの小説がある。
そのまま、夜遅くまで、彼の部屋の電気は消えることは無かった。