アイボリー・ホワイト
「私」はその日、いつもの場所で日曜の午後を過ごしていた。図書館の中庭、木陰の長椅子に「私」の居場所があった。優しい木漏れ日の中で本を読んでいたその時、「私」の恋は始まった。透き通った肌と熱情を湛えた瞳、さらさらと風に抱かれて流れる髪。中庭を歩く彼女は淡いクリーム色の木漏れ日に包まれていた。「私」の目に彼女が映ったのはほんの一瞬であったが、恋に落ちていく感覚は蜂蜜の中を泳ぐように感じられた。彼女が去ったあとも「私」の心はひどくざわついたままであった。結局この日は何もする気になれず、ようやく貸し出された本も棚に返してしまった。
次の日曜、「私」はまた図書館に来ていた。もしかしたらまた彼女に。そんな期待があったのかもしれない。中庭の長椅子に腰掛けて本を広げた。思えばこの一週間、まともに本を読むことができなくなっていた。本の表紙を見る度に彼女の顔を思い出しては彼方を見つめぼうっとしたまま小一時間程過ごす。そんなことを二度三度と繰り返すうちに、しばらくはとても本が読めそうにないと諦めた。しかし今日は絶好の読書日和だ。この機会に本のある生活を取り戻すのだと「私」は心に誓っていた。本の世界に沈んでいくような感覚に、「私」はほくそ笑んだ。待ちに待ってようやく貸し出された貴重な古書。何せ─「何せ大変なお宝だからね」
丁度読んでいた箇所を読み上げられたからか、心の声を復唱されたからか、「私」が驚いて飛び上がった理由も、落ちた「私」を迎えたのが長椅子ではなく冷たい石畳だったこともどうでもよかった。問題は声の主が彼女だったことだ。「私も好きですよ。素敵なお話ですよね」彼女は言った。「えぇ」鈍い痛みと突然の状況に混乱した「私」がようやく絞りだした返事とも呻きともつかぬ音を、彼女は肯定と受け取ったようだった。彼女は「私」を長椅子に引き上げ、並んで腰掛けた。それから「私」は彼女と本について語りあった。しかし彼女についての記憶はぼんやりしている。というのも、そのとき「私」の心は混乱のために余裕を失っていたからだ。
一夜明けて、「私」の心は平静を取り戻していた。冷静に考えれば昨日の一件は僥倖と言うべきだ。七日の間も「私」の頭を悩ませていた彼女に近づいたのだから。それに、「私」の中で彼女への気持ちが居場所を見つけたようだった。この衝動はまさしく恋に違いない。そう思うと次に自分が何をしたいのか、何をするべきか、透き通るようにはっきりしていた。日曜は図書館で本を読みながら彼女を待つ。彼女が来れば本について語り合う。新しい休日の過ごし方は、まるで何年もずっとそうしてきたかのように感じられた。彼女と本の趣味が合うことも幸いであった。次の日曜、そのまた次の日曜と彼女との時間を重ねるうちに、「私」の胸の奥で膨らみ続けた気持ちを隠すのに苦労するようになった。「私」の気持ちを知れば、彼女は離れていってしまうかもしれない。恋心に呼応するように不安も大きく育った。
雨の降る日曜、「私」はやはり図書館で本を読んでいた。月曜から続く雨にはうんざりしていたが、それだけに彼女に焦がれて、雨降りの道も苦ではなかった。「私」は時折中庭の長椅子に目をやりながら彼女を待った。一時間が経ち、胸のざわめきが大きくなるのを感じた。二時間が経った。彼女は来ないと悟った。彼女にも都合がある。いままで都合がついていたほうが幸運だったのだ。それにこの天気だ。約束もしていない「私」に会うため、無理に来るだろうか。「私」は溜息を栞に本を閉じて家路についた。
久方振りの本の無い午後に想いを馳せ、「私」は彼女に手紙を書くことにした。彼女との距離が縮まれば図書館で待ち続ける必要もないと思ったし、何より一度心を整理しておきたかった。買った便箋を見つめて「私」はようやく気付いた。宛名がわからないのだ。不思議なことに、「私」は彼女の名前を聞いたことがなかった。いや、自分の名前を彼女に教えたのかさえ怪しい。彼女との会話は本のことだけだった。互いの名前など必要なかったのだろう。今度会った時に名前を聞こう。名前を知らずとも手紙は書けるのだから、今は気にしなくて良い。本当にそうだろうか。「私」は脳裏をよぎる予感に足を止めた。今すぐに彼女の名前を聞かなければならない。そうしなければ彼女にはもう会えない気がした。傘を捨てて図書館へ走りだした。いつの間にか雨は止んでいた。一週間振りの晴れ間に彼女を期待した。この青空だ。彼女もきっと来るだろう。図書館に着くと、彼女の気配を感じた。既に彼女は来ている。呼吸を整えて中庭を目指した。本を片手に中庭に入った。やはり彼女は先に来ていたようだ。透き通った肌と熱情を湛えた瞳、さらさらと風に抱かれて流れる髪。彼女は淡いクリーム色の木漏れ日に包まれていた。きっと私の恋はこんな色で、きっと私の恋は。