第三話
前書きに書くことが無い……。
草木も眠る丑三つ時。いくら夏と言えど、こんな時間では流石に暗くもなる。住宅街には文字通り家が集まっているが、窓から明かりが漏れている家はどこにもない。その中の一軒に小さな庭を持つ家があり、その庭には小さな青い屋根の小屋が立っている。その小屋から、一匹の犬が顔を出している。眠ってはいるようだが、気持ちよさそう、とは言えない。この暑さは、犬も堪えるのだろう。
その時、犬の鼻が小さく動く。ぱち、と目が開く。犬の鼻が人間より優れていることは今更言うまでもない。この犬は、何かの臭いを嗅ぎ取ったのだろうか。死体の様に眠っていたのが嘘の様に、ゆっくり起き上がる。口からは、唸り声が漏れる。
ずっとある一点から目を離さない。その視線の先には、小さな茂みがある。突然、茂みの中から何かが現れた。現れたのは、蝙蓮だった。
突然の侵入者に、犬は吠える。ここは自分の縄張りだ。お前が来て良い所ではない。何度も吠える犬に、蝙蓮はゆっくり近づく。脚を曲げ、跳びかかる態勢を整える。吠えてもなお退かない蝙蓮に、犬は思い切りとびかかる。
跳びかかって何をするか。牙をもって敵に噛みつくのだ。不届きな夜の侵入者は、噛みつかれてあわれな悲鳴を上げて逃げ帰るだろう。
犬は、蝙蓮に噛みつくことは出来なかった。跳びかかった犬を、すんでの所で躱す。犬が再び態勢を整える前に、蝙蓮もまた大きく口を開き、犬の背中に思い切り噛みつく。結局、悲鳴を上げたのは犬だった。爪で反撃しようとあがくも、背中に脚が届かない。
蝙蓮の噛む力は強くなっていく。やがて口を離すが、攻撃をやめた訳ではない。前脚の付け根に再び噛みつき、脚の先を掴む。左手でもう片方の脚を掴むことも忘れない。
それから何度か犬の吠える声、獣の様な唸り声が聞こえ、しばらくもみ合いは続いた。
肉が千切られ、毛や頭、足先が血の海の上に散らばっているのが目撃されたのは、朝日が昇ってすぐの事だった。
ある山の中。くちゃ、くちゃ、と何かを噛む音が聞こえる。その音を出しているのは、蝙蓮だった。両手に赤黒い肉を握り、無心で口に運んでいる。肉を噛むごとに、赤黒い血が噴き出る。口の周りも血で汚れている。よく見ると、肉には黄土色の毛がびっしり生えている。どう見ても、今食べているものは肉屋で買ってきたそれではない。
足元に、小さな肉の塊が落ちている。もちろんそれも赤黒く、毛が生えている。どういう訳か蝙蓮はその肉には手を伸ばさず、のんびり指の血を美味しそうに舐めている。
指を舐め終えると、蝙蓮は首を動かして辺りを見回す。しばらく首を動かしていると、何かを見つけたらしく口元が吊り上がる。肉を大事そうに持ち、ゆっくり立ち上がる。蝙蓮の視線の先にあったのは、大きな緑色の葉だった。
蝙蓮が『肉』を食べたその日、やはり花鳥町では犬が無残な姿で死んでいる事がニュースになっていた。紅音の周辺でも当然話題になる。
「やっと平和になったと思ったのに、また物騒な事件かぁ。怖いねぇ」
紅音の母親が、ドラ猫のような顔でため息混じりに呟く。
「蝙蓮、大丈夫かなぁ……」
紅音の呟く声は、ドラ猫には聞こえなかったようだ。
例の近道を通り、紅音は家に帰る。近道に対する恐怖心は、最早なかった。蝙蓮が元気になったら、またここで会えないだろうか、なんて考える余裕すらあった。
そんな事を考えている紅音の前に、何かが躍り出る。それは、蝙蓮だった。ただし、その蝙蓮は傷だらけり、おまけに素っ裸だった。
何かにひっかかれたような傷が、腕や足にある。その傷からは、血が出ていた。よく見ると、左腕には、何かに噛まれた跡がある。出会った時より、幾らか肌が綺麗になっているような気がする。
ただ、何故裸なのだろうか。紅音より背が低いくせに、やけに膨らんだ胸を思わず直視してしまう。
「あー」
そんな紅音の心など分からぬのか、蝙蓮は何かを紅音に差し出す。
「私に?」
紅音は素直に受け取る。紅音の手に、冷たく柔らかい感触が。見ると赤黒い物体であり、それは大きな緑の葉の上に乗っていた。
「な、何、これ?」
「うぅ?」
紅音が戸惑っている理由が、蝙蓮には分からないようだ。贈り物から、血の匂いが。それでようやく、紅音はそれが何かの肉であることを知った。これは、肉屋で売られているような奴ではない。何かを殺して、その死体から剥ぎ取ったものだ。
「ひぃっ!」
それが分かった紅音は、思わずそれを落としてしまう。こんなものを自分によこすなんて、どういうつもりだ。
「あぁ……、うぅ」
蝙蓮は、落ちた肉を残念そうに眺める。そして、視線を紅音に向ける。肉と紅音、交互に蝙蓮は視線を動かす。うぅ、と頭を落として呻き声を漏らす。怒りも湧いたが、その悲しそうな顔を見ると、怒る気にならなくなってくる。
その時、蝙蓮は肉に手を伸ばした。その肉に思い切り噛みつく。そして、一部だけを噛みちぎった。
「んま、んま」
肉の一部を美味しそうに咀嚼する。くちゃ、にちゃ、と食欲が失せる音がする。自分より少し年下か、或いは同い年かの少女が、嬉しそうに赤黒い生肉にかぶりついている。紅音はその異様な光景に驚き、動くことも声を上げる事も出来なかった。
いきなり、紅音の顔の前に肉が現れた。蝙蓮が紅音に肉を差し出したのだ。
「んま」
食べろ、という事だろうか。肉を食べて見せたのは、自分にこれは食べるものだと教えるためだったのか。だとすると、蝙蓮はいつもこんなものを食べているのだろうか。
「そ、そんなもの、た、食べられないよ……」
恐る恐る口を開く。蝙蓮は首を傾げるだけだ。紅音の言葉の意味が、果たして分かったのだろうか。益々この少女の事が分からなくなってくる。この娘は、普通の人間が食べるものを食べてこなかったのだろうか。裸でいる事に何も感じていないようだ。それに、どうやら自分の言葉も理解できていないみたいだ。
動かない紅音に業を煮やしたのか、蝙蓮は思い切りその肉を自分の口に突っ込んだ。
「あっ……」
流石に申し訳ない気持ちになった。確かにこの思いがけない贈り物には驚いた。が、別に蝙蓮は嫌がらせのつもりで自分にこの肉を与えた訳ではないのかもしれない。食べることは出来なくても、もう少し断り方というものがあったかもしれない。
「そ、そのぅ、ごめんね……。別に……」
紅音が謝ろうと口を開いた次の瞬間、その口が柔らかいもので塞がれた。ヌルヌルした何かが口の中に入ってくる。蝙蓮の口が、紅音の口を塞いだのだ。口移しで、紅音に肉を食べさせようとしている。
蝙蓮が口を離すと、満足げに微笑む。一方紅音は、それどころではない。血の嫌な臭い、生肉への嫌悪感、毛が口の中で暴れる不快感により、肉を地面に吐き出してしまった。
「うぅ……」
紅音が肉を吐き出したのを見て、蝙蓮の顔が曇った。
「あ、えっと、これは、その……」
蝙蓮を泣かせてはいけない。慌てて何か言おうとする紅音。が、こういう時に限って良い言葉という奴は口から顔を出してくれない。
「そうだ、蝙蓮。あなた、ケガしてる」
蝙蓮の手を優しく握り、腕のケガを蝙蓮に見せる。
「家に来て。絆創膏くらいなら家にもあるから」
蝙蓮の手を引く。そこで、蝙蓮が裸であることに改めて気付く。さて、どうしよう。
実際生肉ってどんな味なんですかね?