第一話
新作出す暇があるならソウセキ書けよ……。
G県T市は、田舎とも都会とも言い切れない中途半端な市である。しかし、花鳥町はどう贔屓目に見ても田舎町としか言えない。
店らしい店はなく、強いて言うなら自動販売機と無人の野菜売り場が一台ずつある位だ。反面田や畑は町中に見飽きるほど散らばっており、町のどこにいても山が見えない場所がないほどに自然に恵まれた環境である。
特に花鳥町と隣町を分ける葉奈菜川は、この町の住民の中で遊んだことが無い者はいない程に親しまれている。
そんな片田舎であるこの町は、事件らしい事件が一切起こらず、淡々と日常が流れていくだけの良く言えば平和な、悪く言えばつまらない町だった。
秋山紅音は、サイレンの音で目を覚ました。こんな平和な町で、朝早くからやかましくサイレンが聞こえるなんて。
ゆっくり身体を起こし、頭をかく。もう一度眠りにつきたいところだが、そうはいかない。学校がある。携帯電話で時間を確かめると、上手い具合にアラームが鳴る直前だった。
ベッドから下り、部屋を出る。階段を下りながら、欠伸を一つ。
「おはよぉう」
寝起きの間抜け面で挨拶する。キッチンでは年老いたドラ猫の様な中年女がコンロの前に立っていた。
「顔洗っておいで」
顔を洗ってキッチンへ戻り、パンの袋に手を伸ばす。安物の食パンの袋を開け、その中の一枚をレンジに押し込む。ツマミをひねりながら、また大きな欠伸が。
「サイレン鳴ってたね」
「本当よ、最近多いねぇ」
紅音が口を開くと、ドラ猫が返事をする。が、何度か窓から外をチラチラ見ている。
「ちょっと前に山火事が起こったばかりだろう? この町はどうなるのか……」
ドラ猫の口から漏れたように、この花鳥町では少し前に山火事が起こり、死人が出ている。その火事のみならず、最近この町では穏やかではないことが多く起こっている。
「どんどん平和じゃあなくなってる……」
ぽつ、と紅音が呟く。呟きながらも、朝食を口に押し込むことは忘れない。元々紅音はニュースや新聞には目を向けない性分だが、今の紅音の目はテレビのニュースを捉えている。そしてドラ猫も、その夫、つまり紅音の父親も。
田舎町の安全神話の崩壊に、町民は皆何か漠然とした嫌な物を感じている。
「気を付けてね」
ドラ猫の声が、僅かに暗いのはその表れだろうか。
紅音は、暗い夜道を一人歩いていた。その足取りはとても明るいとは言えず、七月だというのにセーラー服から覗く白い足が小さく震えるのは、寒さのせいではないだろう。
ふぅ、と不満もあらわにため息をつく。
「塾に忘れ物なんかしなければ、こんな時間に出歩かないのになぁ」
その時、呻き声の様なものが聞こえた。思わず情けない声が出てしまう。
「な、何?」
やっと出せた声は、震えていた。再び呻き声。人間の出すものには聞こえない。その声が聞こえた方にゆっくり顔を動かす。そこには公園があったはずだ。と言っても、そこはベンチと錆びた滑り台があるだけの空き地である。
そこに、何か黒いものがある。公園の街灯は切れかけているので、暗くてよく見えない。何かがあること以外、分からない。もしかしたら呻き声は何かの聞き間違いで、実は生き物ではないのではないか。ふと、そう考える、いや、願うといった方が正しいか。
ピク、とそれが動く。今は風は吹いていない。またも呻き声。どうやらあの黒いものは生き物で、こちらに気付いているようだ。紅音の背筋を、冷たいものが走る。
この町では、野生の動物を見かけることが稀にある。先日も紅音の通う学校にカモシカが出た、という話を聞いたところだ。あそこにいるのは動物で、まさか熊や猪の様な凶暴な獣なんかではないだろうか。
生憎、紅音はそのような獣に遭った際身を守るためのものは一切持ち合わせていない。
どうしよう。もしそんなのだったら、自分など喰われてしまう、良くて大けがか。嫌な考えばかりが、次々に頭に浮かぶ。足が震える。
その時、紅音のポケットから音楽が鳴った。夜の公園もどきの前にはあまりにも不釣り合いな明るい音楽。その音楽のおかげか、ただ怯えるばかりだった紅音の頭に『逃げる』という言葉が浮かんだ。
情けない悲鳴を上げながら、紅音は足を必死に動かした。といっても震える足では転んだのも一度や二度ではない。が、紅音の頭には傷の痛みを感じる余裕はなかった。
いつの間にか、家の前にいた。そこで紅音は、ようやく膝の痛みに気が付いた。小さい笑いが漏れる。無事あの怖い何かから逃げ切ったという安心感が、自分の醜態を自嘲する余裕を生んだ。
考えてみれば、このあたりに熊が出た、なんて話は聞いたことがない。それにあれは、熊にしてはえらく小さかった。それなのに、変な声を出して。
服の土を払ってから、紅音は家のドアに手を伸ばした。
「ただいまぁ」
紅音がしっかり脱いだ靴を揃える行儀のよい少女であれば、気付いただろう。紅音の靴跡に、赤い液体が付いていることに。
少女が次に目を覚ますと、
「ど、どこ、ここ……?」
紅音は夜の森にいた。虫の声すら聞こえない、壊れた街灯すらなく月明かりで辛うじて空と枝の見分けがつくほどの、まさに闇夜といったところだ。
立ち止まっているわけにもいかないので、紅音は嫌々ながらも歩き始める。その時、突然勢いよく枝が動く音が夜の森に響く。
「キャッ! な、何よ、もう嫌……」
ただでさえ通学路で黒いものに驚かされたというのに、何故また夜の闇に怯えなければならないのか。次は何が起こるのか、恐怖と焦りで口を開く余裕はなかった。
その時、少女の足が止まる。あの黒いものだ。
「な、何なのよ、アンタ! 私が何をしたっていうのよ!」
あの黒いものに人間の言葉が理解できるとは思えないが、それでも叫ばずにはいられなかった。そうだ、自分がなぜこんな目に。自分は聖人君子だと言い張る自信はないが、ここまで怖い目に遭わされるほど人様に酷い行いをした覚えはない。
紅音は最後の勇気を振り絞って叫んだが、つまりそれが紅音の最後の抵抗だった。
黒いものはようやく動いた。むく、と立ち上がる。すると、黒いものの身体から大きな物が飛び出した。それは、大きな翼だった。その形は悪魔の羽を思わせた。
それはふわ、と風船の様に浮かび上がったかと思うと、勢いよく紅音に向かって突っ込んできた。思わず目を閉じ腕で顔をかばう。腕の隙間から一瞬顔が見えたはずだった。しかしこの暗さからよく顔立ちは見えなかったが、眼と思われる部分が赤く光っていたことだけは覚えている。
大きな穴ががぱぁ、と開く。そこに並ぶ鋭いものから、そこが口だと紅音に教える。その口で自分を食べてしまうのだろうか。それは嫌だ。抗おうとしたその時、
「紅音! 起きなさい!」
昨日散々自分を怖がらせてくれたものの口から、自分の名前が呼ばれたところで目が覚める。そこは夜の森などではなく、見知った自分の部屋だった。
「ホラ、シャキッとしなさい」
年老いたどら猫の様な中年女の、あまり美しいとは言えない顔が少女の顔の近くにあった。いきなりの事で思わず大きな声を出し、どら猫に軽く頭をたたかれる。
「なぁんだ、夢か」
ふぅ、と安堵の息が漏れる。
「何でもいいけど、時間」
そう言われて、枕元の携帯電話の電源ボタンを押す。紅音の背筋を、再び冷たい物が走った。
紅音は走っていた。携帯電話で時間を確認すると、それはゆっくり歩くには厳しい時間を指していた。それで朝食を食べずにこうして走っているのだが、元々紅音はあまり足が速い方ではない。走ったところで遅刻を免れるかどうか。
昨日の公園があるこの道は最短の通学路なので、寝坊などしなければこんな道は通りたくなかった。いくら今は明るいとはいえ、昨夜怖い思いをした道だ。快く通れる訳がない。
昨夜の黒いものがふと気になったが、、今はそれどころではない。なるべく公園を見ないように、気をつけながら通り過ぎた。
だから気づかなかった。黒いものは、まだ公園にいた事を。
近道のおかげで、どうにか遅刻は免れた。ただし、あの黒いものの正体が気になりとても授業の内容など頭に入らなかった。
人間とは現金なもので、恐怖をもたらす者と接している時はただ震えて恐怖から逃れたがるものでも、晴れて恐怖から逃げ切ると再び恐怖と接してでも恐怖の正体を知りたいと思う様になる。
喉元過ぎれば、というものだ。
紅音は放課後、例の公園へ向かった。今はまだ明るいのだから、最悪離れてちら、と見るだけでも、と考えていた。確かに七月となると、夕方でもまだ暗いとは言いにくい。
もし何か動物だったら、と考え、申し訳程度の対策として、落ちている握り拳より少し小さめの石を拾う。
公園の近くに着いた紅音は、足を止める。そして物陰に隠れて少しだけ顔を出す。
黒いものは、いる。幸いこちらには気づいていない様だ。
自分の心臓の鼓動が聞こえる。ゆっくり息を吸い、またゆっくり息を吐く。石を握りしめる。その音すら聞こえるほどに、辺りが静かになる。
そっと足を踏み出す。ざり、と小さな音がした。次の足をゆっくり動かす。早くたどり着きたい。しかしゆっくり行かなければあの黒いものに気付かれるかもしれない。早く探ってみたいのに、どうにももどかしい。
亀の歩みで、やっと公園の敷地内に足を踏み入れる。ふと足元を見ると、何か赤い液体が地面に垂れていた。まさか、これは血ではないだろうか。だとすると、あの黒いものに食べられた何かの血だろうか。自分がその獲物にならずに済んだことに安堵の息を吐く。
念のため、そこからもう一度黒いものを見る。見えたのは、黒いボロ布だった。いや、ボロ布に覆われた何かだ。夕べ確かに自分は声を聞いたのだ。おまけに、明らかに膨らんでいる。布だけではないだろう。
中を見てみたい。紅音は再びゆっくり近づき、布に手を伸ばす。布をつかむ寸前で、その手が止まる。もし、この中にいるのが動物で、布をどけた途端に自分に襲いかかってきたらどうしよう。
「うぅ……」
夕べ感じた恐怖を思い出し、冷静さを取り戻したところで、布から音が聞こえた。いや、これは音というより声だ。しかも女の声にも聞こえる。
その時、強い風が吹いた。風に吹かれた布が、紅音の顔を包んだ。
「うわっ!」
布を顔からどかす。そこには、紅音と同じ位の少女が横たわっていた。
少女は文字通り一糸纏わぬ姿で、汚れた肌の何ヶ所かには痛々しい傷がついていた。しかも、その内幾つかの傷からは赤黒い血が流れている。
顔は長い髪で隠され、その癖のある茶髪はまるで手入れされていなかった。
「嘘、ひ、人‥‥‥?」
自分が知る『人間』という動物だとわかると、それまでの恐怖がなくなる。その代わりに、疑問が紅音の頭に生じる。なぜこの少女は、こんな姿なのか。自分が知らない世界が、こんな田舎町にあるのだろうか。
少女の口から、呻き声が聞こえた。それが紅音の思考を現実世界に戻し、目の前の怪我人を助けるために救急車を呼ぶ、という事を思い出させた。
紅音は制服のポケットから携帯電話を取り出し、番号を押す。もしもし、と女の声が聞こえてきたので、状況を説明する。
電話を切ると、大きな音が鳴った。慌てて自分の腹を押さえるが、紅音の腹は少しも震えていなかった。それで自分の腹ではなかった事に安心した。
いくら周りに人がいないとはいえど、秋山紅音は年頃の少女。その様な大きな音を出して平然とはしていられない。
自分ではないなら、と横たわっている少女に目をやる。再び大きな音が。
その時、少女の瞼がわずかに動いた。それからゆっくり目が開く。
「あ、あぁ……」
少女の口から弱々しい声が漏れた。少女の手が、腹を押さえている。その指先を覆う爪はやけに長かったが、人間の爪がここまで鋭く尖るものなのだろうか。
「だ、大丈夫?」
紅音は屈み、少女に手を伸ばす。すると少女は身体を持ち上げ、いきなり紅音の手に噛みついた。
「痛い! ちょっと、何する……!」
人だと分かっても、紅音には逃げることが出来た。救急車など呼ばない事も出来たのだ。が、紅音の頭には少女を見捨てるという選択が浮かばなかった。
秋山紅音という少女は、見ず知らずの少女を見捨てない程度には良心というものがあるのだろう。が、いきなり手を噛まれても笑顔で許せるほどは優しくなかった。思わず紅音はもう片方の腕で少女を叩こうとする。すると、少女は紅音の手から口を開く。
紅音の手を避けようとしたのだろうか。いや、違う。少女はそのまま倒れてしまったのだ。
少女に再び近寄り、少女の肩に手を置く。その肩は、小さく震えていた。今は夏だ。寒くて震えているとは思えない。だとすると、病気か、或いはよほど恐ろしい目に遭ったのか。手を噛まれた痛みがいつの間にかなくなっていた。
また少女の腹から音が。救急車はまだ来ないのか、と公園の外に顔を向ける。その時、紅音はある事を思い出す。
紅音は自分の鞄を開け、中に手を突っ込む。取り出したその手には、パンが握られていた。
「食べれる?」
袋を開け、パンを少女の顔に近付ける。少女の小さな鼻がピク、と動いた。
少女は首を持ち上げ、その首がぺた、と力なく落ちる。
「ちょっと、だ、大丈夫?」
慌てて少女を抱き起す。少女は首を動かす。再び少女の顔にパンを近づけると、小さく口を開けてパンをかじる。
そのまま何度かパンをかじり、口を動かしている。
「ね、ねぇ。あなた、名前は?」
紅音が尋ねると、少女はゆっくり紅音に顔を向ける。パンを咀嚼していた口が止まり、小さく開く。
「な、……ま、え……。なま、え……」
小さな声で呟き、パンをかじる口が止まる。少しの間、少女は下を向いたまま動かなかった。その後、ゆっくり顔を上げる。その眼は、涙で濡れていた。
「……へ、れ、ん……」
蝙蓮と名乗った少女は、再びパンをかじり始める。かじりながら、紅音の胸に顔を擦り付ける。不思議と、紅音の心に嫌悪感は起きなかった。自分と変わらない歳に見えるこの少女、自分には想像もつかない辛い環境で今まで生きてきたのだろうか。
そう考えると、邪険にあしらう気にはなれなかった。
少し経つと、救急車が到着した。救急隊員は担架に少女を乗せて運んで行った。紅音はそれを見送りながら、ゆっくり息を吐いた。
今運ばれていったあの娘、娘大丈夫だといいな。サイレンが聞こえなくなるまで、紅音は救急車が走っていった道を眺めていた。
「さて」
紅音は家に向かって歩き始めた。
一方、ここは花鳥町の公民館。そこの掲示板には市長選挙が近いということで、何枚も候補者の顔の写真が載っているポスターが貼られている。
スーツ姿の男が、その掲示板を眺めていた。眺めている間何もしゃべることはなく、少し経つと男はどこかへ歩いて行った。
男が眺めていたポスターの一枚に、愛想笑いを浮かべたいかにも小悪党、といった顔立ちの中年男の笑顔の写真が載っていた。しかし、その顔には明らかに不自然な髭やシワ、額にはどう考えても生まれつきあるものとは思えない稚拙な落書きが施されている。それらは、細めのマジックペンで落書きされていた。
ホラー風描写って難しい……。しかし自分で書いといてなんだが、絶対名前に無理があると思う。