子どもたちへの手紙
千葉に住む30才の次男が「かーちゃん、何か書き残しておいてくれ。親父は何も残さなかったから何もわからん」と言い残してつむじ風のように去っていった1916年2月の土曜日から半年が経った。
精神病院に入院したことは子ども達には黙っていたのだが、思いがけない展開で娘から次男に連絡が行ったのだ。「なんでもない。自分で準備してきて何もいらないから来なくてもいいよ」と断ったにも拘らず翌朝病棟の受付に立っていた。去年11月から同居人とトラブっていたことはラインで相談してあった。
飛行機に乗って深夜那覇に到着、マンガ喫茶で朝を迎えモノレール駅から歩いてきたという。昼食を病院のセルフサービスの食堂で向き合って食べた。私は昼定食、彼はソーキそばを注文した。2011年3月、ちょうど大震災の前日に彼は沖縄から千葉の介護施設へ就職して以来だ。味が懐かしかったのだろう。
次男;「風呂に沈んだかと思った」
私;「そんな、子どもに迷惑をかけるようなことするもんかよ」
次男;「これからどうするの?」私;「もうルームシェアはできない。将来はケアハウスに入居するつもりなんだ」
一昨年の12月からの同年代男性との同居を解消し、独居となった私を心配しての言葉だ。それ以上話題もない。RPGオンラインゲームで知り合った彼女とは入籍したといい、左手の薬指に鈍く光る指輪を見せた。ジブリ美術館で待ち合わせて会ってみたら女の子だった、というから縁はどこに転がっているか知れたものではない。
私;「奥さんの仕事は?」
彼;「和菓子屋であんこをこねてる。俺の給料で生活するだけはあるけど。」「これは五百円で買ったんだ」と履いているズボンの膝を叩いた。上手にやり繰りしているようだ。
ショッピングモールでラジオと百均の老眼鏡を買ってきてもらった。
約束だ。何か書こう。その一歩が踏み出せないでいる。書こうと思うだけで涙がポロポロと溢れる。白いキーボードがぼやけている。何から書いていていいかわからない。あまりにも書くことが多すぎて整理ができないままで始めるとしよう。母親ができなかったこと、私があれほど嫌っていた母親がしようとしていた「書くこと」を私が引き継ぐのかと思うとそれだけで胸が痛む。生涯に12回の妊娠、そのなかで生き残った子は4人。長弟は鬱病と斜傾を悲観しウィスキーと睡眠薬をあおり自殺した。母が誰とやらの文学講演会に出かけた留守中にである。次弟はともかく私と妹は精神科通院中、もうひとりの妹は重篤な統合失調症で長らく入 院生活を送っているというよろしくない結果の原因は母の生涯にわたる文学への不毛な情熱にあったことは疑ってやまない。
母は九紫の人で1919年生まれ、一昨年に95才で亡くなった。長寿と言えるが85才からの10年間は自力でトイレと入浴と食事はできたものの、近所の日大病院への車椅子での受診以外ほぼ室内で過ごしていた。12回というの妊娠回数は大正時代の女性としてはどうだったのだろう。私の弟に10の意味を含ませた重郎とつけたことから察するに恥とは思っていなかったようだ。母が43才で妊娠した妹には晴美。晴れて生まれたという意味でつけた。妊娠も出産もけっこう、しかしお相手は一回り年下の旧制中学すら卒業していない朝鮮人男性と?28才で出会ったとき、彼は17才。大阪のヤクザの三下でポン中だったというから救いようもないバカップルだ。「どこがよか ったのよ?」「パナマ帽に白い麻の上下を着ていて」~とどこま でもオマヌケな。「で、どうした?」「さつま芋を貰った。お腹が空いていたので美味しかったの」ん、、あるある話。母は和歌山から大阪日日新聞社まで通勤していて、中年上司にセクハラされていたことも辛かったという。終戦後で年頃の男が払底してたに違いない。ヤリタイ盛りの男女が文字通り山の中で野合、腕に抱かれてハイこれで俺たちは結婚したんだよ、とのたまったそう。えー?そうなんですか?それだけじゃないっしょ、結婚たら。先が思いやられる案の定、できちゃった私を畑仕事と親戚に頼って辛うじて生きていた祖母に丸投げして自分は大阪の父の実家に押しかけた。山奥の鄙びた温泉ではもらい乳もできず米のとぎ汁を飲ませたのだそうだ。おかげで体格は貧弱で早生まれで体育はずっと1。団体行動も競争も嫌いで小学校1年でドッジボールに憤慨した。人に球をぶつけて楽しいの?




