2 小さな共感者
「あ、お兄ちゃん。ネコさんだよ」
もう少しで学校に着くというところで、隣を歩く明利が、嬉しそうに前方を指差す。
「ああ、そうだな」
すでに気づいていた冥牙は軽く頷く。
「お兄ちゃん、反応薄くない? 白ネコさんだよ。真っ白だよ」
動物好きの明利は、興奮した様子で言ってくる。
「まあ、真っ白な猫は、あまり見かけないし、珍しいかな」
「だよね。触りたいなあ。逃げるかな?」
「どうだろうな。でも、制服が汚れるといけないし……って、明利?」
どうやらセリフの後半は独り言だったようで、明利は足早に白猫の方に向かって行ってしまっていた。
仕方なく、冥牙も小走りになり妹の跡を追いかける。
少しぽっちゃり気味の白猫を追いかけていった明利は、二つ角を曲がったところにあった狭い空き地にいた。
「明利」
しゃがみ込んだ明利に声を掛けると、彼女は振り返り、口元に人差し指を当て、静かにとジェスチャーしてくる。
促されるまま黙った冥牙は、明利の後ろからそっと空き地内の茂みを見やる。
ニャー。
白猫が仰向けになり、服従のポーズを取っていた。
「ね、すごく可愛いでしょ。首輪してないけど、飼い猫だったのかな?」
「そうかもな。……なんか、お腹とか撫でてほしそうな顔してないか?」
「え、そうかな? 触っちゃうぞ、いいかな?」
明利はゆっくりと白猫に手を伸ばしながら、楽しそうに言う。
「まだ時間もあることだし。その猫もきっと喜ぶよ」
つんつん。
明利は優しく白猫のお腹を触る。
白猫は逃げようとせず、気持ちよさそうに喉を鳴らす。
今度は頭を撫でる。またも気持ちよさそうに白猫は目を細め、ニャーと鳴く。
「わー、すごく可愛い。ねえ、お兄ちゃんも一緒に撫でようよ」
「いや、俺はいいよ。一度に複数の人に触られると、リラックスできないだろうからな」
「そう? じゃあ、私がいっぱい気持ちよくしてあげるね」
その言葉を聞いた瞬間、冥牙はなぜかドキッとしてしまうが……ふいに蚊の鳴くような小さな声が聞こえたため、その声に意識を向ける。
「……ったく、あのデブ猫……」
「確かに、若干太ってるな」
まったくその通りだと思った冥牙は、明利に聞こえないように極小のボリュームで即答する。
「でしょ……って!」
「別に逃げなくてもいいよ。危害を加えるつもりも、世間に公表するつもりもないから」
姿の見えない声の主の動揺した気配を感じ取り、冥牙は落ち着かせようとする。
「……き、気づいてたんですか?」
「まあ、わりと早い段階で」
と、ここで、冥牙はようやく茂みに隠れていた声の主の姿を確認する。
――それは身長十センチにも満たない、小さな人間だった。
「とりあえず、妹に君の姿を見られたくない。もう少しこっちに来てくれないか?」
一切驚くことなく、冥牙はそう告げる。
「…………」
小人は警戒するように冥牙を見上げてくる。
「君もあまり人に見つかりたくはないだろ?」
「……ええ、まあ」
完全には信用していない様子だが、小人はお願いを聞いてくれた。
冥牙と小人はその場から数歩下がり、明利から少し距離を取る。
明利が白猫を撫でるのに夢中になっているのを確認しつつ、冥牙はゆっくりとしゃがみ、声の主を改めて見やる。
(中学生くらいか)
「えっと……お、驚かないんですね。ぼくを見ても」
小人の少年は、先程よりは落ち着いた様子で言う。
「まあ、ついさっき幽霊と会ったばかりだし、小人くらいじゃ、驚かないかな」
「ゆ、幽霊?」
「君のような小人がいるんだ。幽霊くらいで驚くなよ」
「……は、はい」
小人はあまり納得していない様子だった。
しかし詳しく話すのは面倒だと考え、冥牙は話題を変える。
「あ、そうそう。あっちでニヤけてる白猫。君の友人だろ? 妹が迷惑かけたな」
「あ、いえ……あの猫、可愛い女の子に撫でられるの、三度のメシより好きですから。ホント年甲斐もなく、人間の女の子に鼻の下伸ばしてばかりで」
「いや、そうじゃなくて。さっき妹が追いかけたことだよ。君、あの猫の背中に乗ってただろ? 妹は気づいてなかったけど」
「あ、そこから気づいていたんですか。……ぼくらは人間に見つかるわけにはいかないので、彼には逃げるよう言ったんですが、可愛い女の子が自分から寄ってきたのに、逃げるなんて嫌だと言って聞かなくて大変でしたよ」
あの女好きのジジ猫が、と今まで以上に小さな声で毒づいて、小人は言葉を続ける。
小人の声に気づくほど耳の良い冥牙は、彼の悪口は聞こえなかったことにし、黙って続きを聞く。
「それで、人間の可愛い女の子が住んでいる家を三軒ほど探してくる、という条件でようやく折れてくれました。結局、あなたの妹さんに追いつかれたわけなので、猫好きの中年女性の家を紹介しようと思いますが」
あのブタ猫少しはダイエットしろよな、とまたしても冥牙には聞こえていないこと前提の極小ボリュームの罵倒。
(……ストレス、溜まってるのかな?)
「まあ、君たちのことは誰にも言わないから、そう怒るなよ」
「…………」
「ん? どうかしたか?」
ふいに押し黙った小人に、冥牙は訝しげな視線を送る。
「いえ、本当はこんなこと言いたくないんですが、ぼくたちの掟なので、言いますね」
人間にバレないように暮らしているそうなので、規則やルールも当然あるだろう。
気にしなくていい、と冥牙が短く言い、小人は口を開く。
「もしぼくたちのことを口外するようなことがあれば、あなたに不幸が訪れるでしょう。具体的には、この小さい身体を活かして、夜にあなたの家に侵入し、財布からお金を抜き取ったり、家の小物などを壊して回ります」
「……それは結構嫌だな」
「ですよね。ですから、口外しないでくださいよ」
「ああ、分かった」
冥牙の返事を聞き、小人はホッと安堵する。
「そうそう、俺からも一ついいか?」
「え……あ、はい」
「俺の妹のことなんだけど、あいつはありえないほど純粋なんだよな。というのも、未だにもしかしたら妖怪とか幽霊、魔法使いとか、あと天使や神様でさえいるかもしれないって思ってるんだよな」
「……なんて言うか、可愛いですね」
「だろ。……あ、じゃなくて、信じてはいるけど、実際に見たことはない……こともないけど、そういった人間からすれば非常識な存在と関わりを持たせたくないんだよな」
「親心ならぬ、兄心ってやつですか。ぼくも妹がいるので、分かります」
今まで警戒心を完全には解いていなかった小人は、ここでようやく微笑を浮かべる。
「お、気が合いそうだな」
「ええ。大切な妹を守るのは、兄の義務であり、権利だと思ってますから」
「君もなかなかだな。なら、俺が次にどんなことを言うか、分かるだろ?」
「ええ、流れ的に察しはつきます。まあ、一応聞きますけど」
その言葉を聞き、冥牙はワザとらしく咳払いをしてから口を開く。
「もし君が、俺の妹が変なことに関わる原因を作った場合は、必ず君に不幸が訪れるだろう。具体的には、女好きのジジ猫、ダイエットしないブタ猫」
あえて先程の小人と同じような言い回しを使い、ついでに彼の独り言が聞こえていたことを仄めかす。
「……き、聞こえてたんですか?」
「可愛い妹のためなら、兄は何でもできるんだよ」
冥牙が軽く肩をすくめると、そうかもしれませんね、と小人も小さく笑う。
「そうだ。名前教えてくれますか? あなたとは本当に気が合いそうだ」
小人は嬉しそうに言う。
「悪いけど、断るよ。このまま赤の他人を貫いた方が、お互いに都合がいいだろ」
「……そ、そうですね。うっかり掟を破ってしまうところでした。正直、煩わしいだけの掟なんで、あまり気にしてないんですが……そういうわけにもいかないですよね」
小人は小さく溜息を吐き、すぐに笑みを取り戻す。
「今日はありがとうございました。もしまた出会うことがあったら、その時はお互いに妹の自慢話でもしませんか?」
「おいおい、一日や二日じゃあ終わらないぞ。それでもいいのか?」
「望むところですよ」
お互いに名前も知らない二人は、最後に小さく笑う。
「じゃあ、もう行くよ。……明利。そろそろ行かないと、遅刻するぞ」
長いこと小声で話していたため、自分の声がやけに大きく聞こえた。
「うん。今行く」
余程楽しかったのか、明利は満足げな表情をしていた。
「ん、袖口に白い毛がついてるぞ」
「あ、ホントだ」
明利はパッパっと軽く手で払って、猫毛を落とす。
その音に紛れて、小人のごく小さな声が冥牙の耳にだけ届く。
「……て、テクニシャン……?」
妹の撫でテクニックの凄さを知っている冥牙には、振り返らずとも、恍惚の表情を浮かべた白猫の姿が容易に想像できた。
(……ご愁傷様)