勘違い
「おいおい、ここでいいのかよ」
マコトが屋上に上ろうか、上るまいかを逡巡していたころ、もう一人の青年も悩みに頭を抱えていた。
「こんなぼろっちいところが本部? ありえねえ……」
がっしりとした体格の青年だった。身長も高く、布にゆとりのある茶色のコートをまとっていることもあっていっそうに体つきが大きく見える。しかし彼のどこか幼い顔立ちと、茶色の髪がむさくるしいといったイメージを生み出させない。
「クロスさんの推薦だっていうからもっとこう、すごいところかと思ったら……」
彼は何やら打ちひしがれている様子だった。
彼の眼の前には小さな建物があった。周りに高層ビルが立ち並ぶこの通りにあって、三階建てであるこの建物は異様であった。
さらにその異様さに拍車をかけるように、壁面がぼろぼろであった。古いコンクリートの壁面だ。無機質な灰色の上に申し訳程度に白い塗装が施されている。それも所々剥げてしまっていて、逆に汚らしい。
「ドアもぼろっちいし……これ開くのか?」
青年は愚痴をこぼしながらドアノブに手を伸ばす。軽く右にひねる。
ぎぃ。鈍い音を上げて扉は少年を拒絶する。
「……やっぱり開かねえし」
ドアノブは回りきらず、小さな金属音を上げた。青年は舌打ちをする。
「遅刻しちまってる身だし、中の人を呼んであけてもらうっていうわけにもいかねえよな……」
彼は今日付けで部署変更となった警察官だった。とある田舎で警察官をやっていた彼は、上司から都内への勤務をすすめられたのだった。
勤務の条件は格別で、
「あの有名な「白の英雄」クロスさんの設立した部署だ。優秀な仲間と最高の環境で一緒に仕事ができるはずだぞ」
と告げられていた。
彼は田舎の出身だったが年に数度、都市部に顔を出していた。その時から都市の活気に魅了され、長らく都市で暮らしたいと思っていたのだ。クロスという英雄の名前、くわえてそんな下心もあり、彼は考えることなく喜んでその提案に乗った。しかし来てみたところは決して最良の環境とは思えないような廃ビルで……。少年の中で何かが音を立てて外れた。
「仕方がねえ……ぶち抜くか」
彼は不穏な一言をつぶやいて、大きく左足を上げる。それはいわゆるやくざキックの姿勢で――
とある建物の一室。決してきれいとは言えない環境だった。薄そうな壁、部屋のところどころには埃がたまってしまっている。天井には不気味な黒いしみまでついている。
しかし貧相な一室であるにもかかわらず、調度品のいくつかは高級なブランド品であった。その一つ、天井からぶら下がったアンティークの電灯は国内でも知られている名匠のサインが刻まれていた。豪奢なつくりで、いまにも貧相な天井ごと落ちてきてしまいそうだ。
開けた一室で、リビングとキッチン、玄関を隔てる壁はない。二回につながる階段も玄関の向かいにあり、リビングから部屋のすべてが見渡せる。
「初日から全員が遅刻とは……先が思いやられるわね」
そのリビングで少女が一人、質素な椅子に座ってお茶を飲んでいた。目の前にはイスと同じくみすぼらしいテーブル。しかしティーカップは周りの装飾品と不相応にもブランド品だった。この家の主は調度品に強いこだわりがあるようだった。
「集合時刻から5分経過……はあ」
物憂げなため息を漏らすのは金髪の少女。
長く艶やかな長髪を頭の後ろで一本にまとめていた。来ている黒のスーツは新品の特注品のようで、型が崩れておらず、彼女の体にフィットしている。スカートが少し短くなっているのは、彼女なりのおしゃれなのだろう。黒いソックスを包まれた足をくむ。
「案外クロスさんもルーズな人なのかしら……。緊張してきて損したわ……」
彼女は何やら落ち着かない様子だった。先ほどからお茶を飲んでは、髪の結び目を気にしている。そしてため息をつく。それを数回繰り返したころ、お茶が空になってしまった。
「……私も私で勝手にお茶入れちゃってるし。どれだけ緊張していたのよ。気が抜けたからって何してるのよ、私。ああ、馬鹿馬鹿らしくなってきちゃったわ」
そういって頭を抱える。彼女はこの建物に40分ほど前に到着していた。
彼女は今日付けで「クロス・ミカエル」という男が指揮を執る警察の部署への転勤を命じられていた。4人でなるチームの顔合わせとのことで彼女はこの建物へと招集されたはずだったのだが……。
「ほかのメンバーが遅れているのはまあいいとして……いや、よくないのよ? よくはないんだけど当のクロスさんがいないってどういうことなのよ? しかもこの建物趣味悪いし……ああ、もう。なんかむかついてきた!」
彼女はそういって思い切り立ち上がる。彼女はいま固いスーツを着ているが、まだ18の少女だ。ついこないだまでは学生服にそでを通していたのである。
「なんで18の私を部署にまねいたの? もっと他に優秀な人もいそうなのに。ってその前にクロスよ? クロス。あのクロスよ?」
あれこれと忙しい少女である。しかし彼女の様子も無理はない。
「クロス」
その名前は彼等の中ではひときわ大きな意味を持つ。
クロスとはかつて数多の戦場で人外的な活躍を見せた天才魔術師のことだ。「白い英雄」の異名を持つ男。
数多の戦線を一人で切り盛りしたといわれる人外魔境の存在。このような活躍を残しながら、意外にも彼は軍人ではなかった。
彼は一般的な警察官だった。そんな彼が「英雄」になったのは10年前。
世界を巻き込んで燃え上がった「第一次世界大戦」がそのきっかけであった。
当時、彼らが所属する国はひどい劣勢状態にあった。隣国の2大国に挟撃されるような形で侵攻され、瞬く間に領地を失った。
その後、わずか5日で首都の眼と鼻の先まで敵国軍は迫った。敗戦が濃厚、いや確実な状況だった。
しかし、彼が戦場に現れただけですべては一変した。彼は戦場をたった一回の魔術行使で蹂躙した。神の御業とまで呼ばれたその圧倒的な力を見た兵士たちの士気は異常なほどに回復し、敵国から領地を取り返した。わずか3日後、その戦争は終結することとなる。
戦争の結果は「引き分け」だった。国は領土を幾分か失ったものの、その程度は小さく、大きな痛手とはならなかった。
「あーあ。どっきりとかそういう……」
ものじゃないかしら。そういおうとした彼女はそこで一つの違和感に気が付く。それは「警察官」たる彼女だからこそ気が付けたことだった。
「屋上と玄関に人の気配がある」
そういったが早く、彼女は椅子の下に置いてあった自らのカバンを取り出した。足にその取っ手をひっかけて真上にはね上げる。小さな革のカバンだ。新社会人の緊張がうかがえる簡潔な作りだ。その中から小さな筒を取り出す。そして短くつぶやく。
「展開」
彼女の呪言に「杖」が答える。その筒は突如としてその体積を膨張させる。現れたのは一本の「棍」であった。紅い漆で塗られたように一片のくもりすら感じさせない艶やかな棍だ。バッグをゆっくりと地面に置き、彼女は棍を構えてリビングから場所を移す。
―玄関前に一人。魔術行使の兆しはない。
彼女は玄関の前に立ち位置を移した。ここからならばリビング、そして階段のすべてを見ることができる。挟撃されてしまうリスクも存在したが、彼女のあつかう棍という武器は、そもそも一対多数を想定したものである。刀や、その手の刃物と違うのは、この武器の攻撃範囲が弧ではなく、円を描くということだ。それを考慮したうえでの立ち位置だった。
背中に回した棍はいつでも戦闘状態へと移行できるように待機させてある。彼女の眼も鋭くとがり、先ほどまでの緊張や同様の類は見て取れない。冷静な魔術師の姿がそこにはあった。彼女は自らの置かれている状況について一度整理する。
―屋上に一人。どうやって来たのかしら……屋根伝い?
屋上へ上がるためには必ず玄関から入らないといけない。彼女の目の前にある階段を上らなければ屋上へはたどり着けないのだ。必然、屋上の気配は屋上に直接降り立ったことになる。そう考えると相手は常人ではないだろう。彼女は屋上の気配を魔術師のものであると判断する。
―いまだに玄関の具現子に変化はない。タイミングを合わせているの?
具現子
それは「魔術」と呼ばれている力を伝える伝導体だ。魔術はこれを介してでしか発現しない。地球上あらゆるところに具現子は存在し、それに「魔術」の情報を入力することが「魔術」の行使に当たる。すなわち具現子の動きに注視すれば、魔術の発現をある程度予期できるのだ。魔術、その超常現象の規模が大きいほどに具現子の動きは大きくなる。
まさか、クロノ旅団ってわけじゃ……
彼女が襲撃者の正体について、思考を巡らせようとして、つかの間だった。
―屋上から足音!?
屋上の人が動いた。彼女は体力を入れる。同時に状況の更新を図る。
集中した精神の中で緩慢に流れ出す時間。その中で彼女は対応を画策する。
どうにかして屋上のカギを開けたであろう人間は、三階にあたる屋上から階段を使っておりてくる。その足音はとても小さく、魔術師として戦闘訓練を積んだ魔術師である彼女でなくては、察知できないようなものだった。
この気配の殺し方、暗殺者だろうか。
少なくとも。間違いなく。 ―只者ではない。
二人相手でも十分に相手できる。自らの見積もりの甘さに彼女は舌うちをした。
「くっ」
自らのうわついた判断の甘さに落胆しながらも彼女はリビングへと一歩引こうとする。
しかし、彼女に追い打ちをかけるがごとく、玄関から轟音がとどろいた。
鉄製の扉がリビングに向けて吹っ飛んだのだ。まるで屋上からの侵攻にタイミングを合わせたかのようだった。金属の分厚い扉は、その運動量を保持したまま、壁にめり込んだ。そこに調度品はなく、積もりに積もっていた埃が舞いあがった。薄い木製の床が重みに耐えきれず、大きな悲鳴を上げる。天井からもぱらぱらと木屑が落ちてくる。
何事?
扉があったところからは、一本の振りぬいた足だけがちらりとのぞいていた。茶色のズボンに包まれた、太い男の足だ。やくざキックのように振りぬいた姿勢のまま、しばらく固まっていた。
「は、はぁ!?」
少女は間抜けな声を上げた。しかしその困惑の理由を整理する猶予は、彼女にはない。男が足を下ろす。一歩踏み込んでくる。その足取りは威風をまとっていて、圧倒的な力の片鱗をのぞかせている気がした。なにより、空間の具現子に動きがなかったのが少女には気がかりだった。具現子が動いていない。つまり、この男は「魔術なし」の蹴りのみで、鉄製の扉を蹴りぬいたことになる。
さらに上の階の人間の存在。玄関に気を取られている間に、2階に到達しているころだろう。足音は玄関の男の乱入で拾えなくなってしまったが、いまだに気配を感じる。二階の踊り場にさしかかったはずだ。わずかな気配を探って、少女は判断する。
―今、少女は肉眼でとらえた。
「それ」は高速で階段を駆け下りる。明確な輪郭はその速さゆえにとらえきれない。かろうじて、少年のような風貌をうかがえたが、常人には黒い怪しい筋が二階から降りてくるようにしか見えなかっただろう。
玄関の男の緩慢な動きのおかげで挟撃は避けることができた。しかし油断はできない。少女は二人の異様さに気が付いていた。棍の身体の前に回している端をおろし、片手を二人のほうへ突き出し牽制するかのような構えをする。これが棍使いの基本の戦闘姿勢だった。
そして呪言を紡ぐ。
「伸縮自在」
答えるは彼女の獲物である棍。その両端に白い光がともる。これこそが魔術の発現。具現子の輝きであった。
構え終えた彼女の前に、二人の男が現れる。玄関からは茶色のコート纏った屈強な青年が。
一方、屋上に通ずる階段からは黒髪の幼顔の青年が。
クロノ旅団? アヤカシヤファミリー? 帝国軍秘密機関?
彼女の知りえる現在敵対関係にある国、武力組織を洗う。あなたたちは……何者?
―彼女が最初に発しようとした言葉は、二人によって遮られた。
なぜか。理由は二人の暴力ではない。魔術でもない。ただ、一言が彼女の思考を吹っ飛ばし、硬直させた。それほどに効果的な言葉だった。彼らは同時に口を開いたのだ
「遅刻しました」
とだけ。