迷宮にて
この作品のキーワードは「狂気」である。
私は回廊を歩きながら考えていた。
人間に与えられる最高の苦しみが「死」であるならば、何故に人間は「死」に対する不安を意識下に持ちつつ、「生」き続けようとするのであろうか? 人間は必ず「死」ぬということを理解した時に「死」を迎えるようになれば、数十年にも及ぶ「死」の不安を解消できる筈だ。
理解と同時の「死」は、私にとって魅力的な考えであった。
しかし…。私はふと足を止めた。
回廊の壁に、ホアン・ヘノヴェスの「照準器」と題される絵が掛けられてあった。
私はたちまちのうちにその絵に感情移入した。
「照準器」からの視点は私の視点となった。
男が万歳しながら走っている。小さな後姿を構図としているため、その表情はわからない。私が引き金を引けば男に「死」が訪れる。正確に自分が狙われていることを知りつつ、男は何故に逃げるのか。それは「死」の理解と同時に起きる「生」への執着からなのだろう。と、すると、「死」の理解と同時の「死」は、それに対する不安と恐怖の最高点と、実際の「死」という最高の苦しみをもたらす不幸を生む。
「死」は理解と同時であってはならないのだ!
私は視線を移す。「照準器」のなかに手をつないで逃げる男女の姿が入った。彼らのうちどちらかが「死」ぬとわかれば、彼らは走り続けるだろうか? 私はしばらく考えて自嘲的に笑った。他者実現の「愛」にしろ、自己否定の「愛」にしろ、そのどちらでもないにせよ、議論は無意味だ。二人はいずれ「死」ぬのだから。
私は再び視線を移した。そこには「照準器」のなかに入った群衆がいた。
「バン!」
「死」についての考えに執り付かれた私はそうつぶやいて視線を移した。「照準器」の中には、夥しい死体が路上に横たわっていた。
「どちらにしろ、我々は『死』ぬのだ」
そう、それは必然であり確実なことなのだ。
私は絵の前から離れた。妙に身体がだるかった。足は重い。私はここが何処なのか立ち止まって考えてみた。意識してみると、周囲の壁には数十枚の絵が掛けられていて、その回廊は遥か彼方まで続いていた。私は振り向いた。そこにもやはり前方の風景と似た、無限の回廊があった。私は何時からここにいるのだろう? 何故に? この場所を意識してから、私の頭の中にいくつもの疑問が浮かんだ。しかしそれは答えられない疑問であった。記憶が欠如していた。
身体は更にだるくなり、足は倍に重くなった。私は一歩一歩確かめるように歩いた。右側の壁にはハンス・ホルバインの「死の舞踏」が掛けられていた。40枚にも及ぶ木版画。滑稽な骸骨の仕草。この絵にとって「死」とは何だろう? 私は一齣漫画的なホルバインの木版画を観ながら、再び「死」についての考えに執り付かれた。ホルバインの作品は私にとっては歴然の事実である「死」からの逃避であり、「死」そのものを表現した芸術ではないと思った。「死」とは最高の限界状況なのだから、それにともなうニヒリスティックな笑いというものも存在すべきではない筈だ。わたしは40枚にも及ぶホルバインの「死の舞踏」を4枚観ただけで、左側の壁に目を移した。
そこにはドミニック・アングルの絵が掛けられてあった。「リヴィエール夫人」の絵。右手か奇妙に長く、師のルイ・ダヴィットをして奇妙な作品と非難させた。後に「奇妙な」という単語は、ヴィクトル・ユーゴーが好んで用いたことにより、ロマン主義の一特質になるのであるが。
私はその横の絵に目をやった。
そこにもアングルの絵があった。奇怪なことに右肩がそのまま背後の椅子の楕円形におさまっている「ドゥボーセイ夫人」の絵。
私は重い足を引き摺るように歩いた。リヴィエール夫人とドゥボーセイ夫人が、「死の舞踏」が、私の横を流れて行った。
再び私は左側の壁に掛けられた絵を観た。
その絵もアングルのものだった。
「スノンヌ子爵夫人」……鏡に映されている夫人が幻想的であった。
私は歩き、立ち止まって左側の絵を鑑賞し、また歩き、立ち止まって左側の絵を鑑賞した。鑑賞した二枚の絵もアングルの作品だった。
「ドオソンヴィル伯爵夫人」、「モワテシュ夫人」…この二枚の夫人像では、実際に描かれている夫人が極端に肉感的なアンバランスな姿態となっている。そして鏡に映ったその姿は、「ドオソンヴィル伯爵夫人」では色彩が異常に鮮やかになり、現実性を帯びており、「モワテシュ夫人」では実際に描かれている夫人より鏡に映された虚像の方が生気を感じさせる。
私は「モワテシュ夫人」の絵の前に立ち、それを鑑賞しながらプラトンのイデア論について考えた。アングルによって描かれた一連の夫人像は、全体的に奇妙なアンバランスな姿態に描かれている。そこにアングルの意図が存在する。彼の意図とは、将に実在するモデルをそのように描くことにより、現存在性を表現したことにある。そして、鏡に映った像を生気あるものとして描くことで、そこに抽象的、普遍的な「美」を求めた。それがプラトンのイデア的な「美」の見方に通底しており、そこに存在する「美」は「死」をも超越した絶対性を備えているように感じたのである。
「モワテイュ夫人」自身は「死」に、鏡の中の像は「生」を謳歌している。私はアングルの絵に「死」そのものの片鱗を観た。「生」きていることは「死」んでいること。私は化石のように重くなった足を動かし、その絵の前から離れた。感覚が麻痺すると同時に、意識も硬化してくるようだった。
しかし……私は思った。
アングルは同時に他の作品においてそのアンバランスな姿態に「美」を模索した。
「浴女の半身像」の横を私は通りすぎた。
現存在性の内部に「美」を求めた。
今度は「ヴァルパソンの浴女」の横を通りすぎる。
それは私にとって、アングルの裏切り行為に思えた。
現実に存在するものに、絶対的な「美」が存在するだろうか。
私は心の中で何度も存在しないと叫んだ。
「グランド・オダリスク」の絵を横にした時、私は「死」と「生」の妥協とも呼べるアングルの絵に強い嫌悪を感じ、右側の壁に目を移した。
まだホルバインの「死の舞踏」の方が観ていられる気がした。
が、予想に反してそこにはホルバインの絵はなかった。だが、やはりそこに掛けられている絵は「死」と「生」との妥協という点で、アングルと何ら変わりはなかった。ただアングルと違うのは、直接的に「死」と「生」の馴れ合いを描いているところであった。
バルドゥング・グリーンの「死と少女」がそこに掛けられていた。
「死」は既に絶望そのものではなく、救済者となっている。
救済者としての「死」!
果たしてそれが「死」と呼べるものなのか、やり場のない怒りが込み上げてきた。私はグリーンの絵から目を離し、場所を移動した。
主題を同じくしたムンクの「死と少女」が目に入った。
骸骨と少女が抱擁しあっている。肉感的な少女は骸骨の肩に両腕を回し、積極的に接吻している。骸骨は少女の腰に手をやり、少女の身体を辛うじて支えている。
これ以上絵を観ていると、私は怒りのあまり自らが暴れだし、「死と少女」の絵をバラバラにしてしまうのではないかと恐れた。とは言え、背後のアングルの絵を観るのは更に危険なように思われたので、私は目のやり場をなくし、堅く瞳を閉じた。同時に麻痺した身体がふらついた。私はその場に倒れそうになった。
「大丈夫ですか?」
その時、私の身体を抱える者がいた。
声は女性のものだった。
甘い香りが私の嗅覚を刺激した。
私は態勢を立て直し、目をゆっくりと開いた。
彼女はムンクの「死と少女」の骸骨のように私を辛うじて支えていた。
私は彼女を後方に押しやった。
焦点は彼女に合っていて、背景のアングル、グリーン、ムンクの絵はぼやけていたので、短い時間ながらも私は気を落ち着けるのに成功した。
「大丈夫です」
私は言った。そして改めて彼女を見た。しかしおかしなことに、彼女の顔はぼやけてよく見えなかった。私の目がどうかしたというわけではなかった。彼女の顔のみがぼやけていたのである。
私は首を傾げた。
「どうしたんですか?」
彼女の質問に私は戸惑った。あなたの顔が見えないと、面と向かって言い兼ねた。考えてみると滑稽な言葉である。だから私は逆に質問した。
「ここは何処なのでしょう?」
そう言ってしまって、言葉の滑稽さに何ら変わらないことに私は気付いた。
「あなたは何者なのです」
しかし私は言葉を続けざるを得なかった。
「ここはあなたが考えた通りの所です」
彼女は呟くように言った。彼女の言葉がキーワードとなって、頭の中にいくつもの単語が浮かんだ。
ディックの「帝国」「黒き鉄の牢獄」「死の迷宮」
グノーシス主義者の「宇宙」そして「地球」
プラトンの「洞窟」
夢野久作の「精神病院」
まさか。
私は頭を振った。そうして彼女がいる回廊の、私が歩いて来た方向を見て、振り向いて私が進むであろう方向を見た。
ここは「迷宮」なのか……。
私は再び頭を振り、彼女に視線を移した。だが、その時彼女の姿はそこになかった。
何処へ行ったのか?
忽然と姿を消した彼女を探して、私は周囲を見渡した。けれどもその姿は何処にもなかった。疲労のために幻覚を見たのだろうか? 理性はそうだと言い、感情は違うと主張した。彼女の存在を認めれば、ここが「迷宮」であることを必然的に認めなければならなくなるような気がした。またここを美術館として、彼女が受付嬢としても、彼女が消えた不可解さに何ら変わることはない。それ故に私の理性は彼女が幻覚であると主張したのだった。が、その一方で、彼女は実在する者であり、ここは「迷宮」なのだと感情は主張していた。感情が理性をチクチクと刺激したが、ここが「迷宮」であろうと美術館であろうと、私は気にしないことにした。私は感情を押し殺した。
重い身体は軽くなり、気分も落ち着いていた。私はムンクの「死と少女」の横の絵の前に立った。それはレオノール・フィニの「無条件の愛」と題される絵であった。女が骸骨にもたれかかりまどろんでいる。骸骨は女の乳房をもてあそんでいる。そこに描かれているのは「死」と「生」の馴れ合いであり、前のグリーンやムンクと同系列の作品であると言えた。私はフィニの絵の前から離れて横の絵に移動した。そこには、ハンス・ベルメールの「死と少女」があった。巨大な骸骨が裸体の少女の腰を抱え上げ、大腿部に噛り付いている。少女の表情は後ろ姿を構図としているため伺うことができない。このことは、単にこの絵の主題が「死」と「生」の馴れ合いだけではなく、「死」そのものの克服を意図しているように私には思われた。
私は何故これらの絵が、「生」を想起して「死」を考えているのか、冷静に頭を働かせてみた。そうしてみると、先程は怒りのために頭に浮かばなかったことが、漠然とわかってきた。「死」とは自覚的に体験できないものである。だから「死」を考えると、「生」に対立して観念的に考えてしまう。つまり「死」は「生」と並ぶ連続体として理解されるのである。「生」は作用、「死」は反作用という具合に。しかしこれは「死」そのものの説明ではないと私は思った。この考えはエロスとタナトスという人間の本能論的な見方であり、「死」の本質そのものを描いたものではないのだ。「死」との馴れ合いにしろ、「死」の克服にしろ、私は強く否定した。
「死」とは無だ!
横の絵を観てみた。そこにはやはり「死」と「生」を相互に描いているグリーンの「死の舞踏」があった。私はもうこの手の主題の作品を鑑賞する気になれず、ちらっと背後の絵を観た。
アングルの絵はもうそこにはなく、ホアン・ヘノヴェスの「飛行機」と題される絵があった。それを観ると同時に、私の身体は鉛のように重くなり、意識が硬化する感覚に陥った。ヘノヴェスの絵は確か以前「照準器」と題されるものを観た覚えがあった。そう気付き、私はヘノヴェスの視点こそが「死」そのものに適合していると思った。彼は言わば加害者の立場で「死」を表現していた。その「死」は克服される可能性などないのである。「飛行機」では巨大な飛行機の影と平地を走る無数の人々が描かれている。好むと好まざるとかかわらず、飛行機が落ちれば当然何人もの人間は「死」ぬ。「死」は突然に訪れ、しかも無作為でもあるのだ。私は重くなった足でヘノヴェスの絵の前へと移動した。それを正面から観た時、その絵と「照準器」とが二重にだぶって見えた。
「これこそ『死』だ」
満足気に私は呟いた。
しばらく恍惚感に浸って「飛行機」を鑑賞した私は、再び化石のごとく重くなった足を引き摺って歩き、その絵の前から離れた。
移動した所にはパール・デルボォの「シレーヌの村」があった。私は動揺した。そこに描かれている女性は、「生」そのものであったからだ。私に満足感と恍惚感を与えた「死」に対立するものであった。デルボォは「生」を肉体と精神の交差と位置付けている。それ故に彼の描く女性は「美」しく、「死」をも超越しているのだ。「死」は「生」を超越し、「生」は「死」を超越する。「死」を絶対視する私なりの論理からするとこれは矛盾である。否定すべきことである。だがデルボォの「シレーヌの村」を観ていると、それは否定されるべきでない真理のように思えてきた。私は照準器となって画面に描かれた彼女達―――同じ髪型、同じポーズ、同じ装身具をつけた彼女達の一人一人を視点に入れた。「死」が「生」を貪ろうとしている。が、それに気付いたところで彼女達は微動だにしない。
私は「シレーヌの村」から目を離した。
眩暈がした。右手で頭を押さえつつ、私は小さく頭を振った。「死」と「生」をより極端に説明しようとすれば、どちらか一方が否定される。しかし、「死」にしろ「生」にしろどちらも一個の人間に併存するものなのだ。とすれば、「死」と「生」の妥協、馴れ合い、克服の意識にこそ「死」の真理が隠されているのだろうか?
「それは私が最も嫌う結論だ」
私は再び頭を振った。
「どうして嫌うのですか?」
背後から先程消失した女性の声がした。私は振り返った。彼女は水の入ったコップを持って立っていた。私は彼女から奪うようにそのコップを取った。そして一気に水を飲み干した。それは身体中に染み渡り、私の肉体と精神を活性化させた。私は空になったコップを彼女に返した。
「何故嫌うのですか?」
彼女は返されたコップを両手で胸に押し抱きながら再び尋ねた。それは私の感情の問題であり、確たる客観的な理由があるわけではなかった。私は答えることができなかった。
「それより、あなたは一体何者なのです?」
私は逆に彼女に尋ねた。相変わらずの不鮮明な顔をした彼女であったが、この時フッと笑ったように感じられた。
「私……私はあなたが心の奥底で私の存在を願った時にこの世界で実在する者です。あなた自身がよく知っている筈……いえ、あなたそのものかもしれません」
彼女は私に人指し指を突きつけながら言った。そしてジリジリと私ににじり寄ってきた。私はそれに呼応するように後退した。私は自分が不当に脅されていると思った。彼女は狂人なのだとも思った。
「違う! よく見なさい!」
私の考えを見透かすように彼女は叫んだ。私はその言葉に改めて彼女の顔を見た。彼女の顔は徐々に鮮明となってきた。その途中で私はまさかと思って思わず目を背けた。
「見なさい!」
彼女の命令調の声が響き、私は無意識の内にその言葉に従った。その輪郭が分かるところまで彼女の顔が鮮明になった時、私は恐怖から叫び声を上げた。意思に反して足が恐怖のために凍り付き、その場から逃げることもできなかった。
「消えてくれ!」
私は彼女に向かって喉が張り裂けんばかりに叫んだ。彼女は私の前からあっさりと消失した。私は小刻みに震えていた。ただただ恐ろしかった。彼女の顔はデルボォの描く女性の顔をしていたのだ。それは「生」そのものだった。私は「死」そのものの考えに執り付かれ、私自身「死」になりかけていた。そこに「生」そのものが現れたのだ。私はそれによって否定されることを恐れたのだった。しかし彼女はそうとは言わなかった。彼女は「生」とは「死」そのものだと言っていた。また「死」が「生」を想起した時、「生」は実在のものとなるとも。
彼女の姿があった場所の延長線上の壁に、カール・フリードリッヒの「海辺の僧侶」が掛けられていた。単調と永遠の重なり合いとも言うべきその絵は、現在の私の心情を表現しているかのようだった。絵では、明らかに果てしない海と空にまるで吸い込まれていくような僧侶の自我と、その無限に拮抗してあくまで砂地にとどまろうとする僧侶の自我が描かれている。彼の胸に去来しているのは、「生」の悲劇的感情であろう。そして一方、私は「死」と「生」との問題に翻弄されつつ、尚、存在し続ける。永遠のテーマを前に、苦悩し、やがて「死」んでいく私。
私はフリードリッヒの「海辺の僧侶」から目を離した。「生」の悲劇的感情をもとにした私は、「死」についての自分の考えを変える気にはなれなかった。“妥協は許されないのだ!”と私がそう思うと同時に“何故許されないの?”という彼女の声が聞こえたような気がした。私は目を閉じ、小さく頭を振った。無視することに心を決めた。一度活性化した精神と肉体はもとのとおり重くなり、意識も硬直した。私はこれ以上背後のデルボォの絵を鑑賞する気になれず、フリードリッヒの横の絵に目を向けた。
そこにはフランシスコ・ゴヤの「大狂気」と題される絵があった。この絵では、人間が人間を鋸で引き裂き、傍らの二人は仲むつまじく、また微笑みあいながら、この悲惨な状況を見ている。ゴヤの晩年の作品である。私はその絵を自らの立場であるヘノヴェスの視点で観ていた。「死」の一形態として納得できるものだと私は感じた。私は「大狂気」の前から離れた。もはや足は自由に動かなかった。不自由な身体を無理に動かし、私はその横の、やはりゴヤの「四旬節第三週木曜日」という絵の前に立った。首を切断された男が、自らの手でその首にスープを飲ませ、傍らに立つ男が首のない胴体に如露を取りつけ、スープを注いでいる様子が描かれていた。私はこの絵を観て再び頷いた。が、そうはしたものの、心の片隅では、画面に描かれている「死」に対して許せないものが存在していることに気付いた。それは二枚の絵に描かれている背後世界――――わずかばかりの希望もなく、期待もなく、人間の善意という善意、信頼という信頼は一切裏切られて葬り去られ、塵のように捨てられていく世界に通じるものであった。それが私の感情に触れたのだ。またそれは、「死」とは別個の「狂気」でもあった。
「死」そのものを考えていた私にでも、ゴヤの狂気には嫌悪の念を抱いた。しかし反面、ゴヤの描くそれには魅力的な部分もあり、私は重い足を引き摺るように歩いてその場から立ち去ろうとしながらも、反対の壁の絵は観ず、ゴヤの絵の方ばかりを観ていた。私の横を「戦争の惨禍」の一連の作品、「彼らを埋葬し、沈黙しよう」、「恐ろしき怪獣」、「死者に対して何という偉大な行為」と題される絵が流れた。「彼らを埋葬し…」では、夥しい裸の死体を前にした農民の娘が、悲しみのあまり両手で顔を押さえ、その背後の男が絵の題名通りの言葉を娘にかけていることが伺えた。「恐ろしき怪獣」では、存在しない動物が口からたくさんの裸の死体を吐き出して死んでいる場面が描かれていた。「死者に対して…」では、切り刻まれた裸の死体が木に縛りつけられている場面が描かれてあった。
ゴヤではない画家の絵が目に入り、私は足を止めた。その絵はある精神分裂病患者が描いたものだった。彼は「狂気」から、自分の腕を切り落としてしまえば「正気」に戻れると信じ、自らの腕を切断したのである。その模様は画面のほぼ中央右下の部分に描き出されていた。画面を更に細かく眺めると、画面左側にはダンスをする人々……が、彼らは操り人形のように何者かに操られている。他には「戦争は平和」というプラカード、烏の群れに襲われているトカゲ、医者達の狂的な顔という顔、不気味な手術室。奇妙に区切られた空間に、それら無数の混沌とした物と者とがあった。
その絵は「迷宮」と題されていた。
私は画面の一番上の閉ざされた空間に、一人蹲る少年が描かれているのを観た時、奇妙な感情に捕らわれた。私は「狂気」に支配された空間に、悩めるひとつの魂が存在することに疑問を感じたのだ。脱出できない空間で苦悩している以上、その魂は明らかに「正気」であり、彼は「生」きているのだから。だが、確かに「狂気」に対して「生きた人間」の「正気」を描くことにより、この作品はより迫力があった。しからば、「死」に対する「生」を描くことにより、「死」により迫力を持たせることも可能な筈だ。ゴヤの絵に表現される地獄が、対立するものがなく、救いようのない「死」と「狂気」に支配されているというものの、そこに描かれているのはやはり「生きた人間」の、精神的、肉体的な「死」である。ヘノヴェスもまた同じだ。ゴヤとヘノヴェスの絵が、「狂気」「生」「死」などの考えが、私の頭のなかで渦巻いた。
「少年はあなたよ!」
その時女性の声が回廊に響いた。
その声が引き金になって、閉ざされた私の心の扉に隙間が開いた。
そうだ!
「生」にしろ「死」にしろ、それは「生きた人間」に帰属される要素に違いないのだ。人間は抽象的なもの、そのものにはなれない。私は今までの自分の考えが現実から逃避した抽象的議論にすぎないことを理解した。狂人の描いた少年は私であり、私はかたくなに自分の殻に閉じ篭っていたのだ。私はこの回廊を永遠にさまよい歩いていた自分を思ってみた。「死」そのものになろうとして、「生」と「死」の混同した議論を避け、「死」のみの考えを取り上げつつ回廊を歩き続ける自分。
不気味だった。
私は「死」に染められたこの回廊が恐ろしくなった。
―――助けてくれ―――
救いようのない「死」に捕らわれた自分を感じた。
―――助けてくれ―――
この回廊から脱出したいという願望が意志となって私の身体を行動させた。
―――助けてくれ―――
私は走った。
―――助けてくれ―――
回廊の左右の壁をゴヤの「カプリチョス」の一連の作品が、「デスパラテス」の一連の作品が流れて行った。
助けてくれ!
「死」は何処までも私につきまとっていた。
助けてくれ!
しばらくすると、麻痺した身体と化石のように重くなった足が災いして、私はその場に転んだ。
助けてくれ!
「死」に侵された身体は、満足に立ちあがることができないまでに重く、身動きできなかった。
助けてくれ!
私は床を這い、壁にもたれかかりながらゆっくりと半身を起こした。
……助けて、くれ……
顔を上げるとゴヤの「サチュルヌ」がそこにあった。子供たちを食らうサチュルヌ。その口で子供の足を噛み砕き、表情は喜悦に満ちている。目は左手で捉えているもう一人の子供を見ていて、次ぎの獲物に期待を抱いている。
私は泣いていた。
大粒の涙が頬を流れた。私はまともに立ちあがることができず、壁を伝ってよろよろと歩いた。私の目の前を、同じくゴヤの「我が子を食らうサチュルヌ」が流れた。
涙が止まらなかった。
私はどうしてこんなところにいるのか?
狂的な「死」そのものについての考えを、どうして持つようになったのか?
分からなかった。
それは漠然とした意識の中に埋没していた。
分からなかった。
腕までも硬化してしまい、流れる涙を拭き取ることすらできなかった。ただゴヤの絵は涙のためにぼやけ、幾分か私の助けになった。
私は壁にもたれかかりながら、横へ、横へと移動した。正面の絵はもはやゴヤのものではなかった。ぼやけた私の目にはよく判別できなかったが、その絵はデルボォの「町の入り口」に違いなかった。それには私の前に何度か現れた女性の姿が描かれていた。「生」そのものを描いたそれは、「死」に支配された私の心をなごませた。私は涙を流しながらその絵に魅入っていた。重く硬化した身体は多少和らいだ。動きはじめた手で私は涙を拭った。ぼやけていた視界は明瞭となり、デルボォの絵は、今、私の目の前で輝いて見えた。女性の裸の上半身像。彼女の頭には花が咲き乱れている。そんな彼女は「町の入り口」で誰かを待っているかのようだった。そう考えると、彼女が待っているのは私であり、また私は彼女を愛していたのではないかと思った。そう……ずっと以前から。
私は絵の中の像に向かって話かけた。
「私はあなたを愛しています」
反応しないか彼女。無性に悲しくなる私。涙が頬を伝った。
「何か言って下さい」
私は彼女の瞳を見返した。何かを訴えるような哀しげな瞳。そこから涙が溢れた。
「何故泣くのです?」
お互いの悲しみに戸惑いつつ私は尋ねた。
「何故あなたは私に話かけてきたのです? 『現実』が『理想』に手をかけた時、『理想』は『現実』のものとなるのです。私はあなたのために純潔さを失ってしまったのです」
彼女がそう喋る間、私には彼女が大変おぞましいものに見えてきた。私はデルボォの絵から逃れるように背を向けた。同時に、以前これと同じ行為をしたことに漠然と気付いた。あれは何時のことだったのか?
意識してみると、振り向いた私の前にゴヤの「デスパラス」の一作品、「結婚の不条理」があった。周囲の人間の異常な嘆き、そして実際に結ばれた二人は、女が男に依存するかのように背中あわせにもたれかかっている。その背中、または後頭部は、肉と肉とが融合し、二度と離れられなくなっている。女は醜悪な顔をしており、痴呆のごとく口を開け、一方男もまた、女と同じく醜悪な顔をしている。男の目は背中の女をうとまし気に見ていて、両手は周囲で嘆く男のひとりに、おまえだってこうなるのだと言わんばかりに突き付けられている。この絵では、男女が結ばれることの永劫の空しさが描かれているのだ。
働かず、空回りばかりしていた私の思考は、この絵を観ることによって急速に回転した。フラッシュバックするかのように私の記憶の断片が意識の中を流れた。
女性に対して異常なほどに「理想」を追っていた自分。
差し出された見合い写真。
美しい女性。
結婚。
訪れた「現実」との直面。
非難する私。
非難する彼女。
冷めた家庭。
そして―――そして………。
私はよろめいた。背中を壁にぶつけ、その場にズルズルと座り込んだ。再び、だが今度は、強い後悔と慙愧の念から私は泣き叫んだ。私は破局の場面を想い出したのだ。私達の間には何年経っても子供ができなかった。その原因が彼女にあると分かった時、私は執拗に彼女を非難した。この時ばかりは、彼女は何も言い返せず、ただ泣くだけだった。私の言葉が彼女を傷つけ、彼女の涙が私を傷つけた。そしてお互いを傷つけ合う生活に疲れた彼女は自殺した。私が悪かった。「理想」と「現実」を混同することができず、飽くまで「理想」のみを追い続けた私が悪かったのだ! 「現実」との妥協を善しとせず、彼女を「死」なせた私が悪かったのだ……。私はこの「死」の支配する「迷宮」に閉じ込められた、嫌、閉じ篭った理由がやっと分かった。
涙を流す私の目の前に彼女が現れた。もうその顔は鮮明になっている筈だが、涙にぼやけた私の目には、その顔がよく見えなかった。彼女は私に近付き、屈み込んで私の瞳の涙を拭った。彼女は微笑んでいた。
「もういいのよ。あなたは長すぎるほど長い間ここにいたわ」
彼女は私の両腕を取り、立ち上がらせようとした。私はそれに逆らわず立ち上がった。
「行きましょう」
彼女は再び何処へという私の顔に向かって微笑した。彼女は正面の絵を指差した。そこには、ゴヤの「結婚の不条理」があった筈だが、もはやその絵はなかった。その代わりに、ゴヤの「ボルドーの牛乳売り」と題される絵が掛けられてあった。それは陰惨な晩年のゴヤの作品中、異例の、一片の希望の証とも言える作品だった。その絵が発光し、その光は次第に大きくなり、この「迷宮」の出口となった。光にあてられた私の肉体と精神は急速に軽くなった。ふと気になって、私は左右の回廊を見てみた。私が観てきた絵も、これから先に観たであろう筈の絵もすべて消失していた。
彼女と私は手を繋ぎ、堅く握り合った。
お互いに顔を見合わせ微笑し、そして、溶け込むような光の溢れる世界へ、「迷宮」より一歩一歩すすんでいった。
この物語を書くに当たり、以下2冊の本を参考にさせていただきました。
坂崎乙郎 「ロマン派芸術の世界」 講談社現代新書
坂崎乙郎 「幻想芸術の世界」 講談社現代新書




