残る「点」
都心から電車で三十分。築三十年の木造アパート「ひだまり荘」の二〇二号室は、相場より三万円も安かった。
大学を卒業したばかりの佐藤健一にとって、その安さは何物にも代えがたい魅力だった。不動産業者から「前の住人が室内で亡くなっています」という告知事項を告げられたが、独居老人の孤独死だと聞き、それほど気に留めなかった。
引っ越して一週間。部屋は至って普通だった。
ただ一つ、リビングの畳の隅に、小さな黒いシミがある。直径二センチほどの、墨汁をこぼしたような点。
クリーニング済みのはずだが、どうしてもその一点だけが落ちなかったらしい。健一は上からラグを敷いて隠した。
異変が起きたのは、雨の降る火曜日の夜だった。
寝付けずにいた健一は、ラグの下から「ガリッ……ガリッ……」という、爪で木をひっかくような音を聞いた。
ネズミか何かだろうか。健一がラグをめくると、そこにあるはずのシミが消えていた。
代わりに、その「点」は畳の真ん中に移動していた。
「……え?」
見間違いだと言い聞かせ、目をこする。
すると、シミがわずかに動いた。まるで生き物のように、ゆっくりと、健一の足元に向かって這ってくる。
心臓の鼓動が速くなる。健一は思わず壁際に飛び退いた。
シミは畳の縁を越え、板張りの廊下へと進み、壁を登り始めた。
街灯の明かりに照らされた壁の上で、シミは形を変えていく。
それは丸い点から、細長い指のような形になり、やがて苦悶に満ちた人間の「顔」の輪郭を形作った。
その顔には、目も口もなかった。ただ、そこには「絶望」という感情だけが張り付いているように見えた。
健一は震える手でスマートフォンを手に取り、大島てるなどの事故物件サイトを必死に調べた。
しかし、この物件には孤独死の記録しかなかったはずだ。
さらに詳しく調べを進めると、掲示板の古いスレッドに一つの書き込みを見つけた。
『ひだまり荘二〇二号室。孤独死というのは大家の嘘。あそこは昔、借金苦の男が壁に自分の血液で呪詛を書き殴りながら……』
そこまで読んだ時、部屋の電気が消えた。
真っ暗闇の中、健一の首筋に冷たい何かが触れた。
翌朝、不動産業者のもとにひだまり荘の大家から連絡が入った。
「二〇二号室の鍵が開けっぱなしで、店子がいないんだ。あと、変なんだよ。壁にまた、新しいシミが増えてて……」
新しくできたその「点」は、以前のものより少しだけ、若者の顔に似ていたという。




