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昨日と同じ、午前6時30分。電車のドアが開くと俺はいつもの席に座る。同じように待っていた人がまばらに座っても車内はまだスカスカだ。
発車待ちをしている最中、本庄さんもやってきた。
昨日、俺の隣に座った彼女は、今日、どうするんだろうか。
(まさか、今日も隣に来るわけ……ないよな)
昨日のは緊急避難だ。変なおじさんから逃げるため。今日はおじさんもいない。車内はスカスカだ。彼女は、いつも通り、向かいの席に……
本庄さんは、俺を一瞬だけ見た。目が合った?いや、合ってない。気のせいだ。
彼女は数秒、逡巡するように立ち尽くし、やがて、ゆっくりと歩き出した。
向かいの席じゃなく、俺の右隣をめがけて歩いてくる。
(本当に来たああああ!?)
心臓が、意味不明なダンスを始めた。ジャンルは多分ラテン系。
なんで!? 今日はおじさんいないのになんで!?
本庄さんは、何も言わずにストンと隣に座った。昨日よりも距離が近い気がする。いや、絶対近い。昨日より5センチは近い。
「お……おはよう」
俺は蚊の鳴くような声で言った。
「……ん。おはよ」
本庄さんも、小さな声で返してくれた。それきり、会話は途絶えた。
気まずい。
昨日よりも格段に気まずい。昨日は「おじさん」という共通の敵がいたから、ある意味、戦友みたいな連帯感があった。
でも今日は違う。これには理由がない。
(なんで隣に来たんだ……? 俺は高崎光太郎だぞ?クラスの陰キャだぞ?)
俺は昨日と同じように、必死で窓の外を眺めた。とはいえ、まだ発車していないため見えるのは駅のホームだけ。本庄さんも、窓の外を眺めている。
(やばい、集中できない)
景色に集中しなきゃいけないのに、意識が全部、隣にある。俺の右半身が、じわじわと痺れてくるようだ。
どうしよう。昨日みたいに「電車疲れるよね」トークから入るか?いや、二日連続で同じ話はダメだ。会話のレパートリーが貧困だと思われる。
かといって、「本庄さんってさ、将来の夢とかあるの?」みたいな、核心を突く質問もダメだ。重い。朝6時半の会話じゃない。
何か、もっとこう、当たり障りなくて、どうでもよくて、でも、沈黙よりはマシな話題……
「あのさ」
声が出た。本庄さんの肩が小さく揺れた。
「本庄さんって……」
「ん。何?」
「昨日の夜……何食べた?」
終わった。終わった。俺は明日から、向かいの席の彼女を盗み見る日々に逆戻りだ。いや、もう彼女は、この車両にさえ乗ってこないかもしれない。
本庄さんは、ぽかんとした顔で、俺を見ていた。そりゃそうだ。意味がわからないよな。
「……えっと」
本庄さんは、困ったように視線を泳がせた。そして、何が面白かったのかはわからないが「ふふっ」と笑った。
「昨日は……麻婆豆腐。お父さんが凝り性で、すっごく本格的なやつ。レトルトのしょぼいやつをカタカナ表記のマーボードーフとするなら、昨日食べたのは漢字の麻婆豆腐の周りがメラメラ燃えてるフォントって感じ」
「あ、俺も!」
「ふふっ。すごいね。麻婆豆腐被りなんてさ。高崎くんも辛いの好きなの?」
「う……うん。それなりに」
「そうなんだ。私も。結構辛くしちゃうんだよね、山椒とか入れて」
(会話が……続いてる……!?)
「わかる!辛いのいいよね!」
電車が動きだしても会話は止まらない。周囲に配慮して二人でウィスパー気味に話す。
「『昨日の晩御飯何食べた?』って雑談に見えて案外いい問いかけだなって思ったんだ」
ふと、本庄さんがそんなことを言った。
「なんで?」
「だってさ……昨日の晩御飯を思い出せないくらい味気ない日を過ごしちゃったってことでしょ?」
なるほど。そういう考え方もあるのか。案外、本庄さんは不思議な見方をする人なのかもしれない。
「けど、逆に考えたら、晩御飯を記憶するのにリソースを割けないほどいい一日だったって事でもあるかも」
「ふふっ。ポジティブでいい解釈だね。高崎くんの昨日はどうだったの?」
「晩御飯は辛うじて覚えてるけどいい一日だったよ」
そりゃ、朝からラッキーイベントがあったのだからいい一日だ。
「ふぅん……今日の晩御飯は?」
「多分、明日の朝には忘れてるはず」
「ふはっ……高崎くん、ポジティブだねぇ」
本庄さんが何度も声を出して笑う。車内に響かないように少しだけ抑えている笑い声は少しだけシュールだった。
(やばい……可愛い……好きだ)
本庄さんは、そう言うと、また窓の外に視線を戻した。
「学校の男子ってさ」
「うん」
「すぐ『彼氏いるの?』とか、『昨日なにしてた?』とか『週末何してる?』とか……そういうのばっかり聞いてくるんだよね。スマートフォンを片手に」
「……あー」
本庄さんにアプローチする人は数しれず。連絡先をゲットするためにすぐに本題に入ろうとする。なんとなくその様子が透けて見えるようだ。
そんな事を思っていると、ふと本庄さんの視線を感じた。ちらっと横を見ると本庄さんは俺の方を射抜くようにじっと見ていた。
本庄さんを本庄さんたらしめているアンニュイな視線にあり得ないくらい胸が高鳴る。その目が少しだけ細くなった。多分、俺に向かって微笑んだ。面白いことを言ったわけでもないのに。
「キミは真逆。スマホも持たずに、昨日の晩御飯を聞いてくれる」
「え……えぇと……」
「そこが、私はすごく……なんか……変な感じ。でも」
彼女は、ショートボブの髪を、さりげなく耳にかけた。
「……楽かも」
それは、「好き」の百倍くらい、嬉しい言葉だったかもしれない。
俺は心の中で、ガッツポーズをした。
これは、途方もない進歩だ。陰キャの俺が、SSS級美少女の「楽なヤツ」ポジションを獲得したんだ。
「楽……」
「や、ポジティブな意味でね。私って面倒くさがりだから……」
「そうなんだ……」
「ん。実例をあげるとね」
「うん」
「コンビニの肉まんってあるじゃん」
「あるね」
「あれの底についてる紙、あるじゃん」
「うん」
「あれ、いつも、一緒に食べちゃわない?」
「……え? ヤギ?」
「や、本庄」
「ここに来て苗字を八木だと思ってるわけないよね!?」
「ふふっ……けど、剥がすの面倒じゃん? 結構な確率で、本体と一緒に紙も噛んじゃってさ、『あ、紙……』ってなって、出すじゃん。でもさ、たまにさ」
「たまに?」
「もういいかなって、そのまま食べちゃう」
「まぁ……食物繊維くらいは取れるのかもね」
「ふふっ……高崎くん、何を言ってもポジティブに変換してくれるんだね」
好きな人だから持ち上げるに決まってるでしょ!?
本庄さんはふと、有名企業の名前が羅列された中吊りの求人広告を見上げながら「皆ね」といい出した。
「みんな、私の晩御飯なんて気にしないよ。私も他人の晩御飯は気にならない。けど、キミの晩御飯は気になるな」
それはどっちの意味なのだろう。本当に晩御飯を気にしているのか、あるいは、昨日の晩御飯を覚えていられないくらいの一日を過ごしたのか、つまり昨日何をしていたのか気になる、ということなのか?
「な……なんで?」
本庄さんは微笑みながら俺の顔を指差した。
「だって、ほっぺにご飯粒ついてるもん。ふふっ」
俺は慌てて頬に手をやり、ご飯粒を取った。
「あっ……朝がご飯派なの!」
「あ、その話題もあるあるだよね。私ちょっと言いたいことがあってさ――」
本庄さんはそこからもたまに目を合わせながら、朝ごはんのパン派ご飯派論争が愚かなのかと滔々と語ってくれたのだった。




