13
テスト期間も朝の電車だけは勉強のことを忘れてボーっとする時間だ。それは本庄さんも同じらしく、いつものような気怠そうな目つきで外を見つめている。
いつもの鉄橋を渡り終え、速度を落とす。すると、線路脇にびっしりと咲き誇る紫陽花の群れが、窓の外を流れていくのが見えた。
雨に濡れた青色と紫色が、どんよりとした空の下で、やけに鮮やかに見えた。
(綺麗だな……)
もちろん、俺の視界の端には、もっと綺麗な本庄さんがいるわけだが。彼女も、紫陽花エリアに差し掛かると、指ドラムを止めてぼんやりと窓の外を眺めている。
「……紫陽花だ」
本庄さんが小さく呟いた。その声は、窓に打ち付ける雨音に混じってしまいそうなほど、静かだった。
「うん。すごく綺麗だね、今年」
「……」
本庄さんは、何も答えず、じっと窓の外を見つめている。その横顔は、いつもの「素」の無表情とは少し違って、いつもより少しだけ柔らかい表情をしている。
「……ね、高崎くん」
「ん?」
「高崎くんは、青と紫、どっちが好き?」
「え?」
突然の質問に俺は面食らった。
本庄さんはニヤリと笑い、俺に近づいて耳打ちしてくる。
「紫陽花の色だよ」
「耳打ちする必要ある!? えーと……俺は、青、かな……? なんか、涼しげで」
「ふーん。青、か」
本庄さんはそれだけ言うと、ふふっ、と小さく笑った。その笑顔はなんだかとても優しかった。
「じゃ、下着は? 青と紫」
「いきなり何聞いてるの!? 青と紫の2択!?」
「や、まぁ他にあるなら入れていただいてもいいけども」
「ないよっ……てか教えないよ!」
「じゃ、あるんだ?」
「黙秘権、あるよね?」
「や、ないよ」
「人権、あるよね?」
「や、ないよ」
「俺って一体……」
「ふふっ。元気出して」
本庄さんはニヤニヤしながら俺の肩をポンポンと叩いた。好きな下着の色を言わないだけで人権を奪われる始末。
まぁ、本庄さんが楽しそうなら何よりだ。
「あのさ」
彼女は、じっと俺に視線をぶつけてくる。気怠さの中にも、確かな光を宿した、ミステリアスな瞳だ。
「私、ちょうど一年前も、ここの紫陽花が綺麗だなって思ったんだ」
「一年前? よく覚えてるね」
「ん。すごくよく覚えてる……入学してすぐくらいだったし、その時、ちょっと困ってたから」
「困ってた?」
俺が聞き返すと、本庄さんは「ん。そう」と頷き、また窓の外に視線を向けた。その視線は、目の前の紫陽花ではなく、一年前の記憶を辿っているようだった。
「一年前の今頃……まだ、高崎くんと同じクラスにもなっていないし、そんな人がいるなんて知らなかった頃ね。私はここに座ってた」
「へえ。そうだったんだ」
「でね、その日も、ガラガラだったのに、ある男の人が……私の隣に、ぴったりくっついて座ってきた。今の高崎くんの位置……」
「あ……」
それは、俺たちのこの聖域が始まるきっかけになった、「おじさん避け事件」とまったく同じ状況だ。俺の心臓が嫌な感じで少し跳ねる。
「私、その時も……脳内で作曲してたんだけど、もう全く集中できなくて。気持ち悪くて、怖くて、でも、どうしようもなくて、固まってた」
「……そっか」
「早く駅に着け〜って、そればっかり考えてた……その時ね『チャリンチャリンチャリンチャリ――ン!』って音がしたんだ」
「ちゃりん?」
「そう。すごい音がしたの。電車の真ん中あたりで」
本庄さんは、当時の光景を思い出したのか、くすくすと笑いながら続ける。
「見たら、同じ高校の男の子が……盛大に、小銭をぶちまけてた。名前も知らない人。ポケットに入れてた小銭入れか何かを落としたみたいで」
「あ……」
自分の一年前の記憶を辿ると、そんな事があった気がしてくる。それは、小銭を拾ったからではなく、小銭を落とした張本人だったから。
拾ってくれた人はおじさんやおばさんが多かったけれど、一人だけ可愛い高校生がいた。それが本庄さんだったんだろうか。
だが、記憶の中にいる女の子は、ふわふわのウェーブがかかった長い髪の毛にぱっつん前髪と、今の本庄さんとは似ても似つかない姿だ。
「百円玉とか十円玉とかが、床を転がって、私の足元や、隣の男の人の足元まで、派手に転がってきた」
「へぇ……」
「そしたらその男子も『ああ!すみません!すみません!』って、大声で謝りながら、こっちに来て。床に這いつくばって、小銭を拾い始めて。離れた席からも人が集まってきて、5、6人で小銭拾い大会をしたんだよね」
「そっ……それと紫陽花に何の関係が?」
本庄さんは「もう少し聞いてよ」と言いたげに静かにニヤリと笑い、人差し指を口元に添えた。
「でね。小銭拾いで立ち上がったついでに、隣りに座ってきたおじさんから逃げられたんだ。その男子は恥ずかしかったのか別の車両に移動しちゃったんだけど、今思えばあれはわざと小銭をぶちまけて私を助けてくれたんじゃないのかなって」
本庄さんはその人が俺だと確信して話してくれているようだが、少なくともガチで小銭入れを落としただけのはず。
「そっ……そんな事した人がいたんだ……へぇ……」
「ん。いたんだ。ヒーローだったよね」
「へっ、へぇ……」
「で、私は一人で座って外を見たんだ。そしたらちょうどさっきの紫陽花ゾーンで。綺麗だなって思った。それを思い出しちゃった」
すでに通り過ぎた紫陽花の咲いた場所を思い返すように、本庄さんは目を瞑って微笑んでいる。
「その人、名前はわかったの?」
「や、誰かなぁ?」
本庄さんはやっぱり俺だと確信しているらしく、ニヤニヤしながらこちらを見てくる。
このまま俺と認めて本庄さんが勘違いしたまま手柄にしたい気持ちと、過去に助けたと嘘を付くことへの罪悪感がせめぎ合う。
勝ったのは後者だった。嘘をついてまで格好つけるのも違う気がした。
「まぁ……少なくとも、通学中に誰かを助けようと思って行動を起こした記憶はないかな……」
「じゃ、高崎くんの他にもこんな遠い高校まで通ってる男子がいるんだ?」
「それか、3年生だったのかもね」
「ん。もう卒業しちゃったのかぁ……初恋なのになぁ……」
「ぎょえっ!?」
俺の声が思ったより大きかったようで、本庄さんは口元を抑えて笑いを堪えている。
「ふふっ。高崎くん、驚きすぎだよ。私だって人間だから恋はしますとも」
「い、いやぁ……まぁそうだろうけど……」
まさかその相手が自分だとは思わないだろう。
だけど困った……
本庄さんは颯爽と助けてくれたと思っているからそこまでの気持ちがあったはず。ただ、現実は手が滑ってたまたまそれが本庄さんを助けたというだけのこと。情けなさすぎる……本庄さんの初恋が台無しだ……
とはいえ、本当に俺じゃなくて別の人が同じ事をしていた可能性もある。記憶の中にいる長髪ウェーブの美少女が本庄さんなのかは確かめておいてもいいだろう。
「……ね、本庄さん」
「ふふっ。私みたいな声の掛け方だ」
「伝染った」
「カリスマは辛いや。で、なに?」
「その日ってさ、雨、降ってた?」
俺がそう尋ねると、本庄さんは、うーん、と小さく首を傾げた。そして、ゆっくりと窓の外に視線を戻す。
「……や、覚えてない」
「え? 覚えてないの?」
あんなに鮮明に出来事を覚えてるのに、天気は覚えてないのか。
「ん。紫陽花が綺麗だったことと、小銭をぶちまけたことしか覚えてない」
「じゃあさ……話変わるけど、本庄さんって入学したときからその髪型なの?」
「や、切ったのは1年生の夏休みだよ。去年の紫陽花のシーズンはロングでさ。当時はモサモサしてたよ。サモサモサモサモササウルスって感じ」
「サモサに住んでるモサモサのモササウルスってこと!?」
「ふふっ、そゆこと〜」
冗談で流されてしまったけれど、ほぼ確定だ。小銭を拾ってくれた女子高生は本庄さん。まだ本庄さんを本庄さんと認識する前だから記憶も曖昧だったんだろう。
「モサモサしてたってことは……今日みたいな雨だったのかな?」
俺は窓から薄暗い外を見ながら尋ねる。
「ん。そうかもしれないね。ロングヘアーでウェーブのかかった髪の毛だったかもしれない」
本庄さんも前を向いたまま答えた。何となく核心には触れづらく、ちらっと横目に本庄さんを見るだけに留まってしまう。
彼女の横顔が、雨に濡れた青色の紫陽花みたいに儚くて綺麗だと思った。
本庄さんは前を向いたまま、満足したように微笑んで指ドラムを始めた。カタカタ、と鳴るリズムは、俺の心臓の音と不思議とシンクロしているようだった。
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