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六月。梅雨。世界が分厚い湿気の膜に覆われたような季節。
今朝は最悪のコンディションだった。夜にかけて降り続いた雨で空は白く濁り、まとわりつくような湿気が肌に張り付く。半袖のワイシャツが、すでに肌に吸い付いているような不快感。
いつもの始発駅のホームにいつもの車両が入ってくる。扉が開くと冷たい爽やかな風が噴き出してきて外気との入れ替えが始まる。
しばらくすると湿っぽさが徐々に増しつつある車内に本庄さんが、乗り込んできた。
……ん?
今日の本庄さんは、何かいつもと違う。
いつもは、完璧なまでに手入れされた、サラサラのストレートヘア。それが、今日は全体的にふわふわと空気を孕んだように膨らんでいる。毛先が、あちこちを向いて、緩やかに、うねっている。寝ぐせとはまた違う、規則性のない髪型だった。
(……これは、これで……)
いや、俺は何を考えているんだ。完璧な学校モードの本庄さんからは想像もつかない、隙だらけの髪型。それは、彼女の素の状態をさらに無防備にしたように見えた。
本庄さんは、俺の視線になど気づいていない……いや、気づきたくないというように、伏し目がちに俺の隣までやってきた。
そして、いつもより少しだけ乱暴にどさっと隣に座った。
「はぁ……おはよ。高崎くん」
この世の終わりだ、と言わんばかりの深いため息が、隣から聞こえてきた。リュックを、いつもより強く、ぎゅっと抱きしめている。
いつもの気怠さとは違う、明確な負のオーラが漂っている。
俺は、窓の外を眺めているフリをしながら、必死に脳を回転させる。この湿気のせいか?それとも、何か別の理由か?
いや、多分……髪、だよな。
俺が内心で可愛いと思ってしまった、あの「ふわふわ」が、彼女にとっては災厄なのだろう。
触れない方がいいか?
でも、このまま高校の最寄り駅まで沈黙を続けるのは、空気が重すぎて、俺が窒息死する。
「お、おはよう、本庄さん」
意を決して、声をかける。
「……ん。おはよ」
返ってきた声は、いつもよりさらに三度くらい低かった。普段がソの音なら今日はミの音を奏でているような感じだ。
「今日、すごい湿気だね」
「……ん。最悪」
本庄さんは髪の毛の先を摘まみ、一度伸ばす。だが、うねった髪の毛はくるんと音を立てるような勢いで元に戻った。
「あぁ……無遅刻無欠席を優先するあまりこんな姿で来てしまったよ……」
本庄さんは後悔の念に苛まれながらリュックに顔を埋めた。
「髪の毛、湿気に弱いの?」
俺が尋ねると、本庄さんは顔を上げて俺の方を見てくる。外の湿気に負けないくらいじとーっとした目つき。
そんな目つきのまま「そうなんだよ」と答えた。
「お風呂上りにドライヤーをして、湿気がひどい日は朝にもう一回伸ばしてたんだよね。今日はちょっとだけ寝坊しちゃってさ。この髪の毛のまま来ちゃったと」
「そんなに気にすることないと思うけどなぁ……似合ってて可愛いし」
素直に感想を述べただけなのだが、本庄さんは顔を赤くしてリュックにまた顔を埋めた。
「や……そう言ってくれると気が楽になるよ。けど、海藻みたいじゃん?」
「もずく?」
本庄さんは俺の方を見てジト目のまま笑う。
「それ、髪の毛海藻例え悪口のレベル3だよ。まずはレベル1からだよね」
「……レベル1はわかめ?」
「ん。正解。ちなみに茶髪なら焼きそば、金髪なら塩焼きそばがレベル1」
本庄さんはいつものような冗談を言うも、力なく笑ってまたリュックに顔を埋めた。本格的に笑いに昇華する元気もないみたいだ。
「そっ、そんなに気を落とさなくてもさ! 学校に着くまでにマシになるかもしれないし!」
俺が必死に元気づけようとするも、本庄さんは少しだけ顔を動かしてリュックの隙間からこちらを覗いてくるのみ。
「ここで高崎くんに見られるのが嫌だったんだよ」
「誰にも言い触らさないよ」
「ふふっ……そういうことじゃなくてさ」
少しだけ柔らかいトーンで笑った本庄さんは、意を決したように顔を上げて俺の方を向いた。
「……髪の毛、どうかな? あ、ちなみにこの質問の意図はただ私の自己肯定感を高めるための言葉が欲しいだけだから」
今日の本庄さんは若干面倒くさいモードに入っているようだ。普段から面倒な性格をしているような気はするけれど、質の違う面倒くささについ口元が緩んでしまう。
「普段と違って新鮮だし、新しい一面って感じだよね。『うねり』っていうより『ニュアンス』だよ」
「ん。ニュアンス。いい言葉だね」
本庄さんは「もっとくれ」と言わんばかりに耳に手を添えている。この人超めんどくさいモードの日だ!
「海外のファッション雑誌のモデルみたいだよね。アンニュイなパーマでさ」
「ん。アンニュイアンニュイ」
「こう……髪の毛にエアリーな感じが合っていいと思うよ!」
「エアリー」
「チャーミングだよね!」
「ね、高崎くん」
「何?」
「横文字でそれっぽく誤魔化そうとしてない?」
ギクリ。
「バレた?」
「ん。バレバレだぞ」
本庄さんは二ッと笑ってリュックに横向きに顔を載せて俺を見てくる。自然な笑みに、自然体の髪型。いつにも増して素の姿を見せてくれている感じがして、胸が高鳴る。まるで、風呂上がりに一緒にアイスクリームを食べている時のひと時のような錯覚に陥る。
「いや……けど、本当にいいと思うよ。一番自然な感じで。普段のストレートも好きだけど。両方いいと思う」
本庄さんは目を見開いて、コクコクと頷いた。
「ん。いいお言葉をいただいた。さんきゅ」
本庄さんは満足したように前を向いて、耳に髪の毛をかけた。うねりのある、エアリーなニュアンスパーマがいつもよりアンニュイな雰囲気を醸し出していて、一段と神秘的な美少女感が増している。
意識的に「好き」とジャブを打ってみたのだけど、本庄さんには響いていない様子。ちょっと焦りすぎたか……? と少し不安になる。
じっと前を向いて発車を待っていると、本庄さんが思い出したように前を向いたまま「なんかさー」と言った。
「歌のない音楽ってあるじゃん? インスト系」
「あ、うん。あるね」
「私さ、そういうのが好きだったんだよね。歌詞とかなんでも良くてボーカルも楽器の一部、みたいな感じで」
「へぇ」
「けど……ちょっと考えを改めた。言葉の魔力ってやつ」
「何かあったの?」
「ん。今だよ。高崎くんのおかげでこのもずくみたいな髪の毛も、ちょっと好きになれたから。ちょろいよね、私」
「もずくって言ってごめんって……」
「ふふっ。言われたこと、全部忘れないから。全部、ね」
本庄さんはジト目のまま目を細めて笑う。その表情には言葉と裏腹に恨みなんてものは一切感じない。一体どれをどこまで覚えてくれているのか気になりつつも、それを聞くことはできないまま電車は発車した。




