幸せに決まった形はなく、ある瞬間に訪れる気持ちを幸せと呼んでいるだけなのかも。
人間は幸せになるために生きていると言われることがあるけれど、自分が求める幸せを明確にこれだと表現できる人が果たしているのだろうか。幸せとは何かと問われると答えるのが難しい。
辞書で調べてみると「すべてのことに満ち足りていて、心がおだやかなこと」とある。そして、おだやかとは「静かで、やすらかなようす」とされている。辞書的な意味では、幸せにはしみじみとした印象がある。しかし、激しい喜びや感動を味わった時の感情は幸せとは言えないのだろうか。私たちはもっと広い意味で幸せという言葉を使っているように思う。それが言葉の使い方として正しいかどうかはともかくとして。
幸せとはこういうものだ、という売り出し文句は世の中に溢れている。大勢で集まって騒ぐのが幸せだと言ってみたり、喧騒から離れ自分だけの時間を過ごすのが幸せだと言ってみたり、そこに一貫性はない。この場合の幸せは、何を売るつけようとしているかという思惑によって変わってくるものなのだろう。幸せの定義を真剣に考えているわけではなく、売る側に都合の良い型に幸せという言葉をはめ込んでいるに過ぎない。
また、他人を評価するときに、あの人は〇〇をしていて幸せそうだとか、あの人は●●になれて幸せ者だと表現することも多い。これは当人が幸せと感じているかという問題ではなく、評価する側がどのように受け取っているかという話になる。いずれにせよ、客観的に確立された幸せの形というものは存在し得ないように思える。
幸せの正体を掴む確かな方法は、自分が幸せだと感じた瞬間を思い出すことしかないのかもしれない。他人に伝えるために整理された情報ではなく、ふと心に訪れたその一瞬の気持ちこそ幸せというものなのではないだろうか。外に発信される言葉や表情には、往々にして何らかの思惑が混ざり込んでしまう。他人から良いように見られたいとか変な気を遣われたくないといった気持ちが多少なりとも覆い被さってくる。純粋なものは誰にも向けられることのない、自分の気持ちの中にしか存在し得ないように思える。
そして、その気持ちが訪れる瞬間というのは再現が不可能なものだと考える。一人で孤独に雨を降られた時に幸せを感じることもあれば、暖かい部屋で大勢に囲まれて幸せを感じることもある。だが、後になってまた同じ気持ちを味わおうとシチュエーションをお膳立てしても、その当時の気持ちになることはできないだろう。時と場所だけでなく、何を思い、考え、感じていたかといった無数の条件が絡み合って、その時々の気持ちが生まれるからだ。
ついつい幸せのお裾分けというか、幸せ自慢をしたくなってしまうことが多いけれど、そうやって他人に向けて発した時点で、本当の意味の幸せと自分の間に隔たりが生まれてしまうような気がする。幸せを感じたときは、一旦それを自分の心の中に留め置くということも大切だ。
幸せに決まった形がないと考えれば、自分は〇〇だから幸せになれないという思い込みは的外れなものとなる。こういう条件を満たせば幸せだとか、こうならないと幸せになれないといった言葉を耳にしたとしても、そんな基準は存在しないとスルーするのが賢明だ。無数の要因が複雑に絡み合い、人それぞれのふとした瞬間に幸せという気持ちが訪れる。人生とはそんな楽しみがいのある素敵な時間ではないだろうか。何事も決めつけず、あるがままに受け取ってみることが幸せに通じる一歩目だと思われる。終わり




