透明な血と火星語の本
ある日、少年は名前を忘れた。
それは突然のことだった。声に出そうとして、口元まで言葉が来たのに、音にならなかった。母親がアイスを食べる彼を見ていたが、彼女の瞳もどこか遠くを見ていた。
少年は家を出て、教会へ向かった。けれど、扉の前で立ち止まった。「教会はなんのためにあるのだろう」と思ったからだ。祈るため? 赦されるため? それとも、名前を思い出すため?
風が吹いた。風を捕らえようとする男がいた。少年はその男に尋ねた。「名前を忘れてしまったんだ。どうしたら思い出せる?」
男はダイスを振った。「出た目が6なら、思い出せるかもしれない」
出たのは3だった。
少年は歩き続けた。学校の前を通った。「学校はなんのためにあるのだろう」と思った。学ぶため? 忘れるため? それとも、名前を交換するため?
図書室に忍び込んで、一冊の本を開いた。けれどそれは火星語で書かれていた。読もうと思っても読めなかった。ページの隙間から、牧場の牛がキスしている絵が見えた。
ピアノの鍵を叩いたら、サインペンのキャップがなくなった。代わりに、青色のリボンが現れた。少年はそれを首に巻いた。少しだけ、自分の名前に近づいた気がした。
空は泣いていた。春があくびして、夏が風邪をひいていた。秋がお見舞いにやってきて、冬は眠っていた。
少年は空を飛びたがっている魚に出会った。「名前を忘れたんだ」と言うと、魚は言った。「それなら、悲しみの指輪を探すといい。銀河の彼方にあるよ」
少年は旅に出た。ニッケル製のセロテープと鉄でできたスポンジを持って。途中で、くるみ割りで頭を割っている人形に出会った。彼女は言った。「名前なんて、最初からなかったのかもしれないよ」
少年は考えた。自分を信じられないとき、誰を信じたらいいのだろう。風? 魚? 人形? それでも、それでも、空を見て泣いている自分自身?
そして、少年は気づいた。
名前は、音にできないメロディーだった。絵にできない幻想だった。言葉にできない感情だった。
だからこそ、忘れてしまったのではなく、最初から「持っていた」のだ。
少年は空を見上げた。星が輝いていた。時は戻らなかったけれど、朝はやってきた。怖がりでベッドでぐずぐずしていたけれど、ちゃんとやってきた。
そして少年は、名前の代わりに、青色のリボンを結び直した。
それが、彼の「名前」になった。
連載版もあります。
詩小説ショートショート集
わたしとAI君とのコラボレーションです。
このショートショートのもとになった詩は、連載版「われは詩人 でなければ死人 ーAIと詩を語るー」で読めます。
ショートショートタイトル「透明な血と火星語の本」の原詩は「悲しみの指輪は銀河の彼方」です。




