表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/32

(続)第六章 舞踏の罠 — 顔の剥がれる瞬間

 扉の向こうから歩み出したのは、薄絹の外套をはためかせる、年配の男だった。彼の背には王城の威光を思わせる空気がまとわりつき、黒曜石の指輪の紋と同系統の細工が施された細い印章が、袂から覗いている。客席のざわめきが一瞬止まり、誰もがその姿に息を呑む。


 男は一礼するでもなく、私――アレクサンドラ――の眼前に立ち止まった。彼が差し出したのは、王城の役人が持つような公文の筒。蝋で封がされ、封には見慣れた王城の紋章が押されている。私の心は瞬間、鋭くなる。公の力が今、ここに差し向けられるということは、舞踏会がにわかに“司法”的な場へと変貌するということだ。


 「王城顧問――マルクス・デ・セロンである」彼の声は柔らかく、しかし聴く者の耳骨にまで届く強さを含んでいた。「この場にて、非公式の公開審問を行うのは相応しくない。だが、事は深刻である。公的な調査の開始を以て、一時的な差し止めを要請する」


 その言葉に、会場は再び波立った。侯爵は表情を暗くし、顧問の名を見やる。顧問の影の濃さは、これまでの噂を現実に変える。私が差し出した帳簿と写しは、顧問自身の影の入口を叩いたのだろうか。だが――そのとき、マルクスは私にひとつの視線を投げた。視線は冷たく、しかしどこか興味深げだった。


 「令嬢、貴女の言は重い。だが、ここで私が直ちに裁定を下すことは致しかねる。まずは証拠の真正性を確認し、次に関係者の聴取を行う。――だが、貴女が“戻った”事実についても、王城は重く受け止める。ヴァルターなる者の名は既に我が側にも届いている。公的な手続きに従い、すべてを洗い上げよう」


 その「公的な」が、私には忌々しかった。公的な手続きは時間を喰う。時間は私が最も避けたい敵だ。だがマルクスは微笑を保ちつつ、周到に言葉を選んだ。会場の一部が安堵する。侯爵は小刻みに肩を震わせ、フォルクは滂沱の汗をぬぐう。私の視界は一時的に狭まったが、冷静さは保っていた。公の介入は、表向きには私の主張を補強するはずだ。だが同時に、暴露したい者たちは、時間を使って反転攻勢を仕掛ける余地を得る。


 その瞬間、マルクスの後ろからぽつり、と別の足音がした。皆の注目がそちらへ向く。そこに現れたのは、想像よりもずっと年若い人物――白髪を長く引いた老医師、ヴァルターだった。彼の体は細く、目には深い疲労と、さらにその先にある奇妙な光が宿っている。彼は杖を頼りにしながら、こちらに向かってくる。


 「ヴァルター……」フォルクの声が思わず漏れる。彼は色を失い、膝に力が入らない。ヴァルターは私に向き直ると、低く、しかしはっきりと宣言した。


 「私は、あの術を行った。だが、命じたのは侯爵でも、フォルクでもない。私には、もっと上からの命令があった」彼の言葉は震え、時に割れた。だがそこには後退のない決意があった。「私は金と知識に目が眩んだ。だが私はもう嘘をつけぬ。あの術は人を戻すが、代償は大きい。それを知りながら行った。我が手は汚れている」


 会場が一瞬静止した。語られた言葉は、今までの噂を直接的な告白に変えた。ヴァルターは続けて、書類を掴み出した。彼の手には、脆い羊皮紙の束があった。文字は乱れ、だが筆跡は揺らがない。彼はそれをゆっくり広げ、二つの印章を指で示した。ひとつは蜥蜴の紋章、もうひとつは、王城顧問の末端に見られる細工の入った代用印である。


 「これが私の手で書かれた受領書の写しだ」とヴァルターは言った。「あの薬瓶の配達記録。依頼主の署は偽りに見えたかもしれぬが、受領先の記録は私が管理していた。黒曜石の指輪、その構成物、そして術の条件。私は書き残した。だが私の記録は、孤独ではない。誰かがそれらを追ってくれることを、私は願った」


 マルクスの顔に、小さな皺が走った。彼は無言でその羊皮を手に取り、目を走らせる。筆蹟の一致、金の流れの記録の痕跡、南方商会への入金伝票――どれも、単なる噂ではない物的根拠を示している。会場の人々の視線が再び揺れ、今度は動揺に変わった。


 侯爵は顔を真っ赤にし、立ち上がろうとするが、床に足を踏み出す前に私が制した。低く、しかし確固として。


 「侯爵、ここで感情に任せた振舞いはお止めください。真実を求めるのは私です。そして、私の望みはただ一つ。誰が私を消したのか、誰が私を“戻す”と命じたのかを、明らかにすることです」


 侯爵の唇が震えた。「アレクサンドラ、貴女は我が夫である私をここで辱めるつもりか。これまでの通りに、私に従えばよいではないか。公的な調査に任せよ」


 その「従う」という言葉が、私の胸にかつての痛みを呼び起こす。だが私は毅然として言い返した。


 「私は従うために戻ったのではない。私を消させ、私を道具とした者たちの顔を洗うために戻った。公正な場であればよい。だが“公的”がどこまで公正かは、我々がここで確かめるべきことです」


 マルクスは短く合図し、王城の代表として場内の秩序を取り戻そうとした。そのとき、ふいに別の声が割り込んだ。低く、しかしはっきりとした声。誰もが振り向くと、王城顧問の一派の中にいた、最も影の薄かった男――黒い外套に隠れていた人物が、ゆっくりと前に出てくる。


 彼は私を一瞥し、口元に笑みを浮かべる。「見事な芝居だ、令嬢。だが、真実とはもっと滑らかだ。帳面や証拠は確かに興味深い。しかし、証拠の出所と筆跡の鑑定は我が顧問団の手で行うべきだ。今、ここでの公開は混乱を招くだけだろう」


 彼の言葉は巧妙に曖昧で、秩序と理性を装っていた。だが誰もが、その口調の奥にある脅迫めいた含意を嗅ぎ取る。マルクスは沈黙を保ち、ヴァルターは額に手を当てる。私は深く息を吸い、最後の一手を放つ決意をした。


 「では、あなた方が鑑定するというなら、私も一つ条件を出します」私は静かに言った。「鑑定は公開で行い、第三者の監査を立てること。さらに、ヴァルターの証言は即時に記録され、彼の安全は王城が保証すること。でなければ、私自身が持つ原本――商会の帳面、受領書、そして私が直接手に入れた証拠の写しを、公に配布します」


 その提案は場に一瞬の緊張を走らせた。マルクスは眉をひそめ、やがて――意外なことに――頷いた。「公開鑑定、ならびに第三者監査。ヴァルター氏の安全も保証しよう。ただし、これは正式な王城の手続きとなる」彼は言葉を重ね、封筒を受け取ると場を収めるために手続きを宣言した。


 客席のざわめきは瞬時に恐れと好奇に変わる。侯爵の顔は複雑に陰影を帯び、フォルクは地面を見つめる。私は冷たく笑った。公的なルートを通すということは、同時に私の開いた扉が、より多くの目――そしてより大きな力――を私の側に引き寄せるということだ。私はその力を利用する。


 だが、心のどこかで私は知っていた。王城が介入することで、また別の網が張られる。真実を掘り下げるたびに、別の顔が現れ、私はさらに深く、危険に沈んでいく。そうして私は微笑む。復讐は、いつだって苦い。だが私はその苦味を以て、前へ進むのだ。


 舞踏会は――その夜は――法廷となり、灯はいつしか真実の陰を浮き彫りにしていった。客たちは囁き合い、王城の侍臣たちは走り回る。私の掌の中で、紙片と封印は新たな運命の輪郭を描き始める。私を殺し、私を戻し、私を試した者たちの顔が、いつか完全に剥がれ落ちるだろうと、私は信じていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ