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第六章 舞踏の罠

 夜が来るまでの時間は、糸を静かに結う作業の連続だった。屋敷の書斎に戻ると、私は集めた紙片と帳面を広げ、並べ替え、つなぎ合わせ、指の腹で繋がりを確かめた。セラがくれた到着記録、フォルクが渡した小瓶と金属片、書斎の引き出しに残された羊皮紙の文面――それぞれはばらばらの断片に見えても、並べれば輪郭が現れる。王城の顧問筋への流れ。蜥蜴の印章。ヴァルターという中間点。すべては、ひとつの幾何学のように私の前で組み上がっていった。


 「マダム、今夜はどうされますか」

 マルティンが戸口で静かに問うた。彼は私の背中を見つめ、言葉少なに立っている。長年の家臣には、主の決意の重さが見えるのだ。彼の指先はいつも通りに震えていたが、その震えは私にとっては安心の音でもあった。忠義は時に武器となる。


 「今夜、舞踏会を開きます」私は答えた。声は平静を保っていた。だが内心では、計画はもう固まっていた。舞踏会は、侯爵家の秋の慣例であり、王都の顔役が一堂に会する機会だ。顧問筋が動くなら、顔を出すはずだ。南方商会が関わる者、ヴァルターと繋がる影、侯爵の内側にいる者たち――彼らの動きを一か所に集め、隙を生む。私はここで、水面下の糸を一気に引き上げるつもりだった。


 「舞踏会で、何をするのです?」マルティンは慎重に尋ねる。彼の口調には不安がにじむ。


 「証拠を見せます。小さな紙切れや暗号めいた記録だけではない。商会の帳面の原本、ヴァルターの領収書の写し、そして――」私の目は黒曜石の断片に落ちる。「私を“戻す”と書かれた、筆跡の一致を示すものを。公の場で、証言と共に提示すれば、顧問筋は立場を失う。王城の目も動くだろう」


 彼は短く息を吐き、頭を振った。「侯爵家の顔が傷つくことになります。侯爵様が巻き込まれれば、貴女も危険です」


 「それは承知です」私は淡々と答えた。「だが真実は、いつかは出る。私が静かに糸を引いて、公に出すのと、誰かが暴露して屋敷ごと潰されるのとでは違う。私が主導すれば、被害を最小にできる可能性がある。フォルクも協力すると言っている。彼の協力を得て、内側から証拠を出すのだ」


 マルティンは私をじっと見たまま、やがて頷いた。「令嬢様の決定に従います。万が一のときには、逃走の手配も整えます」


 夜の支度は淡々と進んだ。舞踏会は形式的には「小規模の招待」であって、公の催しではない。だからこそ、王城の顧問が油断する可能性がある。招待客リストは私が掌握した。侯爵の顔役、商会の代理、数名の顧問近臣――そして私は、あえて特定の顔ぶれだけを選んだ。セラは裏口から帳面の原本を私に渡す手筈を整え、フォルクは近習として舞踏会に紛れる。マルティンは退出経路をいくつか用意し、必要ならば書簡を焼却できる小さな焚き火器具を持たせる。


 私はドレスに袖を通した。白と深紅の織りが入り混じる装いだ。外面はあくまで「優雅な令嬢」。だが胸に抱く心は冷徹な計算で満ちている。復讐は美しくある必要はない。だが美しさは武器になる。人々は美しさと優雅さに目を奪われ、言葉を失う。その間に真実の刃を突き付けるのだ。


 舞踏会は華やかに始まった。弦楽の調べが流れ、人々は優雅に輪を作る。私は笑みを浮かべ、客と談笑し、情報を拾い続ける。フォルクは、侯爵の近くにいて会話を交わすふりをしながら、内心では動揺を押し殺しているのが見える。彼の眼差しは、時折私を見る。その視線に、私は感謝と警戒を交互に返した。


 やがて、私の計画の第一段階を始める時が来た。主賓席で曖昧に流れている会話の中に、私はひとつの話題を挿入する。王城の顧問が最近、南方商会に“大口注文”を出しているらしいという噂話だ。私の言葉はあえて色をつけず、ただ「噂」として流す。だが次の瞬間、フォルクが隣に座る侯爵にさりげなく耳打ちをした。その反応を私は注視する。


 侯爵の眉がわずかに寄った。表向きは平静を取り繕うが、その額には汗が浮いている。何かを隠す者の常だ。会話が一段落すると、侯爵は席を離れ、静かに外套を羽織って出て行った。フォルクはその背を見送り、私に小さな合図を送った。私たちの連携はこの一瞬のためにある。


 第二段階は、客の一人である老商人の口を借りることだった。老商人は小さな帳面を常に持ち歩き、過去の取引について事細かに語る癖がある。私は彼を舞台の片隅に呼び出し、さりげなく帳面を尋ねた。彼は愉快そうに歌い始める。言葉の端に、先ほど私がセラから見せられた記録と似通った数字が混じる。私はその数字を書き留めるふりをしながら、心の中で既に次の札を引いていた。


 そしてついに、第三段階。フォルクがさりげなく私の差し出した封を開き、席の端でこっそりと原本の一枚を老商人に渡す。老商人は封を見て目を見張る。紋章、金額、日付。彼の表情が変わった瞬間、私は舞踏会の中心に立ち、杯を掲げた。


 「皆様、本日は我が侯爵家の小さな集いにお越しくださり、誠に感謝いたします。今宵は一つ、皆様にお聞きしたいことがございます」私は声を張らず、しかし客席に静かな波紋を広げるように言葉を投げた。「最近、南方商会を介した取引で、不審な物品の流通があるとの噂を伺いました。どなたか、そのことをご存じの方はいらっしゃいませんか?」


 言葉は軽い。だがその問いかけは、舞台上の空気を変えた。老商人が口を開く。彼の声には驚きと恐れが混じっている。帳面を開き、私はその数字を大勢の前で静かに示した。老商人は驚いた顔で、一枚の帳簿を掲げる。そこには確かに、南方商会から顧問筋へと向けられた大口の記録が記されている。金額、受取人の代名、受領日。客席の人々の視線が一斉に動く。


 その瞬間、侯爵は戻ってきた。顔色は青白く、体の空気は何かを悟った者のものだ。彼は私の方を見、そして私を睨んだ。私の胸は冷静だった。フォルクは近くで俯き、汗が光る。私は一歩前に出て、さらに言葉を重ねる。


 「ここにある帳面は、南方商会の記録の一部です。さらに、ヴァルターという者の領収記録、そして“戻す”の記述が一致する筆跡の写しがあります。これらは、単なる噂ではありません。記録と証言の裏付けがあるのです」私の声には揺らぎはない。だが会場のざわめきは瞬く間に増した。誰かが口々に噂を交わし、誰かが顔を青ざめさせる。私の目は、王城の顧問筋と見られる一団の中に焦点を合わせた。


 そのとき、正面の客席がざわめいた。黒い外套を纏った一人の男が立ち上がり、ゆっくりと歩み出る。彼の顔は仮面のように無表情で、周囲の注目を一身に集めた。王城の顧問――その一派の中で最も影の濃い男が、私の前に来て立ったのだ。彼の眼差しは冷たく、ゆがみなく私を見据える。


 「貴女は何を根拠に、これらを公に晒しているのだ?」彼の声は低く、会場の音を飲み込むように響いた。問いの鋭さは刃のようだ。彼はただ一人、私の行為を秩序の乱しとして公然と糾弾しようとしている。


 私はゆっくりと答えた。「記録と証言と筆跡の照合です。隠された取引の流れがここにあります。そして私は、昨夜、命を奪われました。戻されたのです。私を戻した術が、ここで繋がる。そしてその術を使い、誰かが私を実験に供したのです」


 顧問の顔に、わずかな変化が走る。周囲の空気は張り詰め、誰もが次の一手を息を呑んで見守る。侯爵は顔を真っ赤にし、フォルクは目を伏せた。舞踏会はいつしか法廷のようになった。私の計画がここでどこまで通用するかは、まだわからない。顧問がどのように反撃するか、侯爵がどのように動くか――すべてがこの瞬間にかかっている。


 だがそのとき、会場の奥にある扉が、静かに開いた。冷たい空気が一筋流れ込み、誰かがゆっくりと足を踏み入れた。足音は軽やかだが、不穏さを伴う。私はその人物の影を認め、胸の内で小さく言葉を呟いた――来るべき者が、来た。


(つづく)

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