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第五章 南方の商会

 朝靄あさもやが王都の路地を薄く包む頃、私は屋敷を出た。フォルクの協力を得て得た情報は、すべて南方の商会へと向いていた。三日月の紋章——「蜥蜴とかげ」の印は、表向きは海産物や香辛料を扱う大商会のしるしに過ぎない。しかし、影では禁術や秘薬を取り扱うという噂が根強く残っている。私はその噂を辿るため、あえて市場の喧騒へと身を置いた。


 外套の襟を立て、人目を避けるように歩く。街の空気は昨夜よりも活気を帯び、人々の声が小さな波のように交差する。露店の香り、干物と香辛料の匂い、遠くで打ち鳴らす鍛冶の音。私の心は冷静だ。復讐は熱に任せて行うものではない。情報を集め、相手の網の目を少しずつ広げる。今日の目標は三つだ——商会の外郭、密貿易の流路、そしてヴァルターへと繋がる小さな手がかり。


 まずは表の顔だ。商会の支店は賑やかで、女商人や運搬人が忙しなく動き回る。私は店先で色とりどりの布を弄りながら、周囲のやり取りを耳で撫でた。商いは言葉で繋がる。注文の噂、荷の到着、誰がいつ王城の顧問と会ったか——そうした些細な言い回しが、やがて真実の輪郭を浮かび上がらせる。


 「蜥蜴の荷が入るのは今月末だと聞いたが、質が落ちたらしいよ」と、布屋の老婆が会話に割り込む。私は無造作に笑い、何気なく相槌を打った。老婆の次の言葉が、私の狙いだった。


 「いや、来たのは夜の便だ。あれは表の人間が触らぬ品ばかりだ。特別な客にしか渡さぬとかでな——」


 特別な客。私の胸に微かな鼓動が戻る。フォルクが言った「王城の顧問の一派」という断片が、ここで確かな形を取り始める。私は会話の端で、商会の名を口に出す者を追い、その人物が向かう裏通りを目で追った。


 路地を抜け、小さな水路に沿った倉庫群の一角に着くと、私は息を潜めた。倉庫の影から出入りする者たちの顔ぶれは、表の業者とは違う。黒い外套、手袋、そして目つきの鋭い者たち。私はその一群に紛れて、足跡を辿る。見知らぬ者が一枚の布を差し出すと、受け取った者がそれを小さな箱に入れ、再び闇へと消えた。手口は簡潔で効率的だ。痕跡を残さぬよう、動作は無駄がない。


 そこへ、一人の女が現れた。年は若くはないが、目の周りに鋭さがある。薄紫の髪に小さな結びが見える。彼女は私を一瞥し、微かな笑みを浮かべて通り過ぎる。直感が働いた——彼女の指先に、あの三日月の紋章の痕があったのだ。小さな刻印の入った金細工の指輪が、紫の袖の下で光っていた。


 私は直ちに後を追った。女は細い路地を抜け、小さな建物——表向きは香料商の店の裏口へと入っていく。扉は隙間があり、中から低い声が漏れる。私は人目を避けて窓越しに覗き見ると、室内には薬草や瓶が並び、壁には古い図式が貼られている。そこには確かに禁制の書物を思わせる図があり、私は息を飲んだ。


 女は振り向き、私を見て足を止める。驚きは一瞬で消え、彼女は私に向かってゆっくりと手を差し伸べた。


 「来るとは思わなかったわね、令嬢」——彼女の声は低く、だが含みがある。名を名乗る気配はない。私は表情を崩さず、相手の歩調に合わせて店の中へ入る。


 「あなたが――」と思考が追いつく前に、女は微笑んだ。「私はセラ。南方商会の手伝いをしている。だが、あなたには別の顔がある。王都で知れ渡るほどの——戻った令嬢、アレクサンドラね」


 私の胸のどこかが締め付けられる。驚きよりも先に、彼女の情報の速さに恐れを抱いた。私の「戻り」は既に広まりつつあるのか。情報の流通の速さを侮れば、命が危うくなる。私は冷静に彼女を見返した。


 「そう、それが私。あなたは蜥蜴に関わっているの?」


 セラは目を細め、壁の図式に手を触れた。「関わっている、というより“使われる者”だ。表の仕事は香料や織物だが、裏では依頼を受けて特定の薬や解法を作る。私の仕事は調合と――時に、証拠を消すこと。だが今回は違う。君の件で急に様子が変わった。王城の顧問筋が直接注文を出した。だが、彼らは顔を見せない。指示はいつも精密で、代金も惜しまない」


 私は座敷の隅に積まれた古い帳面に視線を走らせる。そこには荷の到来記録や、受領者の仮名、代金の額が走り書きで残されていた。セラは私の目線を見逃さず、小さく肩をすくめる。


 「見てはいけないものを見た、という顔ね。だが、見るべきは金額よ。南方の商会は普段、市場取引の範囲で動く。だがこの二、三回の記録は高額すぎる。黒曜石の指輪のような物品は、その代金でもおかしくない。私は疑問に思い、屋敷に戻ると使者が来て、倉庫から品を出すよう命じられた。その時、初めて王城の一派が絡んでいると気付いた」


 私は紙片を指で押さえ、思考を巡らせる。セラの供述は現実的で、しかし慎重だ。彼女は自らを危険に晒すような人物には見えない。だが信用も慎重に扱うべきだ。私は一瞬ためらい、次の言葉を決める。


 「あなたが協力するなら、私はあなたを守る。君の店を潰すつもりはない。だが、君に訊きたい。ヴァルターと商会のつながりはどの程度か。彼は単独の供給業者か、それとも継続的な取引相手か」


 セラは顎に指を当て、眉を寄せる。やがてゆっくりと頷いた。


 「ヴァルターはここ数か月、定期的に来ていた。小さな薬瓶をいくつか、そして特別な乾燥草を注文した。だが彼は金を惜しまない。商会の者は皆、彼を薄気味悪がるが、顧問筋の顔を知る者はいない。顔は見ない、代金は手渡し。まるで取引そのものが人目を避けることを前提にしている」


 私の心は確かに組み上がってきた。ヴァルターは単独ではなく、南方商会を経由している。さらにその上に、不特定の顔を持つ顧問筋——王城の陰影——が存在する。私は静かに呼吸し、決意を新たにした。


 「明日、証拠をもっと集める。あなたには当分、表に出ないでほしい。もし誰かが動けば、私に知らせて」私は鋭く言い放った。言葉には保護の約束と、同時に危険の重さが混じる。


 セラは一瞬黙り、やがて小さく笑った。「分かった。だが覚えておいて、令嬢。戻ったあなたもまた、人を振り回す立場になった。真実を追うことは正しい。だが、私たちは皆、無関係ではいられない」


 店の外で私はひとり立ち尽くした。市場の喧騒は変わらずだが、私の内側には重い決意が蓄えられている。フォルクの示した糸は、もはや屋敷の中だけのものではなかった。王城と商会と、古医師ヴァルター。この三角形は私を中心に回り始めている。私がどの方向に糸を引くかで、誰かの運命が揺れるだろう。私は思い出す——私を殺した夜の蝋燭の炎、夫の冷たい掌、私の崩れた視界。


 だが今は怒りだけではない。私はこの復讐を、私自身の理性と術で筋道立てて進める。必要ならば、王城の顧問の足元を掬うために、証拠を露にするだろう。だがまずは、秘密の流通路を絶つこと——商会の書類と、ヴァルターの足跡を洗い出し、そこから顧問の名を引き出す。その作業は時間と慎重さを要する。私は夜が更ける前に屋敷へ戻り、マルティンとフォルクに今日の調査結果を伝えると、次の動きを協議した。


 窓の外、王都の灯はやがてまた淡く瞬き始める。私の影は長く伸び、屋敷の古い壁に沿ってゆっくりと消えた。真実に近づくほどに、影は濃く、そして冷たくなる。私はその寒さを歓迎した。なぜならそれが、私の刃を鍛える火だからだ。

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