第四章 露呈の夜
月光に照らされた顔は、私が最も見たくない――しかし最も予想してもいた顔だった。フォルク。侯爵の側近、その重厚な装いと堅苦しい礼節の仮面をいつも感じさせる男。月影に浮かんだ彼の瞳は、驚きと欲望と、どこか冷たい玩具を見るような好奇心で光っていた。
「アレクサンドラ──君が来るとは思わなかったよ」
彼の声は低く、しかし芝居めいていた。まるでこの偶然を演出したかのように、唇の端が上がる。
私の心は瞬時に複数の可能性を駆け巡らせた。フォルクが単独で動くだろうか。侯爵の最も近い側近が、夜に禁じられた薬を運び、古医師と取り引きする──それは侯爵の意志の反映か、あるいは侯爵の知らぬ所業か。だが、ここで真っ向から問い詰めれば、彼は口を閉ざすか、嘘で刃を隠すだろう。私は月明かりの下でゆっくりと笑みを作る。
「来るな、と誰かが言ったのね。でも、気になってしまって。あなたが誰と、何を密かに運んでいたのか、確かめたくて」
私の声は柔らかく、まるで世間話をする女のようだった。だが言葉の端々に仕掛けがある。フォルクの瞳が少し泳いだのを、私は見逃さない。
「愚かな真似をしたな、令嬢。侯爵のためと思ってやった。君には関係のないことだ」彼は手袋の先で何かを弄り、そこに入っている小さな袋を示す。夜の闇では色はわからないが、形からしてヴァルターへと運ばれる何らかの薬品だろう。
「侯爵のため、ね」私はゆっくりと首を傾げる。「では、教えてくれる? 侯爵の“ため”とは、どんな“ため”なのかを。私が昨夜、どのようにして──消えたのかを、侯爵は望んだの?」
フォルクの表情が硬直する。彼は瞬間、言葉を選び、そして吐き出した。
「侯爵は、王国の安定を願っている。君に危険な噂が立つことは許されない。侯爵の立場が揺らぐことは、国の均衡を乱す。お前が消えることは、最小の犠牲であり、最良の選択だった──しかし、計画に瑕疵があり、事は予期せぬ形で動いた」
その言葉の矛盾と冷たさは、私の心を凍らせた。侯爵が国のために人の命を秤にかける男であることは恐ろしくも想像し得る。だが「最小の犠牲」「最良の選択」と平然と言える者が、私の眼前に立っている。フォルクは続ける。
「だが、奴らはそれだけでは満たされなかった。『戻す』という奇術を用い、この世に戻すことで、より大きな力を生むと。君の血や意識が触媒となれば、術は強まる──侯爵はその可能性を恐れ、だが同時にそれを利用しようとした。私もまた、その命令に従ったまでだ」
言葉の一つ一つが、私の胸の中で重く響いた。戻す――。それが偶然の産物ではなく、計画の段階に組み込まれていたとするなら、私の「復活」は単なる奇跡ではない。誰かの意志が働き、私を道具として用いたのだ。だが、その「誰か」は一体誰か。侯爵か、それ以上の何者かか。
「利用した、というのね」私は静かに言った。「では教えて。私を戻した者は、今どこにいる? 誰が『戻す』を指示した?」
フォルクは目を逸らし、短く呻いた。彼の口元にわずかな苦味があった。
「わからぬ。私は指示を受け、動いただけだ。書簡は封をしてあり、署名は蜥蜴の紋章――侯爵家とは違う。侯爵もその紋章を気にしていたようだ。だが詳しいことは、私にも見えぬ。術を行ったのはヴァルター。だが、その背後にいる者は、もっと上だ。王城の顧問、あるいは──それ以上かもしれぬ」
「顧問……」私の頭の中で、王城と侯爵家と古医師の名が結び付く。何かが大きく歪んでいる。私を殺した者が単なる夫の過失や激情ではないことは、もう疑いようがない。だがここで感情に流されれば、餌を与えるだけだ。私は冷静を保ちながら、次に何をするかを決めた。
「あなたがそこまで口を割ったのは、何かの拍子に動揺したからね。ルーカスの話、そして私がここに来たこと。君は王都の小さな動きに敏感だ。では、拾った袋を見せて」私は一歩たりともしなかったが、拡げた掌に誘導するように見せた。
フォルクはためらいながらも、袋を私に差し出す。中には小瓶が二つ、小さな粉末を包む包み、そして薄い金属片が入っていた。金属片は不思議な紋様を刻み、黒曜石の指輪との関連を示唆する。私はそれを指先で撫で、冷静に言葉を紡ぐ。
「私はこれを暴けばいい。侯爵の書斎に残る手帳とこれらの一致を突き付ければ、侯爵の立場は揺らぐ。だが私は王都の騒ぎなど望まない。私が願うのは、ただ一つ――真実だ。あなたは、誰が本当に私を消し、私を戻したのか、知っていることを話してほしい。でなければ、あなた自身の名が暴かれる」──脅しと提案を交えた微妙な均衡だ。
フォルクは唇を強く噛む。沈黙が長く流れ、夜の冷気だけが私たちの間に落ちる。やがて彼は肩を落とし、小さな声で囁いた。
「もし私が話せば、侯爵は私を取るだろう。だがそれ以上に、君に近付いた者たちが危険に晒される。だが……一つだけ言おう。『蜥蜴』の紋章は、南方の商会──それも王城の顧問の一派と結び付く者たちに使われる。彼らは名目は商人だが、裏では禁術や秘薬の流通に関わる。ヴァルターはその一端に過ぎない。君は今、ただの被害者ではない。試験体だったのだ」
私の指が冷たくなるのを感じた。試験体。言い換えれば、私は他者の実験材料だった。私を殺し、そして戻すことで何かを確かめる――その発想は理不尽を超え、冷徹な残虐性を放つ。だが同時に、そこには弱点もある。実験には記録が必要であり、人が関われば痕跡が残る。
「ありがとう、フォルク」私は短く礼を言い、袋をそっと受け取る。「君の命を今ここで奪えば簡単だったかもしれない。だが私は命を取る復讐ではなく、真実を求める。君はまだ選べる。協力すれば、君もまた、名誉を守る道があるかもしれない」
彼は震える手で小瓶を握り締める。月光の下、彼の顔に苦悩と灰色の安堵が交じる。私たちはしばし、黙してその場に立った。遠くで夜の犬が吠え、風が枯れ葉を掻き寄せる。
「だが、ひとつだけ条件がある」フォルクが低く告げる。「それは侯爵の名を公にすることなく、この一連の流れを断ち切ることだ。君が望むなら、我々は内側から糸を引き、真の黒幕へと辿り着く。だがその途は危険で、誰かを失うかもしれぬ」
私は夜空を仰ぎ、微かに笑った。復讐は一つの刃で決まるものではない。時に網のように張り巡らせ、糸を一本一本手繰り寄せることこそが、最も確実な方法だ。私はフォルクの差し出す手を見据え、そしてゆっくりと頷いた。
「協力を受ける。だが条件は私だ。誰に協力するかを選ぶのは私。裏切りがあれば、その時に刃を下すだけだ」
フォルクは深く息を吐き、私の目を真っ直ぐに見た。彼の中の何かが壊れ、また組み直される音がしたように思えた。私は黒曜石の指輪の断片を掌に包み込み、冷たい夜風を胸に受けた。戻された命は、今や道具から主導者へと変わろうとしている。
裏切り、陰謀、そして静かな復讐。私の道はまだ長い。だが最初の糸は、今、手繰られた。王城の顧問、南方の商会、ヴァルターの禁術。そのすべてが、やがて繋がる。私はマルティンとともに、屋敷へと戻る影の中で、ひとつの確信を抱いた――真実を追い求めるほどに、失うものもまた増えるのだと。だが、それでも私は進む。私を殺した者に、必ず答えを要求するために。