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第三章 糸を引く宴

 翌日の午前、私は静かに準備を整えた。今夜は小さな舞台を用意する——侯爵の近習、ルーカスを中心に据えた社交の場だ。彼を露呈させるのに最も効果的なのは、公の場での些細な揺さぶりだった。人は見られているときに、最も自分らしい欠点を見せる。私はそれを利用するつもりだった。


 昼過ぎ、私は屋敷の中庭で小さな茶会を催した。招いたのは侯爵の側近や近隣の領主、そのほか客寄せともいえる顔ぶれだ。私の振る舞いはいつも通りに見せ、笑顔を振り撒く。そのなかでこそ私は観察を続ける。動揺は目に、言葉に、所作に現れる。私の問いは軽く、話題は世間話から次第に昨夜の「奇妙さ」へと誘導する。


 「昨夜は驚きましたわね。あの指輪、奇妙な意匠でした」「三日月の印の噂、聞かれたことはありますか」——私が話題を振ると、周囲は一瞬ざわめき、小さな波紋が広がる。ルーカスは最初、平静を装っていたが、私がわざと彼の名前を呼び、指輪の由来について尋ねると、彼の手がわずかに震えた。酒杯の縁に触れる指先に、汗の光が滲む。


 私はその瞬間を待っていた。視線を穏やかに、しかし確実に彼へと定める。


 「ルーカス、昨夜、侯爵様の書斎で何か見聞きしませんでしたか? 些細なことでも構いませんのよ。たとえば、誰かが外套を落としたとか、誰かが手袋を外したとか——」


 公然とした問いに、周囲の空気が固まる。ルーカスは顔を青くし、ふるりと目を泳がせた。幼さを残すその顔は、長年の奉公で養われた礼節とは裏腹に、今は子供のように怯えている。私は少し首を傾げ、静かに笑った。怖れは人を喋らせる。私はそれを何度も見てきた。


 「……昨夜、侯爵様の外套係が庭で何かを拾っておりました。そのあと、近習の者がこっそりとそれを受け取り、書斎へ運びました」ルーカスの声は掠れていた。言葉は単純で、それ自体は重要ではない。だが彼の言い淀みや視線の泳ぎは、彼がもっと見てしまったことを示唆している。私は続ける。


 「誰が、その『受け取った者』ですの?」


 彼は一度唇を噛み、顎を引いた。小さな沈黙の後、ぽつりと名を漏らした。


 「――フォルクです。侯爵様の側近、フォルク殿です。夜更けに私の目の前を通り、手に小さな袋を抱えていました。手袋を外したとき、ふと見えた布地に三日月の意匠が――それで、なんとなく気になって、庭師に拾わせたのです」


 フォルク。侯爵のもっとも信頼の厚い近臣の一人。私の心に一瞬、別の感情がよぎる。表面上では侯爵の「顔」として振る舞う者が、実は最も深いところで糸を扱っている可能性がある。だが、それはまだひとつの仮説に過ぎない。私は声の調子を変えず、静かに次の一手を示した。


 「よく教えてくれましたわ、ルーカス。その勇気に感謝します」私は優しく頬に手を添える仕草をし、周囲の者たちに笑顔を返す。ルーカスの肩から、少しだけ力が抜けるのが見えた。私の優しさは、刃を隠すための布だ。人は甘言に弱い。私はその心の隙を、次にどう利用するかを考えた。


 夕刻、マルティンから更なる報告が上がる。フォルク殿が昨夜、侯爵と密談をし、そのあと長時間にわたり書斎の灯を消さなかったこと、そして侯爵が王城の顧問と会う前に、ひそやかに人を遣わしていたこと。手帳に記された「戻す」の一語は、もはや単なる風聞ではない。私はその夜、侯爵の書斎に残された痕跡をもう一度見たくなった。


 「見たいものがある。私を連れて行って」私は囁いた。


 書斎は普段、侯爵以外の者を寄せ付けぬ場所だ。だが侯爵は今、王城へ向かっている。屋敷は静まり返り、使用人の数も少ない。マルティンは一瞬躊躇したが、私を見ると堅い決意を感じ取り、鍵を取り出した。書斎の扉は私の指先で開いたとき、古い木の匂いと紙の粉の匂いが混じった。最後に灯がついていた机は、何か急ごしらえで調べ物をした形跡が残る。


 机の引き出しを探ると、私は小箱を見つけた。蓋を開けると、そこに入っていたのは、黒曜石のかけらと、小さな錠剤のようなもの、そして薄い羊皮紙に包まれた手紙だった。手紙の文字は乱暴で、急いで書かれたものに見える。私は慎重にそれを開いた。


 羊皮紙には数行だけ、色あせたインクで書かれていた。——「予定通り。ヴァルターは受領した。次は旧医師屋敷。夜の十一時、廃塔の裏口。黙して待て」。差出人はない。だが署名とも思える印が、角に押されていた。それは小さな三日月の印章で、黒曜石の指輪の意匠と酷似している。


 私の掌は、ほんの少し震えた。これで、ルーカスの語る手袋の正体が繋がった。フォルクが運んだのは、小さな荷物。ヴァルターという名は噂にあった古医師だ。だが「旧医師屋敷」「廃塔の裏口」——それはもう、田舎の伝承や噂話ではない。誰かが確固たるルートを持ち、夜ごとに動いている。私を殺した方法、そして私を戻した理由の糸は、確実にこの方向へと伸びている。


 だが手紙が示す「廃塔」は、王都の外れにある古い研究所の跡だ。そこはかつて禁制の研究が行われていたとされ、村人は夜近づかぬようにしている。そこへ行くことは危険を伴う。だが真相を掴むためには足を踏み入れなければならない。


 私はマルティンを見た。彼の目は疲れているが、やはり私のために動く決意がある。


 「今夜、行きます」私は明瞭に言い切った。


 彼は一瞬息をのみ、そして静かに頷いた。忠義は時に命を賭ける覚悟を内包するものだと、私は知っている。だが彼と共に行くことには意味がある。執事は屋敷の動きを知る。外部の者の足跡を消すことも得意だ。私一人で行けば余計に目立つ。だが二人ならば、少しだけ安全になる。


 夜が更けると、私は黒布で顔の輪郭を隠し、薄手の外套をまとって屋敷を抜け出した。月は淡く、雲が時折顔を出す。廃塔への道は、思ったよりも近い。私は心を静め、歩を速める。復讐は衝動ではなく演算だ。だがいまは、その計算の結果が正しいかどうかを、夜の暗がりで確かめる時間だ。


 廃塔の影が目に入ったとき、私は立ち止まる。塔は半ば崩れ、蔦に覆われている。裏口には古い格子戸があり、錆びた鎖が垂れている。そこで私たちは待った。十一時を少し過ぎたころ、遠くから馬の靴音が聞こえ、影が塔の裏手へと近づいた。


 影は二つ。ひとりは手袋をした者、もうひとりは低い帽子を被った小柄な人物だ。彼らは何かを慎重に運びながら、まるで闇に溶け込むように動いた。マルティンは息を潜め、私に合図する。私は冷静に息を整え、夜の裂け目に身を潜めた。


 二人の言葉は小さく、だがはっきり聞こえた。——「ヴァルターのところへ」「間違いなく、あの薬は効く」「次は侯爵の命令だ」——その一言で、私は全身の血が冷たくなるのを感じた。侯爵の命令。そこには、夫の名が宙に浮かぶ。私が抱いていた仮説は、確かな形を得ようとしていた。


 だがその瞬間、足元で小石が鳴り、影のひとつが私の方向を向いた。薄暗がりの中で、彼の目が私を捉える——。私に向けられたその視線は、ただの偶然ではなかった。誰かが私を待っていたのだろうか。それとも、私が気づかれるように仕組まれた罠か。


 影の一つが、低い声で言った。


 「来てはいけない、と伝えたはずだ。だが——君が来るとは面白い」


 闇の中、声が笑った。冷たく、軽やかに。私はその声を知っているような気がした。だがそれを確かめる余裕はなかった。目の前で動く人影が、私を剥き出しにする。


 「アレクサンドラ?」その声は、私の名を呼んだ。短く、驚きを含んだ。次の瞬間、月明かりに照らされた顔が見えた——その顔は、私が最も見たくない仮面をつけていた。

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