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第二十八章 裏裏の帳

 縫合は始まったが、布の裏側に残る糸玉はそう簡単に消え去らなかった。私は朝に目を覚ますと、いつものように書斎の机へ向かった。窓の外では街が再び日常を取り戻すふりをしている。だがその日常は、裂かれた傷口に貼られた新しい絆創膏の上から流れる血を隠せはしない。私たちのすることは縫い物ではなく、大きな外科手術の続きだった。


 まずやるべきは、表に出せる事実を最大化することだった。外套の者たちの会合、ヴァレンティン家の資金流、地下冊子――すべてを書面で結び、誰がどう承認したのかを一つの図に落とす。だがその図の最後尾に、まだ一つ、どうしても穴が残っていた。女官イザベラの便箋に見え隠れした小さな符号――それは「背後の鍵」を示す。鍵がどの扉を開けるかを見つけ出すのは、私の役目だ。


 侯爵は公的な場で身体を張り、その誠実を見せた。だが彼の表情は深い疲労で横たわっている。彼は私にそっと囁いた。「君が望むなら、我が私室の全てを調べても構わぬ。私の名に傷がつくのなら、君の望むところまで明かせ」その言葉は重い贖罪だった。私は首を振らず、ただ頷いた。


 レオンは更に深い情報を提供してくれた。彼が保管していた帳の中に、王城の古い役職名と、数十年前に交わされた「非常時の暫定権限」に関する覚書があった。それは、王城の最も古い慣習を口実に、ある一部の役職に“裁量外権限”を密かに与えるための枠組みであった。だが覚書は曖昧で、解釈が分かれやすく、悪意のある手にかかれば「法の抜け道」になり得る。そこにVの温床がある──私はその一角を確かに感じ取った。


 だがもっと決定的な手掛かりは、イザベラが差し出した便箋の余白にあった。細い鉛筆で殴り書きされた、短い符号列。私はそれを何度も透かし、指で擦り、香を嗅いだ。そこに残る匂いは、侯爵の書斎でよく焚かれた香料と似ているが、微妙に異なる。嗅覚の記憶が、私の頭を一瞬閃光のように過った。——王太后の私室で用いられる香りだ。王太后は公には表に出ないが、古くから王城の政治文化に深く関わる人物であり、王に近い相談役である。


 その瞬間、私は怒りと寒気が交差するのを感じた。王太后の名は、既に人々の口にあがったとき深い震えを生む。彼女が関与していたとすれば、国の内部に手術の刃を入れる決断は、これまでより遥かに困難になる。だが難しいからといって引けば、また誰かが血を流す。


 計画は二つ。公に向けた手続きは続行しつつ、裏側では私たちだけが動く。王太后の私室に近い者たちの動きを洗い、確実な物証を掴む。物証は写真一枚でも、押印一つでもよい——「言葉」を裏切るものがあれば、仮面は剥がれる。だが王太后の周りは警戒が厳しく、簡単には近づけない。そこには信頼と恐れの混合物が渦巻いていた。


 私はレオンと侯爵に協力を頼んだ。レオンは古い通路の鍵を持っている。侯爵の名は表の扉を開ける盾になる。フォルクは影になる。セリアンは公的な窓口を押さえておく。夜、私たちは慎重に動いた。侯爵の許可を得たとはいえ、これは正式な手続きではない。王城の静けさを裂くように、私たちは上階へと忍び上がる。


 王太后の私室は、思っていたよりも簡素だった。古い調度品の奥に、小さな書棚。そこに埃を被った箱が一本、並んでいた。私が指を伸ばすと、箱は軽い音を立てて手中に収まった。鍵を差し、内蔵の錠を外すと、出てきたのは古い便箋の束と一枚の小型の押印板だ。押印板には、薄く「王城参謀」の符号が刻まれている——だがその脇に、何者かの細い瘤状の刻みがあった。イニシャルか、印章の一部か。私は息を止めて、それを写真に撮った。


 その時、背後でかすかな音がした。気配を否めば、扉の影に人影が揺れる。フォルクの低い声が耳元で囁く。「誰か来る――急ごう」


 私たちは箱を持ち出し、通路を下る。だが廊下の石は寝静まった城でも響き、足音はどこかに伝わった。角を曲がると、薄明かりの向こうに一人の女が立っていた。彼女は白いヴェールを付けている。年齢は五十を越えているだろう――あの王太后の側近、女官ではなく、もっと深い立場の老侍女だった。彼女の目は驚くほどはっきりと私を見据え、次の一言は、まるで長年の黙秘を今解くかのように重かった。


 「アレクサンドラ殿。あなたがここへ足を踏み入れるとは、勇敢さか愚かさか。だがたった一つの事を忘れている。紙も押印も、我々が読み替える術を持っている」


 フォルクが咄嗟に刀の柄を握り、侯爵が一歩前に出る。だが女は小さく笑い、手を振っただけで動かない。その笑みは、慈愛のようであり、同時に狡猾の匂いを放っていた。


 「我々は長くこの国の均衡を考えてきた。君は白日の下で全てを晒すと言った。だが白日には光と影がある。影を消せば、やがて光そのものが痛む。君はそこまで考えているのか?」


 彼女の言葉は私の胸を突いたが、恐れで体が動くわけではない。私は静かに箱を差し出した。「これが証拠です。王太后の私室にあった。あなたは説明できますか?」


 女は少し顔を曇らせ、そして驚くほど冷静に言った。「それは古い文書の写しね。誰かがその一部を切り取り、新しい文言を書き加えたのかもしれない。真偽は鑑定に出すべきだ。だが、君が持つ写真は既に外へ出た。君は味方を多くした。だが忘れるな、アレクサンドラ。真実は紙だけではない。動機と因果を繋ぐのは人の心だ。心を辿れば、別の答えが出てくるかもしれぬ」


 彼女の言葉は真実でもあるし、誘いでもある。私は箱を抱きしめたまま、恐らくはこの女が私に与えた「選択の時間」を感じた。ここからどう動くかで、最後の糸の切り方は変わる。公に突きつけるか、まずは王太后と静かに問質するか。私は短く息を吐き、決めた。


 「鑑定に出す。外の目を入れて、全てを明らかにする。それが最も公正だ。ここでの言葉遊びに屈するつもりはない」


 女の瞳が一瞬揺れた。その揺れは、薄く安堵にも見えるが、同時に深い悲哀を伴っていた。


 「ならば良い。だが覚えておきなさい、若き令嬢。縫合の夜は長い。裂け目を縫い合わせる者は多いが、糸の行き先を見誤れば、また裂ける。私の務めは、かつてその裂けを最小にすることだった。君が望むなら、私は証言もする。だが、そのとき、君は何を差し出す?」


 廊下の闇が重く、私の内側で刃がさらに研がれるようだった。箱は私の掌で少しだけ震えた。私が差し出すもの――それは、個人的な復讐の最終の自由か、それとも公のために自らの刃を収める代償か。決断の重みは増していく。王城の夜は深まり、外では風が塔を叩いた。私たちは、これから最後の段階へと向かう。

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