第二章(続き) 観察の仮面
その晩、私が大広間へ下りると、灯りは柔らかく、談笑はたゆたっていた。王都の夜は長く、人々は杯で心を温める。私の到着に一斉に視線が流れるが、その多くは社交用の好奇であり、ある者は好意的に、ある者は興味深げに眉を寄せる。私はその重なり合う視線を楽しんだ。見せかけの哀れみ、密やかな憐憫、あるいは警戒。そのすべてが情報だ。
侯爵エドゥアルトはいつでも中心にいる。彼の笑顔は周囲の輪を撫で、誰もが安心するように見せかける。だが私はその笑顔の下にある“間”を読む。昨夜の銀針の所作、手袋をはめた密使、黒曜石の指輪、そして書斎の「戻す」。それらは偶然の連鎖ではない。誰かが綿密に糸を張り、私という存在を消し、また別の意志で戻した――その痕跡が屋敷に残っている。
夕刻の室内で、私は一つの小さな計略を試みた。話題を巧妙に仕向け、誰が過剰に嫌悪を示すか、あるいは過剰に沈黙するかを見るためだ。話題の対象は、古医師ヴァルターの名と、民間伝承に残る「戻す」という禁術の噂。どちらも確証はないが、疑念が眼差しの揺れを引き出すには十分だった。
「以前、外れの村で戻す術を扱う者の噂を耳にしました。奇妙なことに、術を扱った者は代償を求めることが多く――」
私は口を眉一つ動かさず、絵空事を語るように話した。客たちは小声で囁きあい、ある者は肩をすくめる。だがひとり、侯爵の側近と見られる年若い男が、言葉を止めた。彼の顔色が一瞬で失われ、掌が酒杯に絡む。私はそのささやかな震えを逃さなかった。
会話は常に刃だ。相手の感情を刃先でなぞり、どこが脆いかを探る。私は微笑みをたたえて話を続け、やがて相手の目に小さな火花が戻ると、話題を変えて礼節に戻す。表向きの私の優雅さは保たれ、だが心は静かに索を引いていた。
夜が更け、客が散り始める頃、私は執事のマルティンに小さな合図を送った。彼は既に侯爵家の使用人たちから集めた、些細な証言の断片を膝に置いていた。使者が手にした小袋の話、庭師が拾った黒い布片、侯爵の書斎で見つかった手帳の断片。点は集まり、線を引くと輪郭が見えてくる。
「手帳の最後の記載は――『戻す』とだけありますか?」私は静かに問うた。
「はい、令嬢様。日付は不定期で、古い記述と混在しています。最後の数冊は昨今のことを匂わせていますが、筆跡は複数の者による可能性がございます」マルティンは慎重に答えた。彼の声には未だ震えが残るが、同時に覚悟がある。
「複数の手が関わっている――それが正しいなら、黒曜石の指輪は単独犯の印ではない。もっと大きな枠組みの象徴だろう。侯爵一党だけで説明できるものではないはずだ」
私は手帳を開き、薄く擦れた文字を指で辿る。そこに何かの呪文や図形があるわけではない。だが繰り返される語の組み合わせ、同じ語句への執着がある。人は習慣と目的で独特の語を繰り返す。私はそうした反復を手掛かりに、誰が何を為しているかを推理した。
「まずは表面の糸を一本だけ引こう」私は低く囁いた。「侯爵の側近の動揺が気になる。彼が昨夜、何を見たのか。それを突けば、より深い者の名が出るかもしれない」
マルティンは頷いた。彼は既に屋敷の下働きや庭師にひそやかに話を聞かせ、誰が夜に徘徊しているかを洗い出していた。今夜のうちに一人、侯爵の近習から「見聞きしたこと」を引き出させると、マルティンは言った。それは脅しでもなく、甘言でもない――単なる観察の連鎖だ。私は相手が動揺する「理由」を作り、その理由が表に出るかどうかを見届けるだけでよい。
夜の終わりに、私は自室へ戻ると、窓辺に立ち、王都の暗がりを眺めた。灯は美しいが冷たい。家々の光が遠く連なり、人々の営みが小さな点として揺れている。その中に私の死と復活の航跡がある。誰がその航跡を描いたのか、誰が線を引き、途切れさせたのか——答えを探すほどに、疑念は深まる。
ふと、紙片が机の上で震えた。私は袖で掴み、開くと、薄い便箋が一枚滑り出た。墨で走り書きのように書かれた四文字が目に入る――
「黙して待て」
文字は乱暴で、直線的な筆致だ。差出人はなく、封もない。一見すると脅迫にも取れる文面だが、どこか冷静さを含んでいる。だれかが私を見ている。だれかが私の動きを知り、静かに次の手を待てと告げている。脅しなのか、忠告なのか、それとも試しなのか。
私は便箋を折り畳み、胸の内に置いた。外に出せば誰かの手が震えるだろう。だが内側にしまえば、私は冷静に対処できる。紙一枚の威力は人の思考を惑わせる。重要なのは、それにどう反応するかだ。
「明日は侯爵の近習を招いて、再度の会話を演出する。彼の動揺を公の場で誘発し、その反応を観察する。もし彼が露骨に怯えるなら、背後にいる者の名を引き出せるかもしれない」
私は静かに決めた。刃はまだ見せない。だが、今夜は確かに、誰かが私に合図を送ってきた。合図の意味はまだ計り知れない。だが、私の中の炎は、より明るく、そして冷たく燃えていた。
窓の外、遠くの丘陵で鐘が一度鳴る。音は柔らかく、だがそこに合図の余韻が残るようだった。私は便箋を懐にしまい、夜の闇へと溶け込む決意を新たにした。翌朝の舞台は、すでに用意されている。