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第二十五章 白日の選択

 朝陽が城壁の石を染める頃、私たちは三つの場所で同時に動いた。王城の大広間、街角の活版屋、国外使節団の公館――地下の金庫で見つけた羊皮紙と、地下冊子の写しは、それぞれに渡され、同時に公開されるよう段取りを組んだ。レオンが王城の内通路を抑え、マルクスが公文の手続きを進め、セリアンが王太子の名で国外代表に最終の許可を取る。侯爵は公に名乗り出て、私たちは公の場で証拠を突きつける覚悟を固めた。


 私は書斎で最後の一枚を握りしめ、深く息を吐いた。紙の端に残る朱い跡は、ただの墨と違う重みを帯びていた。誰かの手が、この国の運命を紙の上で図っていたのだ。私の胸にある痛みは、復讐という一語で終わらない。紙を曝すことは、人々の信頼の均衡を崩す行為だ。だが均衡が嘘であったなら、崩すしかない。私は刃で切ると同時に、縫い直すための仕事を始める決意を新たにした。


 最初に動いたのは海外の代表たちだった。彼らは公的な鑑定を終え、新聞の見出しよりも先に、王城の公電で報告を出した。次いで活版屋が大量のビラを打ち、街角で配り出した。王城の大広間にはマルクスが冊子の原本を据え、私がその前に立った。王太子は隣に座り、侯爵は身体を震わせながらも私に静かに頷いた。民衆の波は城外の広場でうねり、窓には人の顔が連なる。


 「これが真実です」私は声を張らず、しかし確かに言った。羊皮紙を示すと、ざわめきが一瞬で広がった。文面は、国家の均衡という名目の下で段階的な「試験」を承認する趣旨を記していた。署名は間違いなく王城の印章を含み、女官の名が朱で押されていた。証拠はここにある。誰がどう言い繕おうとも、紙は嘘をつかない。


 場内は怒号と同情と驚愕で一斉に揺れた。王太子の顔が青ざめる。マルクスは書類を手に取り、厳然たる声で手続きを宣言した。国外使節は証拠の真正性を保証した。だがその瞬間、扉の向こうで大きな衝撃音が響いた。――外套の残党が、最後の足掻きとして城門を襲ったのだ。


 騒乱を鎮める兵と、群衆の怒りが交錯する。だが私の心は別のところにあった。羊皮紙の差し出し人が誰なのか、署名の真偽はどうか。王城の最上層に繋がる痕跡を握った私たちを、沈黙に追いやろうとする力が、確実に動いている。


 その日の午後、女官の名で呼ばれた者が自ら公の場への出頭を申し出た。彼女の顔は平静を装っていたが、年輪が刻んだ瞳は疲れていた。王城の老人たちは彼女を擁護しようとする者、擁護を躊躇う者に割れ、場内は緊張の極致に至った。


 だが女官・イザベラの口から出た言葉は、単純な否認ではなかった。彼女は静かに語った。


 「私は署名をしました。だがあの文面が示す『実験』を、私は血を以て支持するつもりはありませんでした。署名は、文言の全てを承認する意思表示ではなく、手続き的な便宜を図るためのものとして置かれたのです。私はその解釈の幅を読み誤りました」


 その釈明は十分だろうか。民衆は「方便の言い訳」に耳を貸さない。だが同時に、権力の細かな操作――署名のあり方、委任の実情――が白日の下に出たこと自体が重要だった。王太子は口を噤まなかった。彼は決然と立ち上がり、国の秩序と公正の両方を守るための声明を出した。


 「我々は本日の事案を、全面的に独立監査に付す。誰も例外はない。もし手続き上の過誤があったなら、それは法の下で裁かれる。国は混乱を恐れて隠すのではなく、混乱を乗り越えるだけの強さを見せねばならない」


 王太子の言葉は場を抑えた。しかし、その夜になって、私は事態がもう一つ別の段階に入ったことを感じた。羊皮紙の公開は始まりだった。次は連鎖の一点一点を引き抜いて、誰が自らの手で承認を押したのか、誰が代理を演じたのかを明らかにする仕事だ。そしてその過程で、私が守りたい人々の命をいかに確保するか――それが差し迫った課題になった。


 翌朝、王城の外で争いが起きた。街角には「真実を!」と叫ぶ群衆、そしてかつての支持者であった貴族の一団が、秩序の回復を求めて集まる。ヴァレンティン家の派閥はまだ息を潜めている。彼らは今、法を利用して反撃しようとする。だが我々は先手を打った。国外の代表たちは既に写しを各国へ回しており、国際的な目が王都を注視している。隠蔽の余地は狭くなっていた。


 法廷での審理が続く中、私は侯爵と静かに話した。彼の顔には隠しきれない後悔があり、しかし今は冷静さが必要だ。


 「あなたは、どうしたいの?」私は率直に訊ねる。夜の静けさの中、声は小さかった。


 侯爵はゆっくりと眉を寄せ、短く息を吐いた。「私は君を守りたい。だがそのために真実を隠すことはできない。もしそれが我が家の名を失墜させるなら、それもまた我が罰だ。……だが、我が名に取り返しのつかぬ汚点があるのなら、君はそれを私に言ってくれ。私はその刃を受けよう」


 その言葉は重かった。だが私は侯爵をただ責めるつもりはなかった。真実を晒すことは、汚点をさらす行為であると同時に、不正の体制にメスを入れる希望でもある。侯爵が己の名を差し出す覚悟を見せたなら、私はその誠実さを軽んじることはできない。


 審理は日ごとに積み重なり、書面と証言と映像が交差していった。ヴァレンティン家、商会、王城の参謀会、そして名を分けた「V」の連鎖――一つずつ証拠を当て、責任を明らかにしていく作業は骨が折れる。だが同時に、人々の苦悩や涙、取り返しのつかぬ過去も浮かび上がった。被害者の声が公に取り上げられること、その声を国家が聴くことが、私の当初の怨念を超えた目的になり始めていた。


 ある夜、戻った私の書斎に、一冊の小さな本が置かれていた。表紙にはあの日、廃寺で拾った一行の謎めいた言葉が書き込まれている――「刃の代償」。ページをめくると、匿名の手記が綴られていた。そこには、かつて「V」の会合に参加した一人の告白があった。匿名者は、名前を晒すことを恐れていたが、真実を伝える意思は強かった。


 「私たちは、均衡という言葉で自らを正当化した。だが均衡は人の体温を計る秤ではない。私が筆を執ったのは、怖れと保身だ。誰かを害するためではなかった。しかし結果として、私たちは人を死なせた。私は今、年老いて、やっとそれを認める勇気を持てた」


 ページを閉じたとき、私は静かに涙が滲んだ。復讐の渦中で私が忘れがちだったもの――人の怯え、弱さ、赦しの可能性。真実を晒すことは痛みを生む。だが痛みの中にこそ、再生の種が埋まるかもしれない。


 翌朝、法廷の扉は再び開く。私は席に着き、書類の山を見下ろした。刃はここにある。だが今、私が握るのは裁きの刃だけではない。記録と声と、人を守る決意も一緒に握っている。名を曝すことは、人々の生活を揺るがす。だがそれが未来に続く道ならば、私はその道を選ぶ。


 鐘が一つ、低く鳴る。公聴会は再開され、白日の光が再び書類の上に落ちる。外では群衆が息を詰め、誰もが次の頁を待っている。私たちの戦いは、ここからが本番だ。真実を裁きに変え、同時に壊れたものをどう繕うか――それこそが、私の次に振るう刃の向き先である。

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