第二十四章 血と紙の代償
廃寺の中庭は、月光に銀紙を撒いたように静かに煌めいていた。だがその静けさは、やがてひび割れた硝子のように鋭く砕けてゆく。私が前へ出た瞬間、誰かが短く咳払いをして、他の者たちの顔に緊張を走らせた。フォルクは影に潜み、手元には短剣。マルティンは震えるが確かな手つきでマルセルを押さえ、レオンはひとつ深いため息を吐いた。
「やめろ」ヴァレンティン家の代理が叫ぶ。だが言葉は鉄扉に跳ね返るだけで、外へは届かない。ここは我々と彼らの密室だ。逃げるにも我々は周囲を固めている。彼らが今更手を引くわけがない——だが私の望みは、血だけでは終わらせないことだった。
「皆さん、あなたがたのやり方は紙の上で美しく整えられている。だが紙が人の命を秤にかけてよい理由にはならない」私の声は冷え、訴えるように振るった。誰かが笑った。笑いの中には焦りが混じり、強がりが見えた。
会合の中心にいた男が立ち上がる。コンスルと呼ばれていた、ヴァレンティンの影のひとりだ。彼はゆっくりと歩み寄り、私のすぐ前に立った。月光が、彼の頬の彫りを深く際立たせる。
「アレクサンドラ殿、あなたは勇敢だ。だが、愚かでもある。暴露は混乱を呼ぶ。秩序を守るためには時に、汚れ仕事も必要なのだ」彼の声は低く、均整の取れた毒を含んでいた。
「秩序のための汚れ仕事は、誰が負うべきなのか。あなた方が“実験”を行うとき、代償を払わされるのはいつも無垢な者たちだ。私の命も、私の戻りも、あなたがたの実験台だった。それを『秩序』という言葉で包んで良いのか」私は顔を上げ、彼の目をまっすぐに捉えた。
会合は低いざわめきに包まれ、誰かが合図を送るように手を上げた。だがその瞬間、闇がざわついた。外周に潜ませておいた小群が廊へと飛び込み、廃寺は一斉に動いた。ごく短い、鋭い争闘——だが計画は周到で、我々は一歩も引かぬ。最後はコンスルも、隙を突かれて床に押し倒された。彼は顔を赤くして怒声を上げたが、マルセルのような小物ではなく、ある種の尊厳を失いかけた老人のように見える。
「誰が本当に司令を下したのかを言え」私は刀の鞘の端で彼の腕を押さえつけ、低く言った。声は震えない。だが目の奥に、刃の熱が揺れた。
コンスルは私を見上げ、ひとつ笑った。その笑みは空気を冷やす。「我々は会合で合意し、合意を守る。だが『誰が』という問いは愚かだ。責任は分散される。だが…だが、君がそこまで追い詰めるなら、君に言おう。最後の召集は、王城の一枚の手紙が契機だ。差出人は匿名だが、内容は明らかだった。『均衡のための試験を承認する』と。承認の名は複数で、代表の印はLMだ。しかし、その上にもう一枚——王城の印章と、さらに…」彼は言い淀んだ。「――署名。直接の署名だ」
その言葉で空気が凍る。私の胸の中を、短い電流が走った。紙はあった。地下冊子には「参謀会」の名が並んでいた。だが「直接の署名」とは何を意味するのか。王城の「印章」と「署名」——もしそれが真実なら、最上段に付く者たちの意志がこの非合法な企ての背後にあることを示す。
「その署名を見せろ」私は命じた。声は冷たいが確かだ。コンスルは一瞬の迷いの後、ぼそりと呟いた。「その書面は、今夜のために隠されている。だが、もし君がそれを望むならば…我々は、ある場所へ導ける。――王城の古い金庫に、ある封筒がある。封蝋には王の印章があるという。そこに鍵があるのだ」
廃寺の風が私の髪を撫で、遠くで不吉な鳴き声がした。王城の印章。王の関与。私の体の中で何かが締め上がる。もしそれが真実なら、私が求めた「真実」は、国家の最上部をも揺るがす。だがその揺れは、国を裂く恐れを伴う。
「君たちは我々を導けるか」私は慎重に問うた。声は小さく、だが選択の重みをまとっている。コンスルは肩をすくめ、目を細める。「導くが、代償は高い。君はそれを悟っているか」
「知っている」私は答えた。刃はすでに研がれている。だが刃を振るう前に、全ての紙を押さえ、全ての名を曝す必要がある。誰かが私を“道具”と呼んだ夜を、私は二度と繰り返させないために。
夜明け前、我々は王城へ潜入した。行程は冷静に、几帳面に進んだ。レオンの古い通路と、侯爵の許可証が役に立つ。王城の石の冷たさが掌を刺すようで、心臓は激しく脈打った。金庫室は深部にあり、守りは想像より薄かった。これは誰かが秘密を意図的に残していた証拠でもある。
金庫の前に立つと、レオンは小さく息を吐いた。「ここだ」彼は言い、古い引き出しを開ける。中には封蝋の付いたいくつかの封筒と、羊皮紙の束があった。私の手が震える。封蝋には確かに王の紋章が見える。指でそっと封を割る。冷えた羊皮紙が白く裂ける。
そこに書かれていたのは——私が恐れていた、しかしどこかで予期していた言葉の列だった。
「王の名にて――国家の均衡を守るため、特定の“試験”を段階的に許可する。ただし、直接の署名は由無しだ。代表者に委任する。――」文面は古めかしく、だがその末尾に、確かに一つの署名が朱で押されていた。私の目はそれを追った。そこには短い横線と、見覚えのある筆致が――王太后に近い、ある女官の名が走っていた。
息が詰まる。女官の名は、表向きには決して国家の運営に深く関わらない者として知られている。だが年配の貴族ではなく、陰で王の相談に乗る立場を持っていた。その名がここにあることは、単なる悪戯や偽造では説明がつかない。文面の証拠は、確固たる。署名は真物だと私の目が告げる。
「どうする?」レオンが囁く。彼の顔は青ざめている。侯爵は私の横で肩を震わせる。マルティンは娘を抱いたまま、遠くで目を見開いている。全員の視線が私に集まる。私は一呼吸置き、羊皮紙を胸に抱えた。
「戻る。そして、全てを公開する」私は静かに言った。声は震えていない。胸の奥では、今まで以上に大きな怒りと恐れが渦巻いている。だが私が選んだのは真実だ。たとえその真実が国を揺るがすことになろうとも、私の命が道具にされたことの代償は、ここで清算されねばならない。
我々は金庫室を離れ、夜明けの城壁を抜ける。朝の光が東の空を赤く染める。紙は私の手の中で確かな重みを持っている。刃はもう一度研がれ、だが今回は裁きだけでなく、始めるための一突きである。紙を晒すことは誰かを泣かせるかもしれない。だが隠蔽を許すことは、また誰かの命を奪う。私の選択は明確だった。
廃寺での囁きから始まった夜は、王城の中心へと至った。糸は更に切られ、絡んだ輪はほどかれつつある。だが結び目の奥に、まだ黒い芯が残る気配があった。私たちが羊皮紙を公に晒すとき、どれほどの代償が出るかは分からない。ただ一つだけ、確かなことがある——私自身がその代償を引き受ける覚悟がある、ということだ。