第二十二章 近き寄生
封筒の短い紙片が私の胸に残した違和感は、昼の陽ざしで薄れるどころか、むしろ深く沈んでいった。匿名の警告──「汝の近くにある者を疑え」──それは挑発にも聞こえたが、同時に的確な指示でもあった。敵は外から来るとは限らない。糸は長く伸びるが、最も致命的に絡むのは身近な者の手だった。私は眠れぬ夜を過ごし、朝になれば行動を始めると決めていた。
まず私は、内側の写しの一部を巧妙に差し替えることにした。地下の冊子の中で、重要だが些細に見える一段を二種類用意する——A版とB版。A版はフォルクとセラに、B版は侯爵側近とマルティンに渡す。それぞれにだけ施した微かな水印、書き込み、印の位置のずれ。漏れが出たとき、どの写しが外に流れたかで、近くの誰が情報を外へ手渡したかを突き止められる。私は古い舞台の術を思い出した。観客の眼を誘導して、演者を露にする仕掛けだ。
会場に配布するという口実で、各人に別々の控えを手渡す。表向きは冗長性のための余分な写しだが、私の心の中では罠が綾を描いている。フォルクは黙って頷き、セラは顔にわずかな驚きを残しつつも協力を誓った。マルティンは普通通りに受け取り、何も変わらぬ様子で書類を胸にしまった。彼の腕の筋は、いつも通りに確かだった。だが「近しい者」を疑うのは平気で冷たい行為だという自己嫌悪が、一瞬胸を刺す。
夜、私は宴席を装って屋敷に人を集めた。歓談の間隙に、私はそれとなく酒杯を運び、心をほぐさせる。狙いは単純だ。外へ流れるものは、誰に最も簡単に差し出されるか。脅しや強制に使われるのは、たいてい弱い者の手だ。だが弱い者のなかには、守るべきものを抱えた人がいる――家族、借金、恐れ。私はその可能性を一つずつ頭に置いた。
午前を過ぎ、夜半に近づいたころ、フォルクが静かに合図する。屋敷の門近くで、見張りが一人、慌ただしく動き回っている。外套の影がひそめられ、誰かが屋敷の外で受け渡しを試みたらしい。だが今回、闇は私の味方だった。私たちはあらかじめ外側にも目を配らせておいたのだ。
フォルクの報告は簡潔だった。「受け渡しは行われた。相手は港の見慣れた顔だが、手馴れている。だが渡されたのは――マルティンが持っていたB版の写しと同じ変種だ」
その言葉で、広い部屋の空気が一瞬にして変わった。私の視線は自然とマルティンへ向かう。彼は談笑の輪の中で眼差しを逸らし、掌で杯の縁を何度も撫でている。笑みはあったが、どこかぎこちない。人は罪の前で確かに震える。私は立ち上がり、声を張ることもなく、静かに言った。
「皆、一旦ここで解散しましょう。明日はまた公の手続きが続く」
消え入るように人々が去る。残ったのは私とフォルク、マルティンだけのように見えた。だが裏口では二、三の影が控えている。私が求めていたのは公開の叱責ではない。私が欲したのは真相──なぜ近しい者が、写しを渡したのか。その動機を知りたかった。
廊下に出たとき、マルティンは私の後ろをついてきた。彼の足音は小刻みで、呼吸が早い。私たちは書斎に入り、扉を閉める。外では風が瓦を鳴らし、遠くで犬が一度吠えた。
「私に言いなさい」私は簡潔に言った。「なぜ、B版が外へ出たのか。誰が渡した?」
彼は俯いて、唇を噛んだ。顎の震えが止まらない。やがて、息を吸い、低く、しかし確かな声で言った。
「……フォルク、いや、令嬢。私がやった。私が外へ持ち出した。だが私は最初から裏切るつもりなどなかった。――娘が人質に取られていたのだ」
言葉は一撃だった。マルティンの手が震え、掌の汗が机の木目に落ちる。私は一瞬、彼の顔を見つめる。目は赤く膨らみ、涙を堪えている。彼は長年私の屋敷を支え、夜明け前にろうそくを灯して回るような男だ。もし彼が嘘をつくならば、嘘は何かで覆われている。だが彼の声には、揺るぎない痛みがあった。
「誰が?」私は冷たく訊ねる。問いは刃だが、必要な刃だ。
「マルセル・ヴァレンティンだ」彼の声には憤りも混じる。「彼は私の娘を港で捕らえ、南方の倉に幽閉した。『口を開けば彼女は死ぬ』と言われた。家族のために、私に選択肢はなかった。私はただ、変種を渡し、彼らが見張る者に小さな手がかりを渡すだけで済むと思った。だが事はここまで来た」
説明は辛辣だ。だが私はその裏を読みたかった。なぜヴァレンティンが直接、私の家の召使を脅すのか。彼らは通常、もっと巧妙な遠隔の圧力を使う。だがマルセルが動いたということは、彼らが時間を焦っているか、或いは“内側”の情報をより確実に欲していたということだ。
「あなたが最初に誰かに接触したとき、どういうやり取りがあったのか。記録している事は?」私は淡々と続ける。
マルティンは紙を取り出し、震える手で薄いノートを差し出した。小さな走り書き、渡された命令、受け渡しの日時、港の位置。文字は乱れているが、彼の手が残した痕跡は確かだ。「私は最初、彼らに抵抗しようとした。しかし娘の安否を思うと、手が震えた。マルセルは冷たく笑い、『我々は名を残さぬ。だが確実に結果は出す』と言った。私は──私はただ、家族を守りたかった」
フォルクが静かに立ち上がり、マルティンの肩に手を置いた。男の腕に流れる血の匂いよりも、その手の温もりの方がずっと重かった。彼は短く一言、「よく言った」とだけ言い、マルティンの顎を上げさせた。
私は内心で刃を研ぐ。事情がこうである以上、責めるだけでは筋は通らない。だが被害の端緒を握る者がヴァレンティンの執行役であるなら、ここでの対応は厳格でなければならない。法廷での勝利を無駄にしないためにも、私たちは責任の所在を明確に示す必要がある。しかし同時に、マルティンの娘を見捨てるわけにはいかない。
「マルティン」私は穏やかに言った。「君は将来、我々の側で重要な証言者となる。だが今、私が望むのは二つだ。ひとつ――君の娘の所在を教えよ。私たちは彼女を救出する。ふたつ――君はこれから公に、我々に全てを話す覚悟があるか」
マルティンは嗚咽を漏らし、そしてゆっくりと頷いた。「……私は協力する。だが娘が無事であることを、どうか保証してほしい。もし彼女に何かあれば、私は――」
彼の言葉はそこで途切れた。私は頷き、フォルクに視線を向ける。フォルクは既に夜襲の手配を始めていた。私たちは港の倉庫に向かう。夜の風は冷たく、胸の中にあるものを乾かすように吹き抜ける。刃を振るう方向が定まり――しかし、刃は誰の首を切るのかはまだ定かでない。私の求めるものは正義であり、同時に守るべき者たちの命だった。
港は眠らずに息をしていた。倉の影の中、灯火がちらつき、囚われの声がかすかに響く。フォルクの手際は冷徹だった。影のように忍び寄り、静かに扉を破る。そこにいたのは数人の見張りと、薄暗い一角に座らされた小さな女の子だった。目は泥で汚れ、髪は乱れているが、目は確かに生きていた。
「――ミア!」マルティンの声が割れ、彼は駆け寄って娘を抱きしめた。小さな体が震え、しかしその震えは恐怖だけでなく、安堵の色を含んでいた。マルティンの肩は大きく揺れ、涙が頬を伝う。私はその場に立ち、胸の奥の何かが静かに溶けていくのを感じた。
だが解放は一瞬で喜びに染まることはない。倉の中には粗末な書類があり、そこには「マルセル・会計」「次の動き:侯爵車中」「日時:明朝」といった走り書きが見つかった。マルセルの署名の残滓もあった。彼らは動こうとしていた。連鎖はさらに速く、残酷に動いている。
夜が白む前に、私は決断を下す。公開の審理で示された正義の槌を、今ここでもう一度振るわせる。だが今回は、ただ名を曝すだけでは済まない。私は手を差し伸べ、刃を選び、そして守るべき者たちを守る術をとる。マルティンを守り、マルセルを引きずり出すために。
港の朝露が甲板や石畳を湿らせる中、私は小さく息を吐いた。近い寄生は切り取った。だがその切り口は血を流す。これから私が求めるのは、切り取ったあとの処置だ。真実を晒し、再発を防ぐための縫合だ――しかし縫合の糸は、誰が引くのか。私はその糸を、静かに自分の手に巻きつけた。