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第十八章 地下の鍵

 王城の地下は、昼の喧噪から切り離された別世界のようだった。石の階段は湿り、灯火は低く、空気は古文書の埃と鉄の匂いを混ぜていた。レオンが導く影の列に、私たちは黙して従った。侯爵の握る最後の頁が胸にあり、フォルクは刃のごとき緊張を体に帯び、マルティンは掌に書類を抱えていた。ここで何かが決まる。あるいは、決定的に崩れる。


 「この扉の向こうが王城の秘蔵室だ」レオンが低く言った。彼の声はあくまで控えめだが、階石に反射してあたりに響く。鉄の扉には古い錠が嵌り、側面には王城の検印が浮き彫りになっている。私は指先でその印を撫で、次いで侯爵が差し出した紙片の端を確かめた。最終頁の記述が、ここへ通じる鍵となるかもしれない。


 レオンは小さな鍵束を取り出し、そのうちの一本を差し込む。錠が唸りを上げる瞬間、私の体内で何かが固まる。扉は音もなく開いた。中は更に冷えて、重い空気が流れ出した。壁に沿って積まれた箱、棚には羊皮紙が整然と並び、古い巻物の端がぼやけた光を受けていた。ここは、王の時代から密かに蓄えられた記録の棲家だ——許された者だけが来る場所。


 「注意して見よ。ここには公式には存在しない記録も多い」レオンは頷いて、松明の炎を一本差し出す。私がそれを受け取ると、灯の光が書架の影を深く刻んだ。文字は古く、しかし配置は秩序を保っている。手に汗がにじむ。歴史が、ここに静かに眠っている。


 私たちは三手に分かれて探索した。フォルクは金属の箱を開け、印章や封蝋の収蔵物を確かめる。マルティンは帳面の索引を辿る。私は羊皮紙の束に手を伸ばし、封蝋の図を探した。時間は惜しい。外の世界では、まだ「V」の網は蠢いている。ここで見逃せば、また別の仮面が被されるだけだ。


 ――そして、棚の奥で、それは見つかった。


 薄手の革で丁寧に包まれた冊子。表紙には三日月と細い十字の刻印が小さく焼き付けられている。指で撫でると確かな凹凸が掌に残った。私は息を詰め、手を震わせながら紐を解く。開いた頁の端には、小さな走り書きが連なり、日付と指示、受取人の略号がずらりと並んでいる。行間に挟まれた細字が、私の視線を貫いた。


 「……これは――」私の声は乾いていた。頁をめくる指先に冷たさが走る。記録は、オルフェウス号の帳面を遥かに越える詳細さで、取引の流れと承認の連鎖を示していた。封蝋の代わりに刻まれた小さな十字は、いつの間にか「V」の記号となっており、その横には名前に見える略称、役職、そして「承認」の朱印が付されていた。


 マルティンが肩越しに覗き込み、息を吐いた。「これがあれば、連鎖のかなりの部分を証明できる。支払先、受取人、日時、そして承認者。ここに書かれた通りに手が動いていれば、偽装はほぼ不可能だ」


 フォルクはただ短く「持ち出す」と言った。だがレオンは首を振る。「ここを動かすのは容易ではない。公式に差し押さえられる文書以外に、王城はまた別の備えをしている。だが今はまず、これを複製し、外に出す方法を考えねばならぬ」


 私は冊子の中をさらに繰った。該当する日付の行を開くと、そこに私の符号――A――と、昨日侯爵が差し出した最終頁の文面と同様の記述がある。しかもその隣には、驚くべき署名が並んでいた。複数の手が一つの承認欄に押印している。それは「V:」の下に何人かの略称が走り、最後の行に「V代表:LM」と印が付いている──LM。レオン・マルシアンのイニシャルだ。


 時間が歪んだ。私の心臓が大きく鳴る。指が頁の上で震えを返す。レオンは私を見ると、苦い笑いを浮かべた。


 「見つけてしまったか」彼は低く言った。声には諦観が混じる。「我が名があっても不思議はない。長年、私は王城の内を見てきた。人々は名を隠し、符号を分かち、権力の連鎖を作った。私はそこに居た。だが“居た”ということと――“主導した”ということは違う。だが証拠は証拠だ。君の顔に疑惑が芽生えるのは当然だろう」


 私は頁から目を離したくなかったが、視線を上げる。レオンの顔には歳月の苛立ちと疲労が刻まれている。彼はこの本を「保存する者」であり、同時に「記録に名を留められた者」でもあるのだ。だが彼の次の言葉が、深い波紋を広げた。


 「私はVの会合に参加したことはある。しかしそれは制御のためだった。内部から暴走を止めるために、わずかでも手を入れてきた。だが連鎖は複雑だ。複数の家が‘V’を名乗り、責任を分散していた。LMの印は、私の名が代表として“名を与えられた”ことを意味する。しかし、我が役割はダミーではない。内部の情報を外に出すための鍵を知っている者は少ない。私がそれを握っていたからこそ、今こうして君を導いたのだ」


 言葉は錯綜する。私は問いかける。「では、なぜあなたは今までそれを隠していた? なぜ我々を導いたのか。あなたの利得はどこにある?」


 レオンは肩を竦めた。「我が利益は王の秩序を保つことであった。だが時代は変わった。連鎖が人の命を踏みにじる段になって初めて、内部に居た者も耐えられなくなった。私は密かに証拠を集め、しかしそれを一度に出すことはできなかった。なぜなら、それは王城自体の危機を生むからだ。君がここへ来るとは思わなかった。君の剛直さが、私の隠し札を動かした。だが今、我々は選択を迫られている。我々が動くか、或いは誰かが更に大きな偽装を行うか――その違いだ」


 だが言葉だけでは不十分だ。私が手にする証拠は真実を語るし、同時に誰かの首を取る道具にもなり得る。すべての名が並んだ頁を見れば、侯爵の名も、ヴァレンティンの名も、そして複数の王城役職名も一枚に記されている。責任は共有され、隠蔽され、代償は常に「小さな者」の身体で支払われてきた。


 「あなたが内部にいたということは、あなたにも選択があったはずだ」私は静かに言った。「あなたはその名を……代表として後押しした。誰もが名を分担し、責任を分散させることで自らを守った。だが今、誰が真に裁かれるのかを我々は示さねばならぬ。あなたもまた、その一人になり得る」


 レオンの瞳が揺れる。だがその揺れの先に、ある覚悟が見えた。「私は全てを明かす用意がある――ただし条件がある。君と侯爵、そして我にとって最も脆弱な者たちの命が守られること。そして、公の手続きが真に独立して行われること。もし王城の外部にある中立的な監査がこの場の証拠を受け取り、同時に世に配信されるならば、連鎖は切れる可能性がある。しかし、もし我々がこれを裏で握り潰すならば、何も変わらぬ。君は選べる――刃を振るうか、記録を晒すか」


 その言葉は、私が既に決めていたものを再確認させる。復讐の感情は確かにある。しかし私が求めるのは、単なる制裁ではない。真実の白日の下に全てを晒し、次の犠牲を防ぐ仕組みを作ることだ。レオンの告白は痛みを伴う。なぜなら、最も信用した者の名がそこにある可能性が現実味を帯びるからだ。


 だが時間切れは近い。地下からはかすかな物音が聞こえ、外の世界では誰かが動いている。私たちは冊子の複写を取り、写しを複数に分けた。レオンはためらいながらも最後にこう言った。


 「これを出すならば、我が名もまた曝される。だが、それが秩序のために必要ならば、我は引き受けよう。君は真実を選ぶと言った。では、真実を選べ」


 私は冊子の一頁を胸に押し当て、深く息をついた。灯が揺れ、地下の石壁が静かに答える。刃はもう片方の掌の中にあり、切るべき糸は指に触れている。だが最後の決断は、まだ言葉として出していなかった。


 外から遠く、鐘の音が一度鳴る。合図か、時の刻印か、それは分からない。だが私の決意は固まっていた。


 「真実を晒す。だが公的な監査と国外の中立的目の同時開示を約束させる。誰一人、証人も、弱者も――隠蔽のために消されることは許さない。これが我が条件だ」私は低く言った。


 レオンはゆっくりと頷いた。フォルクの肩が緩むように見え、マルティンの目が鋭く光った。地下の空気が、わずかに動いた。封印された記録は、今や風のように動き始める。私たちは鍵を手にする者となった。だが鍵を回せば、何が開くかは誰にも分からない。


 扉の向こう、夜の王城は静かに息をしている。私たちはその腹に腕を伸ばし、毒を掻き出す準備をした。真実の光が地下から差し上げられる――それは解放か、破滅か。私の刃は、その答えを確かめるために研がれていた。

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