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第二章 観察の仮面

 翌朝の陽は、宴の蝋燭よりも滑らかに私の部屋を満たしていた。まどから入る光は淡く、昼のすべてを受け止めるように床を撫でる。私は布団の縁でゆっくりと体を起こし、鏡に映る自分の顔を見つめた。寝起きの乱れはあるが、眼差しは鋭かった。死を見た女の目だ。瞳の奥に、計算の光が宿っている。


 朝餉あさげはいつもと変わらぬ形式で運ばれる。果実、水差し、軽いスープ。執事のマルティンは黙って膳を整え、私の飲み物の温度を確かめる。彼の所作には年季があり、指先の震えからも、その日の重みが伝わってくる。


 「昨夜のこと、侯爵は何も口にしていません。客人たちも、表向きにはいつもどおりの様子でしたが——」

 マルティンの声は低く、慎重だった。


 「誰か、変わった客は?」私はパンを一切れ口に含んでから尋ねる。あえて平凡な所作で情報を引き出すためだ。目はいつでも相手の顔を見ているが、表情には微笑を崩さない。


 「はい。真夜中に、密使のような者が来ました。黒い覆面ではありませんでしたが、手袋をはめ、侯爵に手渡した小袋を行き交う人目を気にするように隠しておりました。侯爵はそれを受け取り、書斎へ——その後は、夜通し灯りが消えませんでした」


 「手袋、ですか」私の声は柔らかい。手袋、黒曜石の輝き、指輪——断片が線で繋がっていく。私は、ほんのわずかに箸を置いて視線を上げた。マルティンは気づかぬふりをするように、器を整え続ける。


 「他には?」


 「御伽おとぎ話のようですが、古医師ヴァルターという名が近所の噂に出ていました。彼は昔、王都の外れで禁術の噂を持つ者でした。——しかし、それだけでは憶測です。確証はありません」


 ヴァルター。どこかで聞いた名だ。耳に残る記憶の欠片――誰かの囁き、暗い廊下、〝戻す術〟という言葉。私はスプーンの縁を指で弾き、音を立てる。小さな音だが、マルティンは反応した。


 「その名で手掛かりが欲しい。屋敷の古い記録、借金帳、夜間の出入り記録——侯爵が誰と会っているか、細かく挙げて。使用人にも聞き込みをしてくれ。口の軽い者、怯える者、何でもいい。小さな糸でも構わない。そこから編んでいく」


 彼は黙って頷き、その眼に決意が宿った。忠義は単なる習慣ではない。私の復讐の道具になり得る者と、盾となってくれる者を見分ける役目を彼は心得ているのだ。


 食事を終えると、私は身支度を整えた。着飾るのではない。見せるための仮面を整えるのだ。髪を梳き、薄く口紅を引き、淡い香をまとえば、世界は再び私を「令嬢」として迎え入れる。外界に晒す顔と、心に灯す冷たさは別物だ。私はそれを使い分ける。


 大広間に出ると、侯爵エドゥアルトは既に客と面会していた。彼は宴の余波をまとうように、いつもの穏やかな表情で私を迎えた。礼節を尽くす動作の中に、昨夜の残り香がある。私の心は瞬時に警戒を上げるが、外面の微笑みを崩さない。


 「おはよう、アレクサンドラ。昨夜はたいへんだったね。貴女の健康が戻っていると聞いて安心したよ」


 エドゥアルトの言葉は真っ当だった。だがその声音には、いつも通りの距離感がある。彼は祝宴の主として、人々をなだめ、評判を気にする。私は膝元で小さく頭を下げ、丁寧に礼を返す。


 「おはようございます、侯爵様。昨夜はお気遣いいただき、ありがとうございました。皆様が心配してくださり、私は幸いです」


 言葉は軽やかに、だが内容は計算済みだ。挨拶を交わしつつも、私は周囲の表情を観察した。客の一人、若い騎士の眼差しが幾分焦点を外していた。侯爵の側近である彼は、昨夜遅くまで奉公していたことを誇示するように胸を張るが、手の震えが否めない。小さな震えは情報を隠している。私はそれをメモする。


 昼下がり、私の書斎に戻ると、マルティンが差し出す小さな包みを受け取った。彼の手は震えていた。包みを開けると、中には黒い布片と、紙切れが一枚あった。紙には掠れた文字で、奇妙な印が描かれている。三日月と黒曜の意匠——指輪の装飾に似ている。


 「これを見つけました。庭師が、夜中に勝手口近くで拾ったそうです。侯爵の書斎への出入り人のひとりが、手袋を外した瞬間に落としたらしい。誰のものかはわからないが、印章のように見えます」


 胸の中で、刃が光った。指輪の黒曜石、手袋、三日月の印。断片がまた一つ、線として繋がる。誰かがこの屋敷と深く、密に繋がっているのだ。私は紙を広げ、印を目でなぞった。インクの滲みは古く、しかし使用は最近のものに見える。


 「ヴァルターの名はどう?」


 「噂に過ぎませんでしたが、探せば手掛かりが出るかもしれません。侯爵の近習にも、代筆や手伝いを頼む者がいます。今日の夕刻、侯爵は王城へ向かわれます——顧問と面会があるとのこと。外出の間に、私が更に探っておきます」


 「頼みます。気をつけて」私は紙を袖にしまい、深く息をついた。


 その日の夕刻、侯爵の車が屋敷を出る音を私は窓辺で聞いた。馬車の車輪は石畳を刻み、遠ざかるにつれて音は小さく、しかし確かな目的を持っていた。私は一瞬、追う衝動に駆られた。しかし今は駆け出す時ではない。駆け出す者は自らの足跡を残す。私は影のままでいる。


 夜が近づくと、マルティンが戻ってきた。彼の顔は白く、瞳は暗い。


 「令嬢様、侯爵の書斎で見つかったものがございます――これです」


 彼が差し出したのは、封の割れた小さな手帳だった。埃をかぶり、角が擦り切れている。中を見ると、幾つかの記述と共に、日付が刻まれていた。最後のページには、くすんだインクで「戻す」とだけ書かれている。短い単語だが、その重みは深い。


 「——誰がこの手帳を使っていたのか、調べてください。侯爵に知られぬように」


 私は手帳をそっと閉じると、唇を引き結んだ。復讐の輪郭が、少しずつだが確かに現れてきた。だが同時に、私の内側には新たな不安が生じる。私を戻した力の源泉が、ただの個人の所業ではないかもしれない。屋敷の影は深く、そこには人の手では計り知れぬものが動いている可能性がある。


 窓の外、夜の帳が下りる。王都の灯はまだ近いが、視界は少しずつ黒くなる。私は手帳を膝に抱え、心の中で静かに誓った。刃はまだ見せない。まずは糸を手繰り、結び目を炙り出す。その時が来たら、――必ず、旦那に答えを突きつける。静かに、確実に。


 そして、夜の闇の中、どこか遠くで鐘が鳴った。音は曖昧で、まるで誰かが合図を送ったかのようだった。

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