第十七章 最後の頁
侯爵が差し出した紙片は、薄く折り畳まれた一枚の破片だった。灯りの下で見ると、そこには確かに——オルフェウス号の帳面の最終行らしき、乱れた文字列が走っていた。インクは滲み、線は途切れ、だが次の語句ははっきりと私の目を刺した。
「承認者:V. —— ヴァレンティン伯(代理)
最終注記:実験段階三。心理媒質:A(被試験者)有効。後処理:代償確保。報告先:王城 匿名委員会」
私の掌から、紙は滑り落ちる。音は小さかったが、書斎にはそれがやけに大きく聞こえた。灯の炎が揺れて、机の上の影までもがひとつ大きく震えた。
「どうして、あなたがそれを持っているのです?」私の声は平静を装っていたが、内側では何かが崩れていくのを感じた。
侯爵は目を伏せ、ゆっくりと息を吐いた。彼の指先は震えている。あの夜の、私の崩れた視界の中で彼の掌がどう動いたか、その記憶はまだ生々しかった。だがここで問い詰めることは、答えを得ることと同義だ。私は刃を隠しながら、真実を待った。
「……見つけたのだ。私の書斎の隅の箱に、封もされずに置かれていた。推測だが、誰かが証拠を残し、あるいは誰かが消し損ねたのだろう」彼は困惑に満ちた目で私を見た。「私は最初、それを焼こうと思った。君のために、我が家の汚名を消したかった。だが……その夜から、私は眠れなかった。紙を読めば読むほど、わからぬ罪の重さが胸にのしかかった。私は隠すことで君を守ろうとしたが、内心で何かが壊れた。そこで……出した結論が、我々でこれを最後まで追うことだった。だが、君は私に信じるだろうか」
彼は言葉を切り、膝の上の紙片をぎゅっと握りしめた。侯爵の手が汗ばんでいるのが見える。彼の瞳は疲労と懺悔で曇り、しかしその奥にある決意がちらりと光った。
「あなたが焼こうとした――というのなら、あなたはその痕跡を消す側だったのでは?」私は冷たく訊いた。問いは刃だ。だが私は同時に、彼の顔に浮かぶ狼狽の真偽を測っていた。
「私は……利用された。あるいは、利用されるふりをしたのだ」侯爵の声が震える。「あの夜、私は複数の者たち、顧問と呼ばれる連中に囲まれていた。『均衡』という言葉を何度も聞いた。だが、私が望んだのは君の安全であって、死ではなかった。手続きは彼らの筋書きで動いた。ヴァルターは――彼は私に命令を下した者の一つに過ぎないと告げた。だが私は、どこまでが自分の責かをはっきりさせたかった」
その言葉の意味するところは重かった。侯爵が全ての首謀者ではない——しかし無関係でもない。責任の線は曖昧で、政治の輪郭はいつも灰色だ。私は紙片を拾い上げ、指の腹で文字を追った。そこには「A(被試験者)」とあった──私を指す符号だ。誰かが私を「A」と記し、実験計画書の一部として扱っていた。
「何故あなたはこの紙を自室に置いておいたのです? 誰が封を切らずに置いたのです?」私は問いを重ねた。紙の由来がここで確定すれば、多くの網目が切り替わる。
侯爵は目を閉じ、記憶を手繰るように言葉を紡いだ。「舞踏会の後、私は書斎で書類の整理をしていた。そこに一通の便箋が滑り込んでいた。封はしていなかった。中身を見れば短い走り書きとこの最終ページの写しが入っていて……それを見て私は震えた。だが、その時は誰が差し出したのか分からなかった。次の日、我は国務で忙殺され、目を離した隙に消え去った。誰が来て何をしたか。私は説明を受けたが、説明は断片的だった。私は最初、君を守るために隠そうとした。だが、その後、自分で調べることにした」
侯爵の言葉は自分の首を絞めるための弁明にも聞こえた。だが彼の瞳の揺れは嘘を退ける。私は息をつき、侯爵の手を取った。そこには冷たさだけでなく、人の弱さが残っていた。
「じゃあ、なぜ今になって持ってきた?」私は静かに尋ねる。夜は深く、選択を迫る時間だ。
侯爵は小さく笑ったように見えた。「私は、君が自ら刃を振るうのを見たくない。だが、同時に真実は浮かばねばならぬ。君が外に出て叫ぶよりも、ここで私と協力して一枚ずつ剥がしていく方が、被害を最小にできると考えた。……それが私の選択だ」
私は黙った。言葉よりも行動。侯爵が自ら最後の頁を差し出すという行為は、ある種の懺悔であるとともに、協働の申し入れだった。だが信頼は簡単には戻らぬ。私が求めるのは答えであり、弁解ではない。侯爵は気づいているだろうか——この紙片一枚が、私の刃をどれほど正当化するかを。
「分かった」私は短く言った。「だが条件がある。あなたが協力するなら、ただ隠すのではなく、我々は今まで隠してきた全ての帳を掴む。ヴァレンティン家の蔵の他に、王城に残る文書、封筒の出所、そして――誰が『V』を名乗り、誰が名を分担しているのかを洗い出す。あなたもその調査に晒される。真実のために、ね」
侯爵は首を垂れ、深く頷いた。「受け入れる。私の名が汚れるならば、君が望むならばその潔白を示す。私は君が望む真実を望む。君を傷つけた者が誰であれ、我はその刃を受ける覚悟を持つ」
その瞬間、書斎の外でかすかな音がした。扉の隙間から、影が廊下を泳ぐ。私たち三人——私、侯爵、そしてフォルクは音に気づき、瞬時に身を固めた。
「誰だ?」フォルクが低く囁く。
返事はなかった。だが再び、廊下の奥から紙を切るような小さな物音が近づく。男の息遣い。足音ではない──むしろ、扉に指を這わせるような、確信的な仕草だ。誰かが静かに、しかし確実に、私たちの周囲を探っている。
侯爵は立ち上がり、手にした紙片を胸にしまった。「我々は動くべきだ」彼の声は平静を装っているが、その眼は鋭く光っていた。私は立ち上がり、灯を一つ手に取る。夜は、まだ終わっていない。
廊下へ出ると、黒い外套の端がちらりと見えた。だがそれはセドリクではなかった。薄闇の中、立っていたのは――想像もしていなかった顔だった。王城の侍従長、ヴァレンティン家とは別系統の古参役人、その名は……私が幼き日に信頼した者、レオン・マルシアンだった。彼の顎には深い皺が刻まれ、眼には長年の権力の色が宿っていた。
レオンは我々を見下ろし、薄く笑って言った。
「実に興味深い。最後の頁を見つけたのは君か、侯爵。だが紙だけでは舞台は終わらぬ。今、我々は更に深い場所へ分け入る必要がある。君に問う、アレクサンドラ。刃を振るう時が来たのだ。だがその刃は、誰を狙うか。君は真実を選ぶか、それとも復讐を優先するか」
その問いは、私の胸の奥で二つに裂けた。灯りの中、紙の断片はまだ手の中に暖かさを残している。私の答えは刃の向く先を定める。だが答えは決して簡単ではない。遺された頁は示した。今、動かなければならない――そして動くなら、確実に、最後まで切り倒す覚悟で。
私は深く息を吸い、静かに言った。
「真実を、まず選ぶ。だがその真実が誰を裁くべきかを、我が手で示す。復讐は結果であって、目的ではない。刃を振るうのは、裁きのためだ」
レオンはわずかに目を細め、そして静かにうなずいた。「よかろう。であれば、共に行こう。ただし覚悟せよ。王城の地下には更に深い鍵が眠る。そこを開けば、光だけでなく、さらなる影も呼び寄せる」
夜は深かった。灯は揺れ、影は伸びる。私たちは互いに視線を交わし、最後の頁を胸に、この夜の更なる扉を開くことを選んだ。刃を研ぎ、記録を揃え、真実を白日の下に晒すために――道は続く。