第十六章 刃を向ける場所
ヴァレンティンの蔵で見つけた書簡が、夜の静けさを一瞬で引き裂いた。封蝋の型、走り書きの断片、そして「次は心理操作の段」という冷たい一節。文字は氷のように硬直して私の内側を切った。だが切り傷は、やがて手当てされて癒える。私が欲しいのは感情の傷ではない。欲しいのは刃を確かに折らせるだけの確証だ。
私たちは動いた。表向きは王城の公的措置に従い、だが裏ではより素早く、より確実に糸を手繰る。フォルクはヴァレンティン家の蔵で押収した書簡群の写しを密かに複数へ回し、セラは商会内に残る最後の控えをかき集める。マルティンは侯爵家の帳簿と、侯爵の私室の在り方に関する内部記録へ手を伸ばした。私の手元にはもう一つ、オルフェウス号で見つけた封筒の写しと、ローベルトやアルノが口にした「北門の受取人」の記録、そしてヴァルターの初期証言の録音がある。
その日、私は一つの賭けに出る決意をした。公的な場で一気に暴くのではない——まずは「核心に近い者」を孤立させ、彼ら自身の言葉で向き合わせる。誰かを追い詰めるには、証拠と同じくらい「相手の選択肢」を奪う必要がある。選択肢を奪われれば、人は嘘をつけなくなる。私はその心理を利用するつもりだった。
標的は二つ。ひとつはヴァレンティン家の執行役を務めている中年の書記官、ルディウス。彼は公には影の薄い存在だが、財務の流れに関しては精密な管轄を持つ。もうひとつは、王城の側近に名を連ねるある年少の顧問――噂では王太子に近いとされる若き侍従、セリアン。セリアンは公的には無垢で理知的だが、裏ではヴァレンティンの利害に「同情」を示す一枚を動かしていた、という痕跡が私たちの帳面の端々に見え隠れしていた。
まずルディウス。彼の弱点は「帳尻を合わせること」と「過去の贖罪心」だと私は踏んだ。何年も、彼はヴァレンティンのために数字を操り、秘密の流れを「見えない」ようにしてきた。その仕事を続けるうち、誰かの顔色を窺うことが習慣になり、今では自分の心はずたずたになっている。私はその心の隙を探るため、ある「見せかけの監査」を仕組んだ。王城の名を借りた正式な文書の写しを、敢えてルディウスの管轄資料へと紛れ込ませておき、目の前に「公的に確認されるはずだ」と錯覚させる。
夜、彼を私室へ呼び出した。ルディウスの顔は青白く、でも驚きはなかった。驚く者はすでに演者に過ぎない。私は帳面の写しを彼の前に広げ、淡々と問いを並べた。
「これらの領収書に、あなたの署名がある。説明できるか?」
ルディウスは喉を鳴らして小さく首を振った。言葉は出ない。彼は紙の上のインクを見つめ、まるで自分の指の先を傷つける刃を見るように震えていた。私は優しく、だが容赦なく続ける。
「もしあなたがこれを隠蔽していたのなら、説明の機会はここでしかない。外へ出れば、あなたの名前は公に晒される。だが、ここで正直に話せば、私があなたの協力を考慮する。選べ、ルディウス。誰の手か、どんな命令かを言え――それが早道だ」
彼は長い沈黙の後、紙に顔を埋めるようにして、かすれた声で口を開いた。最初は小さな断片の言葉、次第に流れを成す供述へと変わった。ヴァレンティンが「連帯」の符号として十字を用いていたこと。王城のある委員が定期的に匿名の指示を出していたこと。封筒は北門の中継で受け渡され、その最終的な「承認」は王城の公文と併合されていたこと。彼の言葉は、私の手に入れた記録と奇妙なほどに重なった。
だがその供述の終盤で、彼はふと顔を上げ、私を見て呟いた。「――しかし、あなたは知っているはずだ。『V』は一人ではない。あれは印ではなく、契約の印しだ。誰かが一つの名で指図していると我々は思い込むが、実際には複数が『V』を名乗ることで責任を分散している。つまり、切り取るべきは個ではなく、連鎖だ」彼の言葉は震えていたが、発見の苦さがその声に混じっていた。
それは予想していたが、同時に重かった。組織としての「V」。私が追っていたのは一つの顔ではなく、網であり協定であり、歴史化された利害の結び目だった。だが結び目は紐でできている。ほどけば、端が見える。
次はセリアン。彼は王城の表面上の協力者として動く可能性がある。公式の手続きの表面には、彼のような「理性的な若者」が不可欠だ。彼を孤立させるには、彼が信頼するものを破る必要がある——それは彼自身の「正義感」だ。私は彼に手紙を送り、侯爵邸での非公式な会談を依頼した。会談の場には、偶然を装って国外使節の一人が同席しているように手配した。私の狙いは、彼の「正義観」を揺さぶり、公の名のもとに自らの行為の正当性を問い直させること。
セリアンは若く、瞳に一本の火を宿している。王城の硬い慣例にも時折斬り込むタイプだ。私は話を切り出すと、彼は最初は慎重に応じた。しかし、私が手にする文書の一枚一枚を見せるにつれて、彼の顔色は変わっていった。オルフェウス号の帳面の一頁に記された小さな走り書き、ヴァレンティンの蔵で見つけた「心理操作の段」の記述、北門で受け取られた封筒の証拠映像——それらは彼にとって単なる理屈の問題ではなかった。若き官吏としての矜持が痛み、倫理としての基盤が揺れた。
「――これが本当なら、我々は国のために何をしてきたのか」彼は手を震わせた。「もし私が…私が知らずにその一部を正当化していたなら、私は責任を負わねばならない」
その言葉が、私にとっては開示の合図だった。人は罪を抱えているとき、自らの良心に直面すると脆い。私は静かに言った。
「セリアン、あなたには選択肢がある。今ここで我々と公に協力し、王城内部の手続きが透明に進むよう援助するか。あるいは沈黙し続け、自らの手で更に多くの血を濡らすか。どちらにする?」
彼は目を閉じ、長い息をした。外の風が窓を吹き抜け、蝋燭の炎が揺れる。立ち上がったとき、その顔は覚悟を決めたものに変わっていた。
「私は…協力する。だが条件がある。ヴァレンティンだけでなく、王城内部の関係者全てに対して公正な調査が行われること。君が望む“真実”が、単に誰か一人の首を差し出すことで片付けられないことを、私は望む」彼の声は低かったが、剛直だった。
その夜、我々は重要な布石を打った。ルディウスの自白、セリアンの協力。だが私はまだ安心しなかった。なぜなら「V」は連鎖だとルディウスが言った通り、網は思いのほか広く、端と端が王都の外側まで伸びている可能性が高かった。更に、黒外套の男はまだ姿を消している。彼は紐の操作者であり、演出家だ。彼がどこで次の幕を開くか、それを予見することはできない。
翌朝、私たちは公に向けてもう一歩力を進めることにした。マルクスと調整の上、私は公式の聴取にルディウスとセリアンを連れて出る手筈を整えた。王城の大広間には報道と中立使節、王の側近、民の代表が集まる。私の目の前には、ヴァレンティン家から持ち出した物的証拠と、告発の根拠としての人人の供述が揃っている。連鎖の一角は崩れつつあった。
だが最後の夜、書斎で私は一枚の便箋を見つける。机の隅に差し入れてある、その字は見覚えがあった。短い文面——
「最後のページは、まだ――」と。
署名はない。だがその断片は私の血を冷たくした。最後のページ。オルフェウス号の帳面の最後のページには、重大な追記があるはずだと、どこかで確信していた。誰かがそれを抜き取り、隠している。つまり、我々はまだ全てを揃えてはいない。核心は目の前にあっても、最後の鍵が欠けているのだ。
そのとき、書斎の扉が静かに開いた。背後の廊下に、誰かが立っている。私が振り向くと、そこにいたのは侯爵――エドゥアルトだった。顔は疲労に沈み、目には決意があった。だが彼の手には、薄い紙片が握られている。私がその紙片の端を見れば――それは、オルフェウス号の帳面の最後の一頁のように見えた。
「見つけた」彼は低く言った。声には、かつて私が知らなかった重量がある。「最後のページを。私が見つけたのだ」