第十五章 Vの影
遺書の紙片を握る指先が、夜ごとに冷たさを増していった。あの「V」が何を意味するのか──ヴァルターの頭文字なのか、あるいは別の名の伏字なのか。私は何度もその羊皮紙を広げ、文字の揺れや墨の濃淡を確かめた。だが紙の語る断片だけでは満足できない。名は手掛かりに過ぎない。名の裏側、名が呼び起こす人脈と利権、その脈絡を切り崩さねば、真実は虚ろな仮面に終わってしまう。
まず私は書面上の「V」を巡る事実関係を洗い直した。オルフェウス号の帳面、受取人欄の羅列、封蝋の痕跡、送金記録の写し。これらを一つずつ豆腐を切るように丁寧に割り、共通点を探る。封蝋の型は三日月の中に細い十字──その細い十字が、別の文書にだけ現れる刻印だとマルティンが指摘した。現れ方が奇妙だ。妙に控えめに、しかし確実に。
「十字の形は、地方の古い家紋にも似ている」とフォルクは言った。「だが王城に近い筋にも、それを内輪で使う者がいる。表には出さぬ、陰の印としてな」
侯爵家と王城の関係、顧問筋、南方商会――それらを経由する「V」の経路を、もう一段深く掘る必要がある。そこで私は、王都の古文書館へ足を運んだ。朝の光がアーチ窓から差し込む書庫は、埃の匂いと古い紙の匂いが交じる静かな海のようだった。古文書館の主任、老学者のベネディクトに面会を申し込み、封蝋の図像と貴族家紋の異同、そして王城にまつわる秘匿印についての相談をした。
彼は私の示した封蝋の写しを見て、長い指で顎を掻いた。目は驚きと欣喜が混じったように細まる。
「これは……古い系譜の一つの変形です。表向きには滅多に使われない印だが、かつて小領主の間で、‘連帯’を示す符号として密かに用いられていた。さらに奇妙なのは、この十字が後年、王城のある役職に渡され、セキュリティ用の印章の一部になっている記述がある。……V。ヴァレンティン家の頭文字と結びつけられることが多いな」
ヴァレンティン。私はその名に覚えがある。名門でありながら、近年は表舞台に出ることを好まず、裏から商会や鉱山、港の利権に小さく介入してきた家だと耳にしていた。だが王城と直接に結びつくならば、ただの利権屋とは格が違う。ベネディクトは書庫の奥から古い系図の写しを取り出し、ページをめくって私に差し出した。そこには、細い十字を印章に用いる「ヴァレンティン伯」の項目があった。時折、王城の特別な委員会に同姓の名が「相談役」として顔を出すことも記されている。
「もしヴァレンティンの印がここにあるのなら」私は言葉を紡いだ。「それが示すものは何でしょう。彼らは今回の件で何を得るつもりだったのか」
ベネディクトはため息をつく。「想像ながら、政治的実験を望む者は、結果として‘秩序の転用’を得る。人の心が揺れ、情報が生まれるならば、それは交渉材料だ。君の言う‘戻す’という術は、まさにその触媒になる。ヴァレンティンの動機は利益と影響力、そして……力の確認だろう」
私は図書館を出ると、侯爵家の私室へ戻り、肖像画の前でしばらく立ち尽くした。エドゥアルトはどの程度まで知っていたのか。彼が命じたのか、あるいはただ利用されたのか。怒りと疑念が綯い交ぜになり、胸を締めつけた。ただし、個人を糾弾する前に、肉付けされた事実を揃えなければならない。復讐は私的な熱情で終わらせてはいけない。それは秩序の名に基づく断罪でなくてはならない。
そして私はヴァレンティン家を、直接に動かす者の存在を確かめるため、南方の取引台帳とヴァルターの過去の顧客名簿を突き合わせた。セラが商会で掴んできた追加の写しは、鍵を握っていた。日付と送金先の連続をたどるうち、ある一連の入金に小さな符号が付されているのを発見する──それはヴァレンティン家の顧客欄とは異なるが、送り元として「V」とだけ記載されることがある。封蝋の十字と同じ回線が、ここでも顔を出す。
「これだ」フォルクが指を差した。「送金の経路は南方商会を経て、ローカルの名ばかりを通している。だが最終的に辿る先は、ヴァレンティンの一族が支配する‘隠し口座’へと向かっている。彼らは直に名を出さぬ。しかし記録は残る。隠すことは出来ない、ただ時間を買うだけだ」
時間を買う。黒外套の男が言った「糸は我々の方が長い」という意味が、少し見えてきた。彼らは名を露わにせず、仮面や代理を使って動くことで、万が一があっても自らの核を守る。だからこそ、私たちは代理の核を次々と露にし、最後に核心に迫る必要がある。だが核心に触れるということは、同時に自分の首筋を晒すことでもある。私は覚悟を確認した。
翌日、ヴァレンティン家の小領地へ向かう決断をした。公的に行けば門は閉ざされる。だから今回は非公式に、フォルクとマルティン、そして信頼できる数名の手配のみで向かう。夜明け前に馬を走らせ、城門をくぐると、ヴァレンティンの館は薄霧の中に浮かんでいた。石造りの建物は豪奢で、人の手が入った庭園は静謐だ。だがその静謐さが、最も危険だということを私は知っている。
門番に問われる前に、私たちは裏の小さな蔵へと回り込んだ。ここは表からは見えぬ倉庫が隠されていると、フォルクが港筋の人間から聞き及んでいた場所だ。古い扉を押し開けると、歳月の匂いが鼻を衝く。箱と箱の重なり、その間に隠し棚。私は手を伸ばし、慎重に紙箱の一つを引き出した。
中には封蝋で閉じられた文書が数通、そして小さな金属の管が一つ。封蝋の紋はまぎれもなく、三日月の中の細い十字だ。私は息を詰めて一つを開く。そこに書かれていたのは、公的な書簡の写しと、複数の支払い指示書だった。日付は舞踏会前後に固まっており、受取人は「ヴァルター(司令)」という記載があった。更にその下には、小さな走り書きが付されている――「次の実地は侯爵邸。試験体は確保。E.の血は有効。次は心理操作の段」
私の手が震えた。これが遺書の裏付けとなる物的証拠だ。裏で誰かが記録を残し、痕跡を隠すつもりで残している。なぜ残すのか──自信か、傲慢か、それとも誰かが最終的に帳尻を合わせるために備忘のように残したのか。だがどちらにせよ、ここに核心の一端があった。
蔵を出ると、冷たい風が顔を打った。霧が薄れて遠景に城の塔が見える。だが私はその場で停まり、胸の中にあった小さな胸騒ぎを確認した。手にした書簡の裏に、また一つの符号が隠れている。小さく刻まれた、その符号は私が既に見たものだ――侯爵家の何処かに残る極小の印と酷似している。名が繋がる。人脈が輪になる。
その夜、屋敷に戻ると、書斎の机の上に一通の便箋が置かれていた。差出人は無名、封もない。ただ一言だけ——
「刃を研ぎ続けよ。真実は血で洗われるのではなく、記録で白日の下に晒される」
署名はなかった。だが手の引き具合、言葉の調子、そして封蝋の微かな匂い。私は目を閉じ、深く息をついた。刃を研ぐ。記録を揃える。私の復讐は、今や個人の怒り以上のものになっていた。Vの影が確かにそこにある。切るべき糸がある。次に私がするのは──その糸を一本ずつ、恐れずに断ち切ることだった。