第十四章 残響と遺書
セドリクが連行されてから数日、王都は眠れぬ街のようにざわめき続けた。彼の拘束は大きな一撃だったが、私にはその音がどこか頼りなく聞こえた。長い糸の一節が切れただけで、網の核心はまだ指の間に残っている──そう直感していた。だが民は勝利を欲し、法廷は祭りのように回り、私の提示した証拠は世に受け入れられた。公的な枠組みが動き出したことは確かな前進だった。
王城は忙しく、それに伴って我々の手配も変わる。マルクスは格式をもって公的手続きの先頭に立ち、国外使節は我々の提示を各国の代表に逐一説明した。ヴァルターは病床に伏しながら断片を吐露し、フォルクと私は屋敷に張り付いて次の動きに備えた。マルティンは細やかに家の安全を固め、セラは南方の商会で新たに見つかった書類を運んできた。だが私の心は一向に静まらない。真実は、まだ私の前で笑っていた。
第一の収穫として、オルフェウス号の帳面は明確な金融の流れを示した。南方商会→中継役→某顧問筋──金は封筒で北門へ流れ、そこから一部は侯爵家の「私室」へと回されていた。だが「私室」という文字が、必ずしも侯爵の自発的な署名を意味するとは限らない。偽造も可能だし、押印のすり替えも可能だ。私が欲しいのは「誰が差し出したのか」「誰が命じたのか」という一点だった。
そこで、私は法の網を潜らせつつ、違う角度から攻めることにした。公的手続きがゆっくりと回る間に、我々は「人的証拠」を集める。声として残る証言、匂いとして残る記憶、そして人の行動の連鎖だ。演出が精妙であればあるほど、生身の人だけが矛盾を割り出す。そこで私は、セドリクの取り調べに立ち会うことを申し入れた。公的には禁じられるところもあったが、マルクスは条件付きで認めた。彼もまた、空気の読み合いで動く男だった。
取り調べ室は冷たく、窓には格子が入っていた。セドリクは色褪せた礼服に身を包み、だが顔色は悪くはなかった。捕らわれた者らしい疲労と、どこか余裕を残す微笑み。彼は私を見るとゆっくりと頷いた。
「アレクサンドラ殿。我々は同じ舞台で違う役を演じていただけだ。だが貴女は台本を破いた。興味深い」
私の問いは直接的だ。「侯爵の命、あるいは王城の誰かの命令で動いたのか。『戻す』を試験する目的を述べよ。あなたは誰の使いか」
彼は一瞬黙り、そして静かに語り始めた。口調は淡々としているが、言葉の端々に計算がある。
「全ては“国家の均衡”という言葉の名で動いた。君が言う“顧問筋”は、それ以上のものだ。彼らは名目上、王城の外郭にいる者たち。だが実権は影の会合にあり、我々はそこを『竜鱗』と呼んでいた。竜鱗は商利や鉱山、禁制の薬までを手中に収め、必要な時に国家の都合を演出する。君が消えた夜、彼らは新しい“触媒”の可否を問うていた。私は単なる執行者に過ぎぬ」
私は次の針を刺した。「誰が竜鱗を動かしている。誰の顔が一枚ずつ仮面を被っているのか」
セドリクは肩を竦めた。「名ではなく位置で動く。王城の中枢に近い者もいれば、貴族でありながら商会に顔の利く者もいる。最も危険なのは、王の側近と称される“助言者”が、自らの正当性を示すためにこうした実験を望んだことだ。だが、真人間が一人、皆を統括していると言うより、利益と恐れが連鎖している」彼の言葉は謎かけのようで、核心を突き切らない。
マルクスが冷ややかに割り込み、手早く証拠の扱いを定めようとした。だが私はセドリクの言葉を深く噛み締める。彼は「名」を出すつもりはない。出せば誰かが崩れる。だが出さねば再び舞台は組み直される。ここで私は別の道を選んだ──直接の暴露ではなく、相手の動機と紐の端を露にする策略だ。
数日後、私たちは小さな勝利を得た。南方商会の幹部数名が更なる書類と共に拘束され、書類の中から「竜鱗」の小さなタグと顧客リストの断片が出た。その中には、王城のある役職名と、ある使節団の名が並んでいた。名はまだ不完全だが、確かな方向性が見えた。竜鱗は散らばった利権の集合体であり、その“指示”は一つの人物の欲望ではなく、多数の利害の圧縮によって生まれていた。
夜、私は独り書斎に残り、夫の肖像画を見上げた。エドゥアルトは、今回の一件で公の場に出るたびに顔色を変え、私を見たときの視線も微妙に揺れる。彼が本当に私を「殺させた」のか。それとも――彼は誰かに脅され、あるいは利用されたのか。真実を知りたいという衝動が、復讐という名の情念の中でどれほど正当なものかを私は自問した。
記録は私にある。だが記録が示すものが「因果」か「連鎖」かは、別の問いだ。私は自らの復讐が“私刑”にならぬよう、そして同時に真に責任を負うべき者に刃を向けられるよう、慎重に糸を引かねばならない。侯爵がどれほど深く関わるかに関わらず、私の望みは単純だ――私を奪ったものに答えを聞くこと、そしてその答えをこの国の前で示すこと。
やがて、端緒が現れたのは意外な形だった。拘束された文書の中に挟まっていた一通の封書。差出人は匿名だったが、封蝋の裏に極小さく刻まれた印があった──薄い鱗模様の中に、細い十字の刻。私はその印を知っていた。かつて侯爵の側近の一人が、秘匿の印として所持していたものと似ていたのだ。だが重要なのはそれだけではない。封書の中身は、ある「遺書」に近かった。
羊皮紙に書かれた短い文面は震えていたが、言葉は明瞭だった。──「もし私が消えるようなことがあれば、この封を開けよ。王城の名にて我が行いを正当化せんとする者たちの名は、ここに記す。私は恐れの中で書くが、書かねば後世に禍根を残す。E.の名は紙面にある。その傍らにある者の名も。真に恐るべきは、王の側に近い者たちの欲だ。——V.」
署名は一文字、V。ヴァルター……だろうか、あるいは別のVを持つ誰かか。だが文面の内容は衝撃的だった。遺書は、誰かが既に良心の呵責に駆られて記したもののようにも見える。もしこれが真実を指し示すなら、私が引いた紐の先には、単なる商会の利得や顧問団の欲では説明のつかぬ、もっと根深い事情がある。
私は静かに紙を胸に抱えた。書斎の灯りが微かに揺れ、外の街は眠りを取り戻している。だが私の内部は覚醒していた。刃はまだ振るわれてはいない。だが刃を研ぐ音は確かに聞こえている。遺書は一つの手掛かりだ。だがそれが本物なら、次に何をするべきかは分かっている──ヴァルターの出自と繋がる「V」の正体を暴くこと。もしそれが王城の更に上の者を示すなら、私は——何を選ぶのか。
夜の静寂の中で、私は窓を見つめながら小さく呟いた。「真実を見つける。それだけだ」
だが心の片隅で、もう一つの声が囁く。復讐は真実と正義のどちらを優先するか、と。私はその声をまだ退けることができなかった。